津島の発展
室町時代は経済が大きく発展した時代でした。
農作物の生産性が上がり、宋銭や洪武通宝、永楽通宝といった明銭が輸入され、貨幣経済が広まりました。そして全国各地に街が形成されました。
津島も室町時代の中頃に形成された地方都市の一つです。津島は津島神社の門前町として栄えましたが、それだけではなく、尾張と伊勢を結ぶ街道の、尾張の入り口の宿場町、そして天王川の河港として栄えました。特に河港としての機能は、津島に莫大な利益をもたらせました。
津島を流れる天王川は、萩原川(現日光川)と三宅川が津島の上流で合流して天王川となって、津島を流れているもので、萩原川の上流は一宮、三宅川の上流は国府宮と、尾張でも古くから栄えた地域であり、そこでとれた農産物が下流の津島に集積され、伊勢湾各地へと運ばれました。
特に伊勢は伊勢湾沿岸で先進地で、十楽の津と言われた桑名、白子、安濃津、大湊といった古くから栄えた港があり、また、伊勢神宮の門前町である宇治山田は伊勢湾沿岸で最大の人口密集地であり、一大消費地でした。
日光川
三宅川
津島五ヶ村
津島は天王川の堤防沿いに米之座、堤下(とうげ)、今市場、筏場、下構という五つの村から形成されました。この村を津島五ヶ村と呼びました。
この辺りは地盤が低く、平安時代は安定した土地がありませんでしたが、洪水で土砂が運ばれ堆積し、次第に安定した陸地になっていきました。時代的には鎌倉時代に、一番上流の米之座、筏場と村ができ、室町時代には今市場、筏場、下構の村が成立しました。
五つの村は元々独立した村でしたが、津島に人々が集まり、大きくなり、五つの村が一体となり、一つの街として発展していきました。
堤下にある堤下神社
十五世紀の尾張
この時代の尾張について調べてみました。
越前守護の斯波義重は、応永6年(1399年)、応永の乱で、大内氏討伐に活躍した恩賞で、尾張守護を兼ねることになりました。しかし斯波義重は室町幕府の管領という要職に就いていたため、京に常駐しており、代わりに越前の織田剣神社の神官だった織田常松を守護代に置きますが、織田常松も義重の補佐で京に居ることが多く、織田常松の弟の織田常竹が又守護代として実質的に尾張の治めていました。
織田常松は岩倉の織田伊勢守家の祖であり、織田常竹は清洲の織田大和守家の祖となり、尾張を二つに分割して治めたことはよく知られています。
斯波氏は細川、畠山氏とともに室町幕府の三管領と呼ばれ、斯波氏はその筆頭でした。その嫡流は武衛家と呼ばれ、越前、尾張、遠江の守護を兼ねていました。
享徳元年(1452年)、義重の孫の斯波義健が十八歳という若さで亡くなると、嫡子がいなかったため、義健の養子である一族の大野斯波氏出身の斯波義敏が斯波宗家を相続します。しかし越前、遠江の守護代だった甲斐常治と斯波義敏が対立し、その抗争は決着が付かぬまま長期化します。その争いに幕府が介入、足利一門の渋川氏の義廉に斯波氏を相続させます。
その争いはさらに応仁の乱に繋がっていき、義敏は東軍(細川方)に付き、義廉は西軍(山名方)に付きます。尾張の二つの織田家も、織田大和守敏定は義敏に味方し、織田伊勢守敏広は義廉に味方します。
そして争いの場は京から尾張に持ち込まれます。
文明8年(1276年)11月、織田大和守敏定が、主君の斯波義敏の命で、尾張の守護所である下津城を攻撃し、下津城は落城。織田伊勢守敏広は国府宮に逃亡。
文明10年(1478年)9月に幕府は伊勢守敏広の尾張守護代を更迭し、代わりに大和守敏定を尾張守護代に任じ、焼けた下津城の代わりに清洲城が守護所となります。斯波義廉は尾張を去り、以降行方が不明となっています。
文明10年(1478年)10月に力を盛り返した伊勢守敏広と、大和守敏定が戦い、大和守敏定が勝利。しかし12月に、伊勢守敏広が、舅の美濃守護代、斎藤妙椿(みょうちん)の力を借りて清洲城を取り囲みます。清洲城は焼け、大和守敏定は城を捨て山田郡山田荘に逃亡します。
翌年、文明11年(1479年)1月。斎藤妙椿の仲介で、尾張を伊勢守家と大和守家で分割統治することになります。伊勢守家は山田郡の一部、丹羽郡、葉栗郡、春日井郡、海西郡、そして那古野を除く愛知郡を統治。一方大和守家は山田郡の一部の他に中島郡、海東郡を統治しました。(知多郡は幕府や一色氏、今川氏、伊勢氏の領地がありました)
織田伊勢守敏広は新たに岩倉城を築きます。ここに岩倉の織田伊勢守家と清洲の織田大和守家が成立します。
しかし文明13年(1481年)3月に、伊勢守敏広と大和守敏定が争うなど、両家の争いはその後も絶えませんでした。
十五世紀後半の尾張は、かなり混乱していました。
自治都市
今の海部郡は、かつては佐屋川で海東郡と海西郡に別れ、海西郡は国境を越えて美濃まで続いていました。
この辺りは西は木曽川、東は庄内川の河口で、木曽川や庄内川の支流が網の目のように流れ、広大な湿地帯を形成し、その中に陸地が島のように形成されていました。
津島は郡境となる佐屋川の東、海東郡に属すことになります。
先に書いたように、海東郡を清洲の織田大和守家が、海西郡を岩倉の織田伊勢守家が支配することになります。津島は海東郡に属すために、清洲の織田大和守家の支配する地域になります。しかし津島は大和守家にも伊勢守家にも属していませんでした。
これは個人的な想像なのですが、大和守家が実際に支配できたのは、海東郡の東の地域。今の甚目寺や大治、七宝辺りまでで、西端の津島までは支配できなかったのではないでしょうか。
津島は土地が低く、大雨の度に木曽川の支流が氾濫し、洪水で押し流されるために、生産性が低く、守護や守護代といった支配層もあまり重要視しませんでした。それに尾張の中心地(下津や清洲)から離れた美濃との国境に近く、木曽川の支流で囲まれた独立した島が点在しているために、後に起きた長島の一向一揆でもわかるように、守護勢力に敵対する分子(その中には津島衆も含まれます)には格好の土地で、逆に守護勢力にやっかいな土地でした。
さらに織田大和守家と織田伊勢守家の間で起きた激しい争いのために、この地域の支配が遅れ、その間にも津島は力を付け、気がついた時には津島は侮れない勢力にまで成長し、支配下に置こうにも抵抗が激しく、支配下に置くことができなくなってしまいました。
そのために、津島を治める四家(大橋、山川、岡本、恒川)七名字(堀田、平野、服部、鈴木、真野、光賀、河村)四姓(宇佐見、宇都宮、開田、野々村)による自治が長く続いたのではないでしょうか。
支配層に干渉されない市場は、畿内の堺と同じように商人には魅力的で、さらに多くの物資が流入し、津島は商業の町としてさらに大きく発展していきます。
津島湊(車河戸)
織田弾正忠信定
この地域に進出してきたのが、織田大和守家の三奉行の一人で、織田信長の祖父に当たる織田弾正忠(だんじょうのじょう)信定です。信定は永正年間(1504年~1520年)、津島の北西約四キロの所にある勝幡に勝幡城を築きました。元々織田弾正忠家は内陸部(一宮から稲沢の辺り)に領地を持っていましたが、所属不明のこの辺りの土地の切り取りが目的でした。
そして大永3年(1523年)に信定は津島周辺の田畑や民家に火をつけ攻撃します。翌年の大永4年に和睦が成立し、津島を治める四家七名字の長である大橋清兵衛重長の元に、信定の娘(信秀の娘とも言われる)のお蔵を嫁がせています。
また勝幡のやや北側の下三宅に、牛頭山長福寺という寺がありますが、この長福寺は津島神社ぼ神宮寺である宝寿院や実相院の本山が長福寺であり、津島神社と深く関わっていました。信定は領内の長福寺を使い、津島を懐柔していったとも言われています。
それ以来、津島は織田弾正忠家が支配していきます。弾正忠家は信定の息子、信秀が引き継ぎ、弾正忠家はますます発展し、主家である清洲の織田大和守家を遙かに凌ぐ領地を手に入れることになります。その広さは西は美濃の大垣から東は三河の安城まで及びました。これも津島の財力が背景にあったと言われています。
信秀の嫡子である織田信長も、幼い頃から津島の繁栄を見てきており、商業の重要性を肌で感じていました。そのため岐阜城の城下である加納や、安土城下で楽市楽座と言った商業政策をとり、また畿内
進出の際、真っ先に堺を直轄地にしています。
斎藤道三
織田信秀と激しく死闘を繰り返した美濃の斎藤道三も、美濃に国境に近い津島に注目していました。
道三の重臣に堀田道空という人物がいますが、この人物は津島の堀田家出身で、堀田家中興の祖と言われている堀田道悦の兄弟、もしくは同一人物と言われています。
道三がこのように津島衆を重用していたのは。津島に強い関心を持っていたからでしょう。
これも個人的な意見ですが、古くから美濃の物産は長良川の水運を利用し、河口の桑名に運ばれ、伊勢湾各地へと運ばれました。桑名は長良川の水運を牛耳り、十楽の津と言われるほど発展してきました。道三は桑名以外に新たな流通ルートを開拓しようと、津島に注目したのでしょう。
織田信秀の宿老である平手政秀と、津島衆の堀田道空は旧知の間柄で、二人の進言で道三と信秀は和睦し、信秀の嫡子である信長の元に、道三の娘、帰蝶(濃姫)が輿入れしてきました。
道三の居城 稲葉山城
よければこちらの方も見てください。
http://www.k4.dion.ne.jp/~idea-12w/page015.html
http://www.k4.dion.ne.jp/~idea-12w/page002.html