南山寿荘・捻駕籠の席 その三 | にっくんのブログ

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徳川斉荘(なりたか)



 最後に尾張の茶道文化を高めた12代尾張藩主、徳川斉荘について書きます。
 尾張徳川家は9代宗睦(むねちか)の時代、跡継ぎが次々と亡くなったため、将軍家に近い一橋家から斉朝が養子として入り、宗睦が亡くなると尾張藩を相続します。斉朝には子供かいなかったため、将軍家斉の19男斉温(なりはる)を養子に迎え、天保10年〈1827年〉に斉朝が隠居すると、斉温が尾張藩主となります。しかし斉温は天保10年〈1839年〉に20歳の若さで亡くなり、斉温の兄で家斉の12男の斉荘が尾張藩主となりました。
 斉荘は茶道に造詣が深く、元家老の渡辺規綱の実弟で、裏千家11代当主の玄々斎とは同じ歳ということもあり意気投合し、玄々斎を重用しました。それまでの尾張藩の茶道は織田有楽斎の有楽流の一派である尾州有楽流でしたが、斉荘はこれを裏千家に換えました。田舎流だった尾張の茶道は洗練されたものになり、町衆まで広がり大いに発展し、尾張全体の文化レベルが向上しました。しかし斉荘は弘化2年〈1845年〉に35歳で亡くなります。その治世は僅か7年余りでした。
 不幸にも尾張藩内では、斉荘の尾張藩主就任に不満を持つ者も少なくありませんでした。先代の斉温が病弱で、一度も尾張入りをせず亡くなり、藩政を蔑ろにしているように見られ、その後を継いだ斉荘は幕府からの押しつけ藩主として反感を持たれたからです。斉荘自身は藩主になると、不人気だった倹約令をあらため藩士たちとの融和を図ろうとしますが、必ずしも上手く行かず、さらに財政が悪化したため、「茶にうつつを抜かして政治を蔑ろにした」と悪評が先に立ちました。
 尾張藩内には支藩である高須藩の松平義恕〈よしくみ、後の徳川慶勝)を押す声が強く、金鉄党という党を結成しました。その反対勢力が金や鉄を溶かすために空気を送るふいごから、ふいご党を結成し、その対立は幕末まで続きました。金鉄党が尊皇派となり、ふいご党が佐幕派となり、藩内を二分し、後々大きな悲劇の元となりました。
 斉荘の後を継いだのが、田安家出身の徳川慶臧(よしつぐ)です。慶臧は越前藩主松平慶永〈春嶽〉の実弟で、優秀な少年だったようですが、嘉永2年〈1849年〉、わずか13歳で亡くなりました。相次ぎ紀州系の藩主が短命に終わり、尾張藩内には不穏の空気が流れ、幕府も新たに藩主を押しつけることが出来ず、高須藩出身の松平義恕を藩主に迎え、徳川慶勝となりました。慶勝は裏千家に換えた尾張の茶道を再び尾州有楽流に戻します。
 大政奉還時、慶勝は議定として新政府に入りました。慶応4年〈1868年〉鳥羽伏見の戦いで薩長軍が勝利すると、尾張国内では金鉄党が京への派兵を唱え、佐幕派のふいご党はそれに反対し、藩内が対立しました。その不穏な空気を知った慶勝は、使者を尾張に送り、佐幕派の者たちを断罪しました。斬首が十四名と、その処罰は過酷なものでした。
 断罪されたふいご党の首領が、渡辺半蔵家の分家の渡辺新左衛門在綱で、彼の家が“青松葉”の異名を名乗っていたことから、この事件を“青松葉事件”と呼びました。
 事件の真相は不明のままですが、厳しい断罪の背景には、新政府の圧力があったものと思われます。