旅行前、敦賀についてまったく知識がなかったのでスーツさんの動画を見ました
この中で、むかし敦賀港は日本の玄関だった!という話があったのと。
電車のなかのフリーペーパーに
こちらの3月号より
フランスに渡った与謝野晶子さんも、当時このルートを利用した!
とあったので、ぜひとも敦賀港や街の様子を見ておきたいと思い
こちらのバスに乗って〜
こちらや
人道の港 敦賀ムゼウムでは、
敦賀港だからこそ伝えられる「命」の大切さと「平和」の尊さを、これからも発信していきます。
<ムゼウムとはポーランド語で「資料館」という意味があります>
明治から昭和初期にかけて、敦賀港はシベリア鉄道を経由してヨーロッパ各都市と日本を結ぶ国際港としての役割を担いました。国際港として発展した敦賀港は、1920年代にロシア革命の動乱によりシベリアで家族を失ったポーランド孤児が、1940年代には杉原千畝氏の発給した「命のビザ」を携えたユダヤ難民が上陸した日本で唯一の港であり、当時のまちのひとたちが彼らを温かく迎え入れた「人道の港」としての歴史があります。
上記サイトより抜粋
こちらを
敦賀市は、古くから大陸と日本の交流が日本海を介して行われてきた中で、天然の良港を有し、後背地に京阪神及び中京の2大都市圏が控える交通の要衝として発展してきました。
この立地を活かし日本海側で初めて敦賀-長浜間に鉄道が敷設されました。その後、敦賀-ウラジオストク間の直通定期船の就航と新橋-金ヶ崎間の欧亜国際連絡列車の運行により、わが国と大陸ヨーロッパをつなぐ国際都市となり、敦賀市の発展は「鉄道と港」とともにあったといえます。
敦賀赤レンガ倉庫は、明治38年にアメリカの石油会社「紐育(ニューヨーク)スタンダードカンパニー」によって建設された石油貯蔵用の倉庫です。欧亜国際連絡列車が発着する敦賀港駅からロシアを経てヨーロッパにつながる国際都市として敦賀が繁栄した時代、明治中期から昭和初期の敦賀港を象徴する施設となっています。
(上記サイトより抜粋)
バスの中から外観だけ見てきました〜
雨だったので〜
(賢そうなお子さま連れのご家族は下車していかれていました。我が家も娘が5年生、6年生だったら雨の中でも下車してたかも…)
しか〜し!
バスの中からだけでしたが、廃線を目にすることができたり。現在も貨物船は行き来しているのでたくさんのコンテナがあったりと。当時の面影と現在の敦賀港の役割がよくわかりました
また、翌日は別ルートのバスに乗って
こちらにも行ってきました。
越前ガニが魅力的でしたが…
購入したのは、なぜか曲げわっぱ
しかも、和歌山産。
敦賀とぜんぜん関係ない〜
でも、とても良いお買い物でした
このあたりは、いろいろな意味で忘れられない思い出です。
敦賀のあとは、越前たけふ駅→鯖江駅→福井駅→芦原温泉駅と北上。
福井旅行の記録、まだまだつづきます…