田丸城 | にっくんのブログ

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天守台

本丸天守台


 伊勢市から西へ約7キロあまりのところに玉城町という町があります。その玉城町の中心部に田丸城があります。
 田丸城が築かれたのは南北朝時代、南朝の名門、北畠親房、顕信親子と言われています。以来、北畠氏の拠点となってきました。しかし南北朝の激しい対立で何度も戦に巻き込まれ、1342年に、足利方の伊勢守護、仁木氏の攻撃に遭い落城しました。
 その後南北朝が統一されると、南伊勢は北畠氏が支配し、田丸城は北畠氏の一族である、愛洲忠行が城主となりました。田丸城は大河内城とともに北畠氏の拠点の一つとなりました。愛洲氏はその後田丸氏と名を変えました。
 北畠具教(とものり)は、永禄12年(1569年)に南伊勢に侵攻してきた織田信長に降伏、信長は次男、信雄を具教の嫡子、具房(ともふさ)の養子に押し込んできました。天正3年(1575年)に北畠具豊(織田信雄)が北畠氏を相続すると、それまでの北畠氏の拠点だった大河内城を廃し、田丸城を近世城郭に修築し、三層の天守閣を築きました。しかし天正8年に放火による火災で焼失。このとき硝煙蔵(火薬庫)が爆発し、甚大な被害を受けました。修築不可能と見た信雄は、松ヶ島城(松坂市)に居城を移しました。
 天正12年(1584年)。羽柴秀吉は南伊勢に蒲生氏郷を入れます。氏郷は田丸城に与力となった田丸直昌を入れます。田丸城は再び田丸氏のものとなりますが、天正18年(1590年)蒲生氏郷が会津に移封されると、田丸直昌も陸奥国三春に移ります。
 田丸城には稲葉重通が入り、その後、木下氏、関氏と替わります。慶長5年の関ヶ原の戦いの恩賞で、稲葉道通が4万5千石に加増され田丸城主になると、田丸城を大改修し天守閣を再建します。元和2年(1616年)に摂津国中島に移封されると、一時期、津の藤堂氏が支配しますが、元和5年(1619年)に徳川家康の十男、徳川頼宣が和歌山に入封、御三家の一つ紀州徳川家が創設されると、南伊勢は紀州徳川家に与えられ、田丸城には紀州徳川家の家老、久野丹波守宗成が一万石を与えられ、城代として入り、明治維新まで続きました。




田丸城祉

田丸城縄張り



 田丸城は高さ約30メートルあまりの丘の上に、南北に二の丸、本丸、北の丸が連なった連郭式の造りに、東の台地に三の丸を築き、江戸時代にはここに城代屋敷がありました。その土地をいびつな五角形の外堀が取り囲んでいます。その大きさは東西425メートル、南北454メートル、広さは約16.7万平方メートル。松江城の内郭に匹敵する広さです(ちなみに姫路城内郭が約23ヘクタール)。
 東側に枡形の大手門を置き、さらにその東側に城下町が築かれました。三の丸下には小規模ながら内堀があり、その北側に中の門がありました。
 本丸の北側には穴蔵やある高さ約5メートルほどの天守台が存在し、稲葉氏の時代に改めて三層の天守閣が築かれましたが、慶安2年(1649年)に崩壊して、再建されませんでした。
 田丸城には本丸や二の丸、虎口に石垣の遺構がかなり残っています。石垣の積み方にも戦国期の野面積みや江戸時代の打ち込みはぎなどが見れます。



本丸虎口

田丸城虎口 




本丸石垣

本丸南側石垣




富士見門

富士見門 数少ない遺構の一つです。




北の丸

北の丸 城山稲荷社が建っています。




内堀

内堀



外堀

外堀



 現在、三の丸は整地され、玉城中学校が建っています。

 大手門の内側南に玉城町役場、北側には図書館、玉城町郷土資料館を兼ねた村山龍平記念館があります。
 村山龍平は朝日新聞の創始者で、嘉永3年(1850年)に玉城町で生まれました。明治4年(1871年)に村山家は大阪へ移住、明治12年(1679年)に朝日新聞社を起こしました。昭和3年(1928年)に帝室林野局より、田丸城祉の払い下げを受け、城山公園として玉城町に寄付しました。またこれより先、大正15年(1926年)には旧田丸小学校の講堂を寄付するなど、玉城町の発展に尽力しました。