国友一貫斎 | にっくんのブログ

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国友一貫斎邸宅

国友一貫斎屋敷



 国友を代表する鉄砲鍛冶である国友一貫斎は代々藤兵衛を名乗り、一貫斎はその九代目でした。一貫斎は鉄砲鍛冶だけではなく、魔境、気砲(空気銃)、鋼製弩弓、反射望遠鏡、御懐中筆(万年筆)、玉燈(ランプ)などを製作し、東洋のエジソンと呼ばれた人物です。
 一貫斎は安永七年(1778年)に生まれ、寛政6年(1796年)に十八歳で家督を継ぎ、九代目藤兵衛を名乗り、年寄脇になりました。
 国友村には四家の年寄と、九家の年寄脇がいましたが、藤兵衛家は代々、年寄脇の家の家柄でした。しかし一貫斎の腕は高く評価されており、文化8年(1811年)に彦根藩の御用掛となり、二百目玉筒の仕事が舞い込んできました。しかし四家の年寄が自分たちを差し置いて、年寄脇が彦根藩から仕事をもらうとはけしからんと大問題となりました。そして幕府に訴えました。これを彦根事件といい、対立は長期化し、文化14年(1817年)に年寄り側が敗れ決着しました。四家の年寄は没落し、一貫斎が国友村の総代に就任しました。この間、文政13年(1816年)に彦根事件で江戸町奉行に呼び出され、江に赴きます。このときに国学者の平田篤胤と親しくなりました。
 文政元年(1818年)に再び江戸に赴きます。このとき、かねてから親交のあった大坂の蘭学医で御用医である山田大円から阿蘭陀風砲(空気銃)の修理を頼まれます。一貫斎は修理だけではなく、風砲の製作を試み、翌年には阿蘭陀風砲の欠点を改良した風砲を完成し気砲と名付けました。一貫斎の気砲はたちまち噂になり、水戸家をはじめ大名家などから仕事が舞い込んできました。しかし文政3年に製造が禁じられましたが、その後も改良を加え、二十連発の早撃ち気砲を完成させています。
文政3年(1820年)平田篤胤の門人となります。その年、成瀬隼人正寿の屋敷で天体望遠鏡を初めて見ます。
 文政4年(1821年)に国友村に戻ります。そして魔境、鋼製弩弓、御懐中筆、玉燈などを完成していきました。



国友一貫斎邸宅二

一貫斎屋敷



 天保3年(1832年)に天体反射望遠鏡の製作を試みます。翌年天保4年には完成しました。これが日本で最初の反射式天体望遠鏡だと言われています。一貫斎の製作した天体望遠鏡は、十台ほどだと言われていますが現在四台が確認出来ます。その大きさはまちまちですが、口径はだいたい60ミリ前後のグレゴリー式反射望遠鏡でした。
 その年の10月から天体観測を始めました。一貫斎の天体観測は木星などの惑星や月面などを観測しました。最初の望遠鏡は精度があまりよくありませんでしたが、その後、改良を加え、かなりの精度になったと言われています。
 天保6年(1835年)からは太陽の黒点を連続して観測し、その観測記録が残っています。これは世界的に見ても貴重な資料と言われています。
 しかしちょうどその頃、天保の飢饉が起こり、東北や関東では凶作が続き、米価が高騰します。そして天保7年に国友の北側を流れる姉川が氾濫し田畑や家屋が流され、国友村の村民は困窮していきました。それを見かねた一貫斎は天体望遠鏡を売却、そのお金で窮乏を凌ぐことが出来ました。
 その後一貫斎は天体観測をすることなく、天保11年(1840年)、六十三歳で亡くなりました。




反射望遠鏡

反射式天体望遠鏡




 国友一貫斎邸宅の周辺には、一貫斎の天体観測を記念して、「星を見つめる少年」の像と、それと対になる「読書する少女」の像があります。


 

星を見つめる少年

星を見つめる少年



読書する少女

読書をする少女