金沢市老舗記念館
老舗記念館
金沢市老舗記念館は、江戸時代から続く中屋薬舗という薬種商で、中屋家から金沢市に寄贈され、平成元年に現在の地に移築し伝統的町民文化の展示施設として開館しました。
中屋家は天正7年(1579年)、中屋彦兵衛が薬種業を始めたことを起源とし、旧南町に店舗を構えていました。五代藩主、綱紀の時代、御殿薬の処方役を拝領し、以後代々町年寄などを務めました。
建物自体は明治11年(1878年)に明治天皇の行幸のために御在所とともに建てられ、大正8年(1919年)に改造されました。木造2階建てで広さは約427平方メートル有ります。一階は表に店の間。裏側におえの間、茶室、座敷、書院などがあり、二階は金沢の伝統的町民文化を紹介する展示場となっています。
店の間
明治期の薬補を再現しています。左手の薬箪笥には各種の薬が入り、その上には古い看板が展示。右手のガラス瓶には漢方薬などが展示されています。奥の丸い看板は、屋根の上に掲げられていたものです。
おえの間
土間から一段上がった「御上」がなまりおえの間と呼ばれました。部屋の中央に囲炉裏が切られた生活の場で、天井がなく二階屋根までの巨大な吹き抜け空間が広がり、太い梁や束や貫といった木組みが剥き出しとなり、屋根を支える構造がわかります。屋根には明かり取りの天窓があり、窓から差し込む陽が空間を照らしています。
訪ねた時は6月末で、加賀花てまり展が行われていて、綺麗な手鞠や花嫁暖簾が展示されていました。
茶室
茶室は4畳半の間取りで、真ん中に炉が切られており、床の間や水屋が備わっていました。金沢の有力商家にはこのように家の中に茶室が有りました。有力商家の主人たちは茶道、華道、香道に精通し、俳諧謡曲を嗜むなど、金沢文化の担い手でした。
二階展示室
二階は50帖の板の間と12帖の畳の間のふた間あり、金沢市内の各老舗の生活諸道具、取扱商品などが展示されています。
金沢婚礼模様
加賀水引細工で造られた結納飾りは、金銀箔をふんだんに使う豪華なもので、松竹梅や鶴亀、鳳凰といったものが水引で造られ展示されています。
箔打ち道具
金箔は金沢の特産品で、全国生産のほとんどが金沢で生産されます。箔打ち紙に挟んで叩き延ばします。箔打ち紙は脂取り紙として使われます。
前田土佐守家資料館
前田土佐守家とは前田利家の次男、利政を起源とする家柄です。利政は豊臣時代に能登を与えられ、七尾城主となります。しかし関ヶ原の合戦では、兄、利長とともに関ヶ原に向かう途中、西軍の小松城主丹羽長重、大聖寺城主山口宗水と戦ったが、小松城を攻めきれず一旦兵を引き兄弟は金沢城、七尾城に戻ります。その後利長が関ヶ原に向け再び兵を動かしたのに対し、利政は七尾に引きこもり兵を動かさなかったため、家康の勘気に触れ、能登の所領は没収され、利長に与えられました。
利政は改易されると、京の嵯峨野に隠棲、慶長9年(1604年)に長男、直之が生まれます。直之は祖母の芳春院(松の方)のもとで養育されました。長男利長に子がいなかったため、芳春院にとり、直之は唯一の男系の孫に当たります。
大阪の陣後、祖母、芳春院の願いで、直之は加賀藩三代藩主で叔父の利常の元に出仕し、二千石が与えられます。元和3年(1617年)に芳春院が71歳で亡くなると、芳春院の化粧料、七千五百石が直之に相続され、その他諸々の加増もあり、一万石と大名級の重臣となりました。
この家系は藩祖利家とその正妻芳春院の直系と言うことで、加賀藩家中の中でも別格扱いとなり、加賀藩の年寄り衆(家老職)、八家の中では最も少ない1万1千石ですが、その筆頭となりました。
前田土佐守家はこの家系10人中、従五位下土佐守に4人が任じられたために、土佐守家と呼ばれるようになりました。
八家とは五代藩主紀綱が制した加賀藩の人持組頭、年寄り衆で、他藩では家老職に当たり、月番制で交代で八家より選ばれました。
加賀八家は本多家5万石。長家3万三千石。横山家3万石。前田土佐守家1万千石。前田長種家2万石。奥村宗家1万7千石。奥村分家1万2千石。村井家1万2500石の八家を指します。
於松の方(芳春院)
前田土佐守家系図
前田土佐守家資料館内の庭園
前田土佐守家資料館は金沢市老舗記念館の向かいに有ります。土佐守家に関する資料が展示されています。