津島三十六坊
津島で目立つのは寺で、一般住宅よりも頭一つ飛び出た本堂が至る所に見ることができます。その数は三十六坊と言われ、小さな地方都市にしてはかなりの数で、古くから栄え宗教都市にふさわしい景色となっています。
成信坊本堂
成信坊(じょうしんぼう)
天王通が本町通りの交差点の北東に位置する成信坊は、津島で最も大きい寺院で津島御坊と呼ばれています。江戸時代は浄土真宗大谷派(東本願寺)に属し、東本願寺門跡が東行する際、門跡が立ち寄り休息し講義を行う慣わしがありました。
西福寺本堂
西福寺
かつて津島湊と呼ばれた車河戸の北東に西福寺があります。津島四家七名字の名門である堀田尾張守正重(鎌倉時代の人物)の第六子、阿弥上人が開祖と言われ、堀田氏の菩提寺がありました。浄土宗で山号を紫雲山。本尊が阿弥陀如来像となっています。
弘長二年(1262年)に堀田正重が創建し阿弥上人が開祖となる蓮台寺を東御堂と呼び、西福寺が西御堂と呼ばれています。
浄蓮寺跡
天王川公園から見た浄蓮寺本堂
浄蓮寺
かつて、ここにかなり大きな寺院がありました。天王川公園からは、一般住宅の屋根から頭一つ飛び出した本堂の屋根を見ることができました。しかし残念ながら県道(名古屋津島線)の延伸工事のために東柳原町に移転しました。
清正公社
清正公社
豊臣秀吉子飼いの武将と知られ、熊本城を築いた加藤清正は、幼い頃に父を亡くし、母とともに母の弟、五郎助を頼り津島に来て、ここで少年期を過ごしました。
清正は幼名を虎之助と言い、勇気ある少年で、井戸に堕ちた子供を助けたり、鬼の面をかぶり盗賊退治をしたという逸話が残っています。その泥棒退治の逸話から鬼祭が行われています。
清正は、五郎助の妻の紹介で羽柴秀吉に仕え、福島正則とともに賤ヶ岳の戦いで活躍、賤ヶ岳七本槍の一人として勇名をはせました。その後肥後国(熊本県)の大名となり熊本城を築きました。
野口米次郎生家
野口米次郎
詩人として知られる野口米次郎は、明治8年(1875年)津島で生まれました。息子は世界的な彫刻家である、イサム・ノグチです。
名古屋の愛知県尋常中学校(減旭丘高校)に入学したが中退し、明治24年に慶応義塾大学に入学、しかし明治26年(1893年)に慶應義塾大学を中退、その年の暮れに横浜を出航、12月にサンフランシスコに到着しました。その後詩人のウオーキン・ミラーに師事し英詩を学びました。
ニューヨークでレオニー・ギルモアと知り合い二人の間にイサム・ノグチが生まれる。その直前に起きた日露戦争で日本に帰国、日露戦争後の1907年にレオニーと、イサムを日本に呼び寄せます。その頃に慶応義塾大学文学部英文科の主任教授となりました。
能楽や歌舞伎、浮世絵と言った日本の伝統文化を、イギリスやアメリカの雑誌を通して紹介しました。戦後間もなくの昭和22年(1947年)に亡くなりました。
野口米次郎のことは知りませんでしたが、イサム・ノグチについて、名前だけは知っていました。2010年にイサム・ノグチの母親、レオニーの自伝映画が公開され、野口米次郎を中村獅童が演じていました。また舞台演出家の宮本亜門が、イサム・ノグチの自伝を舞台化するなど、最近よく耳にします。