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岩村城の歴史


 岩村城の歴史は古く、鎌倉時代初頭まで遡ります。
 古くこのあたりは遠山荘と呼ばれました。鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の重臣、加藤景廉に遠山荘が与えられました。景廉は承久3年〈1221年〉に亡くなると、遠山荘は長男の景朝が相続し、景朝は岩村に城を築き本拠とし、遠山姓を名乗るようになりました。以来遠山氏は東濃一帯に蟠踞し、明知や苗木に城を築き明知遠山氏、苗木遠山氏を名乗ります。ちなみに“遠山の金さん”で知られる江戸町奉行遠山景元は、明知遠山氏の末裔になります。遠山氏は室町時代に入ると美濃守護となる土岐氏や、斉藤氏の配下になります。



女城主の城


おつやの方

おつやの方


 戦国時代、岩村城主 遠山景任(かげとう)のもとに織田信長の叔母のおつやの方が嫁ぎます。織田家はお市の方に見られるように美人を輩出した家系で、おつやの方も大変美しい女性だといわれています。
 しかし二人の間には子供がいないまま、元亀3年〈1572年)、景任は病気で亡くなります。そこで信長は五男の坊丸〈後の織田勝長)を養子に送り込みますが、坊丸はまだ幼かったため、おつやの方が後見となり、事実上の城主となりました。
 この時期、織田信長と甲斐の武田信玄は激しく争い、その間にある岩村城は、戦に巻き込まれていました。岩村城は秋山信友ら、武田の精鋭に取り囲まれました。女城主となったおつやの方が奮戦し、なかなか落城する様子を見せません。そこで秋山信友はおつやの方と婚姻を結び、坊丸に家督を譲ことを条件に開城を迫りました。おつやの方はこの条件を受け入れ、岩村城を武田方に開城し、秋山信友と婚姻を結びましたが、坊丸は人質として甲斐の信玄の元に送られました。信長はおつやの方の裏切り行為に、大いに激怒し、岩村城を奪還するために兵を送りますが、武田勢に阻まれ攻めあぐねてしまいました。
 信玄は三方ヶ原の戦いで徳川家康を破るものの、翌年に病に倒れ、武田勝頼が家督を継ぎます。その勝頼も天正3年〈1575年〉の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗すると、信長は長男信忠を総大将に岩村城に大軍を送り込みました。しかし岩村城は善戦し、なかなか落ちません。しかし次第に兵量が尽き、城兵は飢えるようになります。秋山信友は城兵を助けることを条件に岩村城を開城しました。しかし信長は秋山信友とその夫人、おつやの方を捕らえ岐阜に運ばせ、長良川河畔で“逆磔刑”に処しました。
 坊丸は武田氏が滅びる前年の天正9年〈1581年〉に織田家に引き渡され、元服し織田勝長と名乗り、犬山城主となりました。その後は兄信忠の与力となりますが、翌年の本能寺の変の際、信忠とともに二条御所に籠もり、討ち死にしました。




その後の岩村城


 岩村城を武田方から奪還した信長は、重臣の河尻秀隆を岩村城主に送り込みます。その後、川尻氏が甲斐に移り団忠政が城主となりますが、本能寺の変で討ち死にすると、信濃を追われた森長可(ながよし・森蘭丸の兄)が岩村城を接収し、家老の各務元正が城代として入ります。小牧長久手の戦いの際、岩村城は徳川方に与した明知の遠山年景に攻められますが、各務元正はこれを撃退しました。しかし長久手の戦いで森長可は討ち死にし、嫡男の森忠政が森家を引き継ぎ、慶長4年〈1599年〉に信濃松代に移封されるまで森氏が支配しました。この間 城代各務元正の手により近世城郭へと生まれ変わりました。 森氏の後は田丸直昌が岩村城主となりますが、慶長5年〈1600年〉関ヶ原の戦いで西軍に付いたために改易され、譜代の大給松平家、松平家乗が入城します。家乗は不便な山上の本丸にあった城主居館を麓に移し、城下町を整備しました。
 寛永15年〈1638年)、大給松平氏が遠州浜松藩に移封されると、三河伊保藩から丹羽氏信が入城します。氏信の父、氏次は尾張岩崎(日進市)城主で、長久手の戦いでは自身は家康に従い小牧に参陣し、岩崎城は弟の氏重に守らせました。その岩崎城を豊臣秀吉の甥、三好秀次の大軍に攻められます。岩崎城は善戦しますが多勢に無勢で落城し、氏重は討ち死にします。しかしその間に小牧山の徳川家康が長久手に移り豊臣軍の背後を攻め、森長可、池田恒興をはじめ、多くの豊臣方の武将を討ちました。
丹羽氏は五代続きますが、五代目の氏音(うじおと)の時にお家騒動が起こり、元禄15年〈1702年〉9000石を没収され、越後国高柳藩1万石に移封になりました。代わりに入ったのが大給松平氏の一族である松平乗紀(のりただ)が入封します。以来7代にわたり岩村藩主となり明治維新を迎えました。



本丸

本丸


 本丸は南北65メートル、東西32メートルの広さがあり、北と東の二カ所に虎口が開かれていました。東西に多門櫓、北と南に櫓を設け、厳重な防備を誇っていました。


本丸長局

本丸下長局


 岩村城は周りを木々で覆われており、視界は余りよくありませんが、北東部方面だけは開けており、恵那山などを望むことが出来ます。



本丸北東部

本丸北東部 六段壁


 当初は一段の高石垣だったようですが、崩落を防ぐために、前面に石垣を張り出させて補強し、現代の姿になったようです。アンデスのマチュピチュを彷彿させます。


 



東曲輪

東曲輪


 本丸の東側にある曲輪です。



二の丸菱曲輪

二の丸 菱櫓


 本丸の北側に二の丸があります。 菱櫓は櫓の敷地が菱形であったことから名付けられました。菱形の櫓は大坂城本丸北側の山里曲輪などに見られるだけで、珍しいものです。




出丸

出丸


 本丸の南西部に在り、、現在は休憩所や手洗いとなる櫓風の建物や、駐車場になっています。




八幡曲輪

八幡曲輪(くるわ)


 岩村城の鎮守である八幡社がありました。




霧ヶ井

霧ヶ井


 敵に攻められたときに、この井戸に秘蔵の蛇骨を投入すると、霧が湧き出し城を覆い、敵から城を守ったという伝説があります。
 このあたりは標高が高く、盆地状で霧がよく発生することから、別名“霧ヶ城”と呼ばれています。





太鼓櫓

城主居館跡


 関ヶ原の合戦の後、岩村藩主となった大給松平氏、松平家乗は、不便な山上の本丸から、城下町に近い麓に城主居館を移しました。
 明治6年〈1873年〉に城郭は解体されましたが、城主居館は残されました。しかし明治14年〈1881年〉に失火で全焼してしまいました。
 敷地には昭和47年に岩村町歴史資料館が開館、平成2年には太鼓櫓、表御門、平重門などが再建されました。

徳川斉荘(なりたか)



 最後に尾張の茶道文化を高めた12代尾張藩主、徳川斉荘について書きます。
 尾張徳川家は9代宗睦(むねちか)の時代、跡継ぎが次々と亡くなったため、将軍家に近い一橋家から斉朝が養子として入り、宗睦が亡くなると尾張藩を相続します。斉朝には子供かいなかったため、将軍家斉の19男斉温(なりはる)を養子に迎え、天保10年〈1827年〉に斉朝が隠居すると、斉温が尾張藩主となります。しかし斉温は天保10年〈1839年〉に20歳の若さで亡くなり、斉温の兄で家斉の12男の斉荘が尾張藩主となりました。
 斉荘は茶道に造詣が深く、元家老の渡辺規綱の実弟で、裏千家11代当主の玄々斎とは同じ歳ということもあり意気投合し、玄々斎を重用しました。それまでの尾張藩の茶道は織田有楽斎の有楽流の一派である尾州有楽流でしたが、斉荘はこれを裏千家に換えました。田舎流だった尾張の茶道は洗練されたものになり、町衆まで広がり大いに発展し、尾張全体の文化レベルが向上しました。しかし斉荘は弘化2年〈1845年〉に35歳で亡くなります。その治世は僅か7年余りでした。
 不幸にも尾張藩内では、斉荘の尾張藩主就任に不満を持つ者も少なくありませんでした。先代の斉温が病弱で、一度も尾張入りをせず亡くなり、藩政を蔑ろにしているように見られ、その後を継いだ斉荘は幕府からの押しつけ藩主として反感を持たれたからです。斉荘自身は藩主になると、不人気だった倹約令をあらため藩士たちとの融和を図ろうとしますが、必ずしも上手く行かず、さらに財政が悪化したため、「茶にうつつを抜かして政治を蔑ろにした」と悪評が先に立ちました。
 尾張藩内には支藩である高須藩の松平義恕〈よしくみ、後の徳川慶勝)を押す声が強く、金鉄党という党を結成しました。その反対勢力が金や鉄を溶かすために空気を送るふいごから、ふいご党を結成し、その対立は幕末まで続きました。金鉄党が尊皇派となり、ふいご党が佐幕派となり、藩内を二分し、後々大きな悲劇の元となりました。
 斉荘の後を継いだのが、田安家出身の徳川慶臧(よしつぐ)です。慶臧は越前藩主松平慶永〈春嶽〉の実弟で、優秀な少年だったようですが、嘉永2年〈1849年〉、わずか13歳で亡くなりました。相次ぎ紀州系の藩主が短命に終わり、尾張藩内には不穏の空気が流れ、幕府も新たに藩主を押しつけることが出来ず、高須藩出身の松平義恕を藩主に迎え、徳川慶勝となりました。慶勝は裏千家に換えた尾張の茶道を再び尾州有楽流に戻します。
 大政奉還時、慶勝は議定として新政府に入りました。慶応4年〈1868年〉鳥羽伏見の戦いで薩長軍が勝利すると、尾張国内では金鉄党が京への派兵を唱え、佐幕派のふいご党はそれに反対し、藩内が対立しました。その不穏な空気を知った慶勝は、使者を尾張に送り、佐幕派の者たちを断罪しました。斬首が十四名と、その処罰は過酷なものでした。
 断罪されたふいご党の首領が、渡辺半蔵家の分家の渡辺新左衛門在綱で、彼の家が“青松葉”の異名を名乗っていたことから、この事件を“青松葉事件”と呼びました。
 事件の真相は不明のままですが、厳しい断罪の背景には、新政府の圧力があったものと思われます。


渡辺規綱


 規綱は寛政4年〈1792年〉奥殿藩大給松平家の松平乗友の次男として生まれました。享和2年〈1802年〉叔父で尾張藩家老である渡辺綱光の養子となり、文化元年〈1804年〉に家督を継ぎ、文化14年〈1817年〉尾張藩家老になります。
 文政二年〈1819年〉、家督を嫡男の寧綱(やすつな)に譲り隠居します。しかし寧綱自身、まだ9歳と幼く、実際の政務は規綱が執りました。天保6年〈1835年〉に出家し兵庫入道と名乗ります。この少し前の40歳頃から事実上の隠居生活に入り、又日庵(ゆうじつあん)という名で茶道や作陶にいそしみました。捻駕籠の席は天保3年〈1832年)に建てられたものです。
 寧綱は万延元年〈1860年〉に51歳で亡くなり、家督は寧綱の嫡男、綱倫(つなとも)が後を継ぎます。しかし綱倫は元治元年〈1864年〉の禁門の変の際、京都御所の守備に当たりますが、長州軍に敗れ、その責任を取り切腹しました。渡辺家は生まれたばかりの綱聡が後を継ぎ、規綱が後見役となりました。
 規綱は明治4年〈1871年〉、80歳で亡くなりました。





渡辺家と大給松平家

 渡辺家は大江山の鬼退治で知られる、嵯峨源氏の武将、渡辺綱の末裔と自称し、代々“綱”の字を通字に使いました。古くから三河に住み松平家に仕えてきました。
 渡辺半蔵守綱は槍の名手で「槍の半蔵」と言われ、姉川の戦い、三方原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いで活躍し徳川16将の一人に数えられます。家康の関東移封後は、比企郡に三千石の領地が宛がわれ、後に一千石加増され、四千石の旗本になりました。
 慶長18年(1613年)に家康の九男で尾張藩主の徳川義直の付け家老に命じられ、尾張藩より五千石、幕府より寺部(豊田市)に五千石が宛がわれ、旧領と合わせ合計一万四千石の大名格となりました。尾張藩内では成瀬家、竹越家に次ぐ地位です。大坂の陣では義直の補佐として活躍し、元和4年(1620年)に七十九歳で亡くなりました。
 その子孫は代々、尾張藩の家老格として仕えました。



寺部城祉





「捻駕籠の席」を建てた渡辺規綱は、第十代の渡辺家当主となります。規綱は三河の奥殿藩大給松平家から渡辺家に養子に入った人物です。渡辺家は奥殿藩大給松平家との関係が深く、先代の綱光もまた大給松平家から養子に迎えられ、規綱は甥に当たります。
 規綱は茶道に秀でて、茶道では又日庵として知られました。裏千家十一代当主で裏千家中興の祖と言われる玄々斎は18歳歳下の実弟になりますが、若い頃、規綱の元に寄宿しており、規綱から茶道の手ほどきを受けたと言われています。
 規綱や玄々斎の実兄である六代藩主乗羨(のりよし)は、京都の二条城在番中に裏千家十代の認得斎と昵懇になり、認得斎に男子がいなかったために、二人の間で玄々斎の養子縁組が取り決められたといわれています。
 また兄弟の実父である四代藩主松平乗友も書画を嗜んでいて、風流な一族と言えます。



奥殿陣屋





 余談ですが乗羨の孫に当たる8代松平乗謨(のりかた)は洋学に精通し、信濃の奥殿藩領である田野口に、五稜郭を小型化したような西洋風星形稜堡城郭の龍岡城を築き、藩庁を奥殿から移しました。乗謨は陸軍奉行、若年寄、老中、陸軍総裁など幕府の要職を歴任しました。明治維新後は大給恒(ゆずる)と名を改め、明治10年(1877年)の西南戦争の際、佐賀藩出身の佐野常民と熊本洋学校に博愛社を設立、敵味方分け隔てなく救護し、日本赤十字社の前身となりました。



龍岡城祉





 幕末に長崎海軍伝習所の総監や外国奉行、若年寄などを勤めた永井尚志(なおゆき)は乗友の弟で、五代奥殿藩主松平乗尹(のりただ)の実子になり、規綱たちとは従兄弟の関係になります。尚志が生まれたときには、奥殿藩の次期藩主は乗羨に決まっていたので、二千石の旗本永井氏の養子になりました。永井氏は美濃加納藩永井氏の分家になります。尚志は大政奉還時の若年寄で、朝廷との交渉に力を発揮しました。鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れると、慶喜とともに軍艦で江戸に戻り、その後、榎本武揚とともに蝦夷に渡り箱館奉行になり、榎本たちと官軍と戦いましたが敗れ、降伏しました。
 その後明治政府により許され、明治5年〈1872年〉に新政府に出仕し、開拓使御用係、左院小議官、明治8年〈1875年〉には元老院権大書記官に任じられました。
 作家三島由紀夫(本名、平岡公威〈きみたけ〉)の祖母、平岡なつの父で大審院判事であった永井岩之丞は、尚志の養子になります。