南山寿荘・捻駕籠の席 その二 | にっくんのブログ

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渡辺規綱


 規綱は寛政4年〈1792年〉奥殿藩大給松平家の松平乗友の次男として生まれました。享和2年〈1802年〉叔父で尾張藩家老である渡辺綱光の養子となり、文化元年〈1804年〉に家督を継ぎ、文化14年〈1817年〉尾張藩家老になります。
 文政二年〈1819年〉、家督を嫡男の寧綱(やすつな)に譲り隠居します。しかし寧綱自身、まだ9歳と幼く、実際の政務は規綱が執りました。天保6年〈1835年〉に出家し兵庫入道と名乗ります。この少し前の40歳頃から事実上の隠居生活に入り、又日庵(ゆうじつあん)という名で茶道や作陶にいそしみました。捻駕籠の席は天保3年〈1832年)に建てられたものです。
 寧綱は万延元年〈1860年〉に51歳で亡くなり、家督は寧綱の嫡男、綱倫(つなとも)が後を継ぎます。しかし綱倫は元治元年〈1864年〉の禁門の変の際、京都御所の守備に当たりますが、長州軍に敗れ、その責任を取り切腹しました。渡辺家は生まれたばかりの綱聡が後を継ぎ、規綱が後見役となりました。
 規綱は明治4年〈1871年〉、80歳で亡くなりました。





渡辺家と大給松平家

 渡辺家は大江山の鬼退治で知られる、嵯峨源氏の武将、渡辺綱の末裔と自称し、代々“綱”の字を通字に使いました。古くから三河に住み松平家に仕えてきました。
 渡辺半蔵守綱は槍の名手で「槍の半蔵」と言われ、姉川の戦い、三方原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いで活躍し徳川16将の一人に数えられます。家康の関東移封後は、比企郡に三千石の領地が宛がわれ、後に一千石加増され、四千石の旗本になりました。
 慶長18年(1613年)に家康の九男で尾張藩主の徳川義直の付け家老に命じられ、尾張藩より五千石、幕府より寺部(豊田市)に五千石が宛がわれ、旧領と合わせ合計一万四千石の大名格となりました。尾張藩内では成瀬家、竹越家に次ぐ地位です。大坂の陣では義直の補佐として活躍し、元和4年(1620年)に七十九歳で亡くなりました。
 その子孫は代々、尾張藩の家老格として仕えました。



寺部城祉





「捻駕籠の席」を建てた渡辺規綱は、第十代の渡辺家当主となります。規綱は三河の奥殿藩大給松平家から渡辺家に養子に入った人物です。渡辺家は奥殿藩大給松平家との関係が深く、先代の綱光もまた大給松平家から養子に迎えられ、規綱は甥に当たります。
 規綱は茶道に秀でて、茶道では又日庵として知られました。裏千家十一代当主で裏千家中興の祖と言われる玄々斎は18歳歳下の実弟になりますが、若い頃、規綱の元に寄宿しており、規綱から茶道の手ほどきを受けたと言われています。
 規綱や玄々斎の実兄である六代藩主乗羨(のりよし)は、京都の二条城在番中に裏千家十代の認得斎と昵懇になり、認得斎に男子がいなかったために、二人の間で玄々斎の養子縁組が取り決められたといわれています。
 また兄弟の実父である四代藩主松平乗友も書画を嗜んでいて、風流な一族と言えます。



奥殿陣屋





 余談ですが乗羨の孫に当たる8代松平乗謨(のりかた)は洋学に精通し、信濃の奥殿藩領である田野口に、五稜郭を小型化したような西洋風星形稜堡城郭の龍岡城を築き、藩庁を奥殿から移しました。乗謨は陸軍奉行、若年寄、老中、陸軍総裁など幕府の要職を歴任しました。明治維新後は大給恒(ゆずる)と名を改め、明治10年(1877年)の西南戦争の際、佐賀藩出身の佐野常民と熊本洋学校に博愛社を設立、敵味方分け隔てなく救護し、日本赤十字社の前身となりました。



龍岡城祉





 幕末に長崎海軍伝習所の総監や外国奉行、若年寄などを勤めた永井尚志(なおゆき)は乗友の弟で、五代奥殿藩主松平乗尹(のりただ)の実子になり、規綱たちとは従兄弟の関係になります。尚志が生まれたときには、奥殿藩の次期藩主は乗羨に決まっていたので、二千石の旗本永井氏の養子になりました。永井氏は美濃加納藩永井氏の分家になります。尚志は大政奉還時の若年寄で、朝廷との交渉に力を発揮しました。鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れると、慶喜とともに軍艦で江戸に戻り、その後、榎本武揚とともに蝦夷に渡り箱館奉行になり、榎本たちと官軍と戦いましたが敗れ、降伏しました。
 その後明治政府により許され、明治5年〈1872年〉に新政府に出仕し、開拓使御用係、左院小議官、明治8年〈1875年〉には元老院権大書記官に任じられました。
 作家三島由紀夫(本名、平岡公威〈きみたけ〉)の祖母、平岡なつの父で大審院判事であった永井岩之丞は、尚志の養子になります。