鉄砲の里、国友 その一 | にっくんのブログ

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国友

国友村


 鉄砲の生産地として知られる、近江国国友村は、滋賀県長浜の北東、約四キロのところにあります。北陸自動車道、長浜インターの北側に当たり、国友村のすぐ北側には姉川が流れています。さらに北側には浅井氏の居城、小谷城があり、織田、徳川連合と浅井、朝倉連合が戦った姉川の古戦場も近くにあります。 国友村は古くから鍛冶の村として知られていました。



火縄銃

火縄銃、からくり部分


 天文12年8月、大隅国種子島に漂着した明船に乗船していたポルトガル人から、二丁の鉄砲を、一丁2000両もの大金を払い手に入れた種子島の領主、種子島時尭(ときたか)は、そのうちの一丁を薩摩守護、島津義久を通して、室町幕府十二代将軍、足利義晴に献上されました。義晴は鉄砲の製造を強く希望しました。幕府の管領、細川晴元は、北近江の守護、京極氏に相談し、北近江の国友村に腕のよい鍛冶師集団がいると聞き、天文13年2月に国友村に献上された鉄砲を送り、鉄砲の製造を命じました。国友村の鍛冶師たちは鉄砲を分解し、6ヶ月後には鉄砲の生産に成功しました。特に鍛冶師たちが苦労したのは砲筒の尾栓でした。尾栓はネジになっているのですが、当時の日本にはネジといったものはなく、その作り方がわかりません。鍛冶師たちは創意工夫しネジを切り、鉄砲の製造に成功しました。
 これとは別に種子島時尭は刀鍛冶の八板金兵衛に命じて、鉄砲の製造を試みています。こちらの方は暴発事故を乗り越え、天文14年(1545年)に製造に成功しています。



国友地図

国友村地図



 国友村は、和泉の堺、紀伊の根来などとともに鉄砲の生産地として知られました。
 国友村では最盛期には70軒の鍛冶屋と五百人を超える職人がいました。鉄砲の生産は銃身を造る「鍛冶師」。銃床を造る「台師」。引き金や火ばさみ部分(からくり)を造る「金具師」の3人が一組となり行います。
 国友鍛冶衆は年寄、年寄脇、平鍛冶と分けられ、組織だって大量生産に対応しました。

 織田信長は、天文18年(1549年)に国友村に鉄砲を発注し、翌天文19年に500丁の鉄砲を治めました。信長は早くから鉄砲の威力を認識し、天正3年(1575年)の長篠の戦いで3000丁もの鉄砲を使い、機動力に長けた武田騎馬隊を殲滅し、鉄砲の実力を天下に知らしめました。
 天正元年(1573年)に長浜城主となった豊臣秀吉は、領内の国友鉄砲鍛冶を手厚く保護しました。また徳川家康も関ヶ原の戦いで勝利すると、国友村を直轄地である天領にして鉄砲鍛冶を直接支配しました。
 鉄砲の一大産地であった根来が、織田信長に攻められ壊滅したので、国友村と堺が江戸時代、鉄砲の二大生産地となります。堺の鉄砲は豪華な装飾や象嵌に力を入れたのに対し、国友村の鉄砲鍛冶は機能美を追求した質実剛健な鉄砲として人気を集めました。




大筒

大筒


火縄銃は玉の重さによって、細筒(足軽銃)、中筒(侍銃)、大筒に分けられます。細筒は二匁玉筒(口径11ミリ)前後、中筒は10匁玉筒(口径19ミリ)前後、大筒は20匁玉筒(口径24ミリ以上)となります。
 江戸時代後期には短筒、脇差鉄砲、連発銃も製造されるようになりました。




国友鉄砲の里資料館

国友鉄砲の里資料館


 1987年に開館しました。国友で製造された鉄砲を数多く展示されています。入館料は三百円です。