松浦武四郎
松浦武四郎という人物は、江戸時代、蝦夷地を六度にわたり探検し、明治維新後は蝦夷地に対する知識の深さから明治政府に出仕し、開拓使の開拓判官に任じられ、北海道の地名を名付けたことで知られた人物です。
松浦武史郎記念館は彼の功績を称え、平成6年に開館しました。
伊勢からの帰りに偶然看板を見つけたので入ってみました。
松浦武四郎生家
松浦武四郎は文化15年(1818年)に伊勢国一志郡須川村(今の松阪市小野江町)に生まれました。
若い頃から冒険心が旺盛で、全国各地を旅しました。天保13年(1842年)には朝鮮半島に渡ろうと対馬まで出向きましたが、鎖国という状況下で朝鮮半島への渡海は無理であることから断念しました。その後、長崎に行き、そこで様々な人たちと交流を重ね、日本各地で異国船が出没。とくに蝦夷地近辺でロシアの南下で衝突が発生していることを知り、日本の危機を感じて蝦夷地に渡ることを決心しました。
弘化2年(1845年)に初めて蝦夷地に渡り、知床半島の先端に到達します。翌年には樺太(サハリン)を調査。嘉永2年(1849年)の第三回蝦夷地調査で、国後、択捉島を調査しました。
嘉永6年(1853年)は浦賀にペリーが来航した年ですが、長州の吉田松陰と知り合い、海防問題で親交を深めました。翌、安政元年(1854年)宇和島藩の依頼で、下田のペリーの動向を探りました。
安政2年(1855年)には幕府から「蝦夷地御用御雇入」の命を受け、安政3年、4年、5年と毎年のように蝦夷地を探検し。安政6年に調査報告書を幕府に提出しました。蝦夷地の正確な地図や、アイヌ文化を紹介する本を出版しました。
明治元年(1868年)明治政府に出仕し、「徴士箱館府判官事」に任じられます。明治2年に開拓判官に任じられますが、明治3年(1870年)には上司と衝突し、開拓使を辞職しました。
その後は全国各地を旅行し、明治18年(1885年)から三年間にわたり、三重県、奈良県にまたがる、まだ未開の地で会った大台ヶ原を探検しました。
明治21年(1888年)に東京神田五軒町の自宅で亡くなりました。七十一歳でした。
松浦武四郎記念館
松浦武四郎記念館周辺図