天王川公園
かつて津島の町を南北に流れる天王川という川がありました。この天王川は、津島の2キロほど上流で、萩原川(日光川)と三宅川が合流したもので、萩原川の源は一宮、三宅川の源は国府宮のある稲葉(稲沢)と尾張の古くから栄えた土地でした。トラックの無かった時代、物流の最大の手段は河川を使った水運で、伊勢湾各地と一宮、稲葉を結ぶ中継地である津島は物流の拠点として大いに栄えました。
この天王川を挟んで西側の向島に津島神社が遷座され、東側に津島の町が広がりました。室町時代中期、天王川に天王橋という橋が架けられていました。その長さは三丁(約三百二十七メートル)の長さがあったといわれています。当寺、それだけの長い橋が架けられた、津島の町の財力を知ることができます。
江戸時代に入り、尾張は徳川家康は尾張藩を創設し、九男の義直を藩主に置きます。家康は尾張の地を、西国への押さえとして重要視しました。そして木曽川に御囲土居を築き、水害から尾張を守りました。しかしそれが元で天王川に土砂が溜まり、川底が浅くなり、大型の船が入れなくなりました。さらに庄内川の河口に流れる日光川が開鑿されると、湊としての機能が次第に失われていき、下流の佐屋に港としての機能が取って代わられていきました。明治に入り佐屋川が閉められるともに全く機能しなくなり、現在では天王川公園にかつての面影を偲ばせることが出来るだけで、ほとんどが埋めたてられ、堀川という細い川が、領内川と繋がっているだけです。
天王川公園では毎年七月の第四土曜日と、翌日の日曜日、天王祭りが行われ、土曜日の宵祭りには提灯に火を点された五隻の巻き藁船が出て、往時の津島の繁栄を偲ぶことが出来ます。
本町通り
津島の天王川から約百メートルほど東側に沿うように南北に通る通りが、津島のメインストリートというべき本町通りです。通りの両側には古い家並みが並んでいます。本町通りは津島街道上街道の終着点で、名古屋から西枇杷島、甚目寺、木田、勝幡と、現在の名鉄津島線に沿って通る街道でした。
津島観光交流センター
昭和4年に本町通りに建てられた、津島で初めての鉄筋コンクリート造りの建物で、銀行として使用され、巨大な金庫が残されています。東海銀行の前身の名古屋銀行、東海銀行津島支店、津島信用金庫本店として使用されました。平成21年より津島観光交流センターとして使用され、天王祭りで使われる巻き藁船の半球形の提灯飾りなどがが展示されています。
橋詰三叉路
本町通りと津島神社への参道への分岐点になり、それと同時にここから北側が津島上街道、南側が津島下街道の起点になります。
左側の津島神社参道は、天王橋が架かっていましたが、時代が下ると共に川幅が狭くなり、江戸時代初期の寛文年間には、長さが六十八間(約百二十二メートル)幅三間(五,四メートル)あったといわれています。
津島下街道は、東海道の宮の宿(熱田)から、尾頭橋、岩塚、万場、神守を通り津島に至るか移動でしたが、、江戸時代に入り下流の佐屋の重要度が増し、佐屋街道と呼ばれるようになりました、佐屋から桑名へ三里の渡しという渡し船が出ており、東海道の七里の渡しを補完する脇街道として栄えました。
津島の東、埋田で分岐し、津島下街道となり橋詰三叉路へと至ります。
天王通
津島神社と名鉄津島駅を結ぶ通りとして、大正11年(1922年)に計画され、津島駅から工事が始まり、昭和4年(1929年)に全線が開通しました。
かつては津島随いつの商店街として、人並みで活気が溢れていましたが、自動車時代を迎え、東は津島駅、西は津島神社と両端を塞がれ、通り抜けることが出来ないために、自動車の通りが少なくなり、次第に廃れていき、シャッター通りとなっています。代わって津島駅に近いことから、マンションなどか次第に増えてきています。
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