高田家跡長屋門
藩政時代、この地には知行高五百五十九石の中級武士である高田家がありました。
しかし現在は母屋はなく、長屋門と庭が復元されています。
武家屋敷は家禄により土塀や門構えが異なり、中級武家には仲間(ちゅうげん)が暮らす長屋と門が併設された長屋門が許されました。仲間とは武家に仕える最下層の奉公人で、一般的相場として年に三両一人扶持(玄米 約183升)が与えられました。
また四百石以上の武家には長屋門に厩(うまや)を設けることが許され、高田家の長屋門にも長屋門の左側に厩が併設されています。
長屋門説明文
仲間部屋
武家に仕える最下層の奉公人である仲間は長屋門の横にある仲間部屋に住み込み生活しました。
仕事の合間に草鞋造りなどの内職をしました。
高田家庭園
高田家は藩政時代、四百四十三坪ありましたが、現在は約二百七十坪になり、前を流れる大野庄用水から水を引いた、池泉回遊式庭園が造られています。
金沢市足軽資料館
足軽屋敷
足軽とは武家の中でも最も低い身分に属する人々で、戦国時代に団体戦闘要員として活躍しました。しかし江戸時代になると不必要となりその数が大きく減らされました。それでも加賀藩の場合、幕末には藩士の約半数近くに当たる5382人の足軽がいました。
足軽は藩からもらえる禄は平足軽で年に20俵から25俵、小頭で30俵から35俵となっています。ちなみに一俵は現在(明治以降)四斗(72リットル、約60キロ)となっていますが、江戸時代は各藩によって違い、加賀藩の場合、五斗(80リットル)で一俵となっています。
足軽屋敷見取り図
右が清水家、左が高西家の見取り図です。
高西家座敷床の間
足軽は低い身分ながら、普通の武家屋敷同様、接客の間である座敷を中心とした造りとなっています。
清水家茶の間
茶の間で食事の場であり、一家団欒の場でした。江戸時代初期は一日朝夕二食、一汁一菜の質素なものでした。江戸時代中期頃から一日三食になり、おかずも増え豊かになってきました。
清水家の庭
禄の少ない足軽階級の屋敷では、庭は野菜や果物の栽培に使用されました。