尾崎咢堂記念館
伊勢市から田丸城に向かうときに、偶然近くを通りかかり入ってみました。
宮川の西岸堤防沿いの度会橋の南側に建つ、バルコニーの付いた二階建て白亜の洋館風の建物です。
最初、尾崎咢堂と言われて、誰か分かりませんでした。尾崎にも紅葉や、士郎、紀世彦、将司、豊など有名人がたくさんいます。
中に入ってみて、尾崎咢堂が東京市長や衆議院議員を務めた尾崎行雄であることを初めて知りました。咢堂とは尾崎行雄の雅号になります。
尾崎行雄は明治36年(1903年)から大正元年(1912年)まで東京市長に就いていました。彼が東京市長だった大正元年にアメリカの首都ワシントに、桜の苗木を三千本送ります。これがポトマック川河畔に植えられ、桜並木として知られました。そのお返しとしてハナミズキが送られました。
その尾崎行雄の記念館がどうして伊勢市にあるかというと、尾崎行雄は安政5年(1858年)相模国津具井郡又野村に生まれましたが、明治政府の役人になった父の仕事の都合で、十三歳から十六歳までの少年時代を伊勢で過ごしました。その関係で明治23年(1890年)第一回衆議院選挙は三重五区から立候補して当選し、以来、昭和27年まで二十五回連続当選し、昭和29年に亡くなりました。
昭和32年に三重県知事が委員長となり、尾崎行雄の偉業をたたえ、咢堂記念館設立発起人会が設立され、昭和34年4月16日に咢堂記念館が完成しました。しかし老朽化に伴い平成15年に現在の建物に改築されました。入館料は百円です。
尾崎行雄胸像
尾崎行雄の業績
尾崎行雄は明治7年(1871年)、少年時代を過ごした伊勢を出て上京し、福沢諭吉の慶應義塾に進学します。しかし明治9年に慶應義塾を退学し工学寮に入るも翌年に工学寮を辞めて、雑誌の編集、新聞記者などをしながら言論の道へと入っていきます。明治14年(1881年)に統計院権小書記官に任官するが、明治14年の政変で大隈重信が罷免されると、それに伴い退官し、明治15年(1882年)には大隈重信の立憲改進党設立に参加、明治18年(1885年)には東京府会議員に当選します。
明治23年(1890年)の第一回衆議院総選挙で三重五区から立候補し当選しました。明治31年(1898年)第一次大隈内閣では文部大臣に就任しました。明治33年(1900年)伊藤博文を総裁とする立憲政友会創立に参加しますが、明治36年(1903年)に政友会を脱党し、第二代東京市長に就任しました。当時は国会議員と首長を兼ねることができたようです。明治45年(1912年)に東京市長を辞職し、犬養毅らとともに閥族打破、憲政擁護をスローガンに憲政擁護運動の先頭に立ち、大正2年(1913年)第一次護憲運動を行い桂内閣を退陣へと追い込みました。
大正3年には、第二次大隈内閣で司法大臣に就任。大正9年に普通選挙運動をとなえ、大正13年、貴族院の支持を受けて清浦奎吾内閣が誕生すると、清浦内閣打倒を目標に、第二次護憲運動が起こり、尾崎も東京、大阪で演説を行います。憲政会(加藤高明)政友会(高橋是清)革新倶楽部(犬養毅、尾崎行雄)が団結し護憲三派が結束し、その年の選挙で勝利し、加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立します。この内閣の時に普通選挙法が成立しましたが、同時に治安維持法も成立しました。
その後、日本は戦争に突入していきます。昭和15年(1940年)に大政翼賛会が成立すると、翼賛政治に反対し、翌16年に大政翼賛会に対する反対質問をしようとするが阻止されます。昭和17年には東條英機に翼賛選挙批判の公開状を送ります。しかし田川台吉郎の応援演説に関して、天皇を侮辱する文言が入っていたため、不敬罪で起訴、投獄されるなど不遇の時代が続きました。不敬罪は昭和19年の大審院で無罪判決が出ています。
昭和21年、戦後初の衆院議員選挙には、当初立候補を辞退していましたが、咢堂会の推薦で立候補を決めて当選しています。昭和27年には二十五回目の当選を果たしましたが、昭和28年、吉田茂の「バカヤロー」の一言で衆議院が解散、そのときの選挙で初めて落選しました。そして昭和29年10月6日、神奈川県の逗子市で九十五歳で亡くなりました。
その95年の生涯を通して、立憲民主主義の実現に尽力し、「憲政の神様」と称えられました。
パンフレットより抜粋
ポトマック川の桜並木
ワシントンのポトマック川河畔に最初に桜の木を植樹仕様としたのは、エリザ・シドモアという女性でした。エリザ・シドモアはナショナルジオグラフィックの初の女性理事で、1885年に日本を訪れています。彼女の計画をタフト大統領夫人が賛同し、たまたま、ワシントンを訪れていた理化学研究所の創設者である高峰譲吉博士と、ニューヨーク総領事の水野孝吉が耳にし、東京市に伝え、そのときの東京市長だった尾崎行雄も賛同しました。日露戦争の際。ポーツマス条約成立にセオドア・ルーズベルト大統領が尽力したことのお礼を込めて、東京市から送ることになりました。明治42年(1909年)に桜の木を二千本送りましたが害虫が付着していたため、残念ながら焼却処分されました。そこで大正元年(1912年)桜の苗木三千本を改めて送り、ポトマック川河畔の桜の植樹に成功しました。
そのお礼として大正4年(1915年)にハナミズキが送られました。これがハナミズキが日本にもたらされた最初でした。
尾崎咢堂記念館にもハナミズキが植樹されています。