大湊中心部の町並み
大湊は伊勢神宮の外港として古くから栄えてきました。
大湊は北側が伊勢湾に面し、西を宮川、東を五十鈴川、勢多川に挟まれた三角州に位置します。南は大湊川によって区切られているので島と言ってもいいでしょう。大湊川にかかる二つの橋によって伊勢市側と結ばれています。
古くから物流の主役は水運でした。伊勢神宮は伊勢湾(三河湾も含む)沿岸や東国各地に荘園を持っていました。伊勢神宮の荘園を御園や御厨と言います。各地の荘園から年貢や産物を運ぶために伊勢湾の水運が発展しました。伊勢湾水運の中心が大湊でした。
伊勢神宮の門前町である宇治や山田は人口が密集し,一大消費地でした。伊勢湾各地の産物を運ぶのにも,その水運が使われ、大湊に物資が集積し、五十鈴川を遡り内宮の門前町の宇治、勢多川を遡り外宮の門前町の山田へと運ばれました。
大湊の水運の範囲は広く,内海の伊勢湾、三河湾だけではなく、外海(太平洋)に出て関東まで及びました。
五十鈴川・勢多川河口
南北朝時代、伊勢神宮は南伊勢を支配する北畠氏とともに南朝に属しました。南伊勢は南朝の拠点である吉野と隣り合わせであり、後醍醐天皇の皇子である義良親王(後村上天皇)宗良親王は,南朝勢力の東国での拡大のために、1338年に北畠親房、結城宗広に伴われ大湊から出航し,東国に下ろうとしますが遠州灘で暴風雨に遭い難破し,義良親王と結城宗広は伊勢に引き返しました。宗良親王は遠江に漂着し井伊氏の元に身を寄せ(津島の歴史、その一を見てください)、北畠親房だけが常陸にたどり着きました。
大湊は北畠氏の支配下に置かれましたが、山田三方会合と呼ばれる町衆の元、自治を認められていました。この際北畠氏にかなりの上納金を支払っていたと言われます。
明応7年(1498年)の明応の大地震で、東海沿岸に大津波が襲い、大湊は1000軒は家屋が流され5000人が亡くなるという甚大な被害に遭いました。大湊はその重要性から、被害からいち早く復興しました。同じように被害に遭った北側の港町である阿野津(津市)は、その後復興が遅れ、織田信長の弟、織田信包が永禄12年(1569年)に津城に入城し、城下を修築するまで、かつての賑わいは取り戻すことはできませんでした。
大湊の造船
大湊の造船所
大湊の西側を流れる宮川の上流は大台ヶ原を水源とし,深い森が生い茂り、良質の材木を伐採することができました。大湊はその材木を利用して古くから造船の町として栄えました。大湊で建造される船は伊勢船と呼ばれ,舳先が箱形の大型の船でした。
大湊の船大工の力が発揮されたのは,織田信長が天正6年(1578年)に九鬼嘉隆に命じて建造させた甲鉄船です。織田信長は石山本願寺攻めで本願寺を包囲し兵糧攻めを行いましたが、本願寺に味方する毛利水軍が,織田水軍を突破し本願寺に兵糧を運び込みました。このとき毛利水軍が使用した焙烙玉(陶器の容器に火薬を詰め込んだもの)の攻撃に悩まされました。大型の安宅船の上部構造物に鉄板をびっしりと張り詰め、焙烙玉の攻撃に対抗しました。その大きさは長さ13間(約23.6メートル)幅が7間(12.7メートル)の大きさで大筒を三門備えられていたと言われています。その甲鉄船を建造したのが大湊で,6隻建造されました。そして天正6年11月の第二次木津川口の戦いで毛利水軍の撃退に成功しています。その後も豊臣秀吉の朝鮮出兵に使われた安宅船や輸送船を建造しています。
江戸時代に入ると軍船の建造はなくなりましたが、廻船などを建造しました。
江戸時代中期に入り,宮川、五十鈴川、勢多川に土砂が堆積し大型の廻船の入港が困難になり,南の鳥羽に港町としての地位が奪われました。大湊は造船の町として生き残りました。船の建造に使われる釘から、和釘の産地でもありました。
明治に入ると廻船から西洋式帆船へと,時代とともに建造する船も移っていきました。明治32年(1899年)に大湊造船徒弟学校を設立し,近代的な鋼鉄船建造の根拠地となりました。昭和40年頃に造船業は最盛期を迎えましたが,その後の造船不況が長く続き、大湊の各造船会社は規模を縮小し,現在まで続いています。
志宝屋(しおや)神社
志宝屋神社
志宝屋神社はうっそうと生い茂る鵜の森の中にあります。
伊勢神宮豊受大神宮(外宮)の末社の一つで、製塩業の神である盬土老翁(しおつちのおじ)を祀っています。大湊は古くから製塩業が盛んで、宮城県塩竃市の鹽竈神社から分霊したと言われています。
志宝屋神社は塩の神だけではなく、海の航行の安全を守る神、安産の神として、大湊の人に広く親しまれています。
大湊波除堤碑
大湊はたびたび津波で大きな被害を受けています。室町時代の明応7年(1498年)、慶長10年(1609年)、宝永4年(1707年)、安政元年(1854年)に大きな被害を受けました。
この波除堤は享保14年(1729年)に山田奉行、保科淡路守正純により修築されました。弘化3年(1846年)には高さ6.3メートルの灯明台(灯台)が設置され、航行する船の安全を守りましたが、安政の大地震の津波で流されました。明治30年(1897年)に、高さ10メートルの竿灯が設置され、火を点したランプをウインチで引っ張りあげていました。