津島神社 | にっくんのブログ

にっくんのブログ

ブログの説明を入力します。


 愛知県の西部に津島神社があります。
 津島神社は全国に三千ほど有る津島神社、天王社の総本山で、厄災や流行病から人々を守る牛頭天王を祀っています。牛頭天王は京都の祇園祭で有名な八坂神社でも祀られており、天王社は東日本、祇園社は西日本へと広まったといわれています。
 牛頭天王は、神仏習合で天照大神の弟神である建速須佐之男命と、厄神ということで同一とされています。津島神社の置かれている位置は伊勢神宮内宮の真北に当たり、さらに北には霊峰、白山があります。またほぼ真西には偶然にも須佐之男が降臨したという。出雲(島根県)の船通山(鳥髪山)が有ります。

津島社の起源は欽明天皇元年(540年)に鎮座され、弘仁9年(810年)にこの地に遷座されたといわれています。しかしこの津島の土地は地盤が低く、木曽川の支流の佐屋川や天王川(現日光川)などの洪水で流されることが多く、平安中期に編纂された延喜式には記録が残っていません。
 源平が争った時代の承安5年(1175年)に、最初の記録が残っています。
 室町時代の中期頃に大きく発展したといわれています。



津島神社

津島神社拝殿


 津島神社は尾張出身の織田氏や豊臣氏、尾張藩主など多くの武将の信仰を集めました。織田氏の祖先は越前(福井県)の織田剣神社の宮司の出身といわれ、織田剣神社も、津島神社と同じ建速須佐之男命を主神として祀っており、社紋も同じ木瓜紋であることから、篤く信仰されました。




津島神社本殿

本殿


本殿は慶長5年(1605年) 清洲城主、松平忠吉の健康祈願を祈り、忠吉の正妻、政子の方が寄進しました。忠吉は徳川家康の四男で、二代将軍徳川秀忠の同腹の弟です。関ヶ原の戦いで戦功を上げ武蔵国忍城主10万石から、清洲城主52万石と、42万石の加増となりましたが、関ヶ原合戦の際に負った負傷がもとで健康を害しました。正妻政子の方(井伊直政の娘)の祈願もむなしく慶長12年(1607年)に若干二十八歳で亡くなりました。




津島神社楼門

楼門


 境内の東に位置する、入母屋檜皮葺の楼門は、天正19年(1591年)に豊臣秀吉によって寄進されました。現在は本殿と共に重要文化財に指定されています。

 また、境内の南にある、檜皮葺四つ脚門の南門は、慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の病気治癒を祈願し、秀吉の子息の秀頼の寄進で建てられました。




津島神社弥五郎殿

弥五郎殿


 津島神社境内の南西隅に弥五郎殿があります。
 津島神社社家、紀氏の祖神「武内宿禰命」を祀ます。南北朝時代、楠正行と共に四條畷の戦い正平3年(1348年)で奮戦し戦死した、堀田弥五郎正泰が造替したことから、弥五郎殿社と呼ばれました。津島神社の社家である堀田一族の末裔から、江戸幕府の老中となった堀田正盛や、大老となった正俊を輩出しています。堀田氏の領地であった下総(千葉県)の佐倉では数多くの津島神社が建てられました。





氷室家

氷室作太夫家


 津島神社では、伊勢神宮に習い、御師(おし)を全国に派遣し、布教活動を行いました。津島神社の社家である氷室作太夫家は、津島に現在も残る御師の屋敷として唯一の遺構です。地方から参宮した信徒(旦那)を屋敷に宿泊させ、神楽を行いました。
 津島の御師がいつ始まったかはわかりませんが、室町時代中期、永正二年(1505年)に東国各地に社家の手代が派遣したという資料が残っています。最盛期には七、八十人ほどの御師がいました。