諸戸氏庭園 | にっくんのブログ

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菖蒲池

菖蒲池



 六華苑の南にあるのが、諸戸氏庭園です。広さは約8000坪(26,459平方メートル)と、六華苑よりも広いです。
 六華苑の時に書きましたように、六華苑は二代目諸戸清六の邸宅に対し、諸戸氏庭園は父親の初代諸戸清六の邸宅になります。
 諸戸氏庭園の歴史は古く、遡れば鎌倉時代、1260年頃、この辺りが贄左京之進の所領となり、柚野庵が建てられたことに始まります。
 室町時代中期、応仁年間(1467~8年)頃、織田家家臣、矢部慶金の館となり、永正年間(1504~20年)頃、慶金の嫡子、矢部主繁が館を相続し、“江の奥殿”と呼ばれるようになりました。その後江戸時代初期に矢部家が断絶すると、貞享3年(1686年)に桑名藩の御用商人だった山田彦左衛門が屋敷を買い取り、隠居所として使用し、山田長者屋敷と呼ばれました。
 明治17年(1886年)、初代諸戸清六氏が山田長者屋敷跡を買い取り、ここに住むようになりました。明治23年(1890年)頃から、桃山風の御殿や出羽の本間邸、近江八景を模したと言われる池庭、玄関、洋館、玉突場などの工事に入り、数年かけて整備されました。
 2002年に本邸、大門、御殿、玉突場が国の重要文化財に指定され、庭園が国の名勝に指定されています。




諸戸家本邸

本邸

 

 寄せ棟造り二階建てで、二階部分は黒漆喰の塗り籠めの重厚な建築物です。表側が諸戸商店、奥に生活の場がありました。庭に面して洋間が付属しています。




 初代諸戸清六弘化3年(1846年)~明治39年(1906年)


諸戸家は代々、加路戸新田(現在の木曽岬村)の庄屋をしていました。諸戸清六は諸戸家の長男として弘化3年(1846年)に生まれました。幼名は民治郎と言います。しかし父、清九郎が商売に失敗し、巨額な借金を負うことになります。1847年に加路戸新田を追われ、、米、塩、肥料の採取業をしながら各池を転々とし、桑名の船馬町に落ち着き船宿を営みます。清六が十八歳の時に家督を継ぎますが、この時点で1000両を超える借金がありました。しかし米の仲買を始めると、その商才を発揮し、わずか二年で借金を返済しました。明治5年(1872年)に三重県令、岩村定高と知り合うと、徐々に政商への道を歩み、西南の役の際、米相場で莫大な利益を上げ、さらに大蔵省御用の米買方になり、明治政府の中枢に入り込み、大隈重信、松方正義、品川弥二郎など、政府の要人や、大倉喜八郎、渋沢栄一など財界の要人と親交をかわしました。
 また米相場で設けた利益で、不動産業に進出。桑名一帯の土地だけではなく、東京の恵比寿から、渋谷、駒場にかけて30万坪の土地を買いあさりました。この辺りは後に東急電鉄の創業者、五島慶太が鉄道事業に乗り出し、新興住宅地となり、今では高級住宅地としてもてはやされる土地で、まさに先見の明があったのでしょう。
 後に品川弥二郎の助言で、林業に進出します。地元三重や、岐阜の他に神奈川にも山林を持ち、その広さは最盛期には1万町歩(約1000キロ平米)と言われるほど広大なものでした。戦前の大地主のほとんどは、戦後の農地解放で土地を失いましたが、山林はその対象外で、戦後も広大な山林を維持することが出来、戦後の復興期の材木需要で巨額な利益を上げることが出来ました。
公共事業にも積極的に進出し。水道施設を整備し、一般に開放し諸戸水道と呼ばれました。桑名町内に30もの消火栓を設け、当時としては大都市以外では珍しいものでした。
 初代諸戸清六には、四人の男子がいましたが、長男と三男が幼くしてなくなり、次男の精太氏と、四男の清吾氏がいました。初代清六が亡くなると、精太氏が諸戸家の土地を引き継ぎ、諸戸宗家(西諸戸家)を名乗り、四男の清吾氏が十八歳にして二代清六を襲名、諸戸家の事業を引継ぎ、諸戸本家(東諸戸家)を名乗りました。




煉瓦倉庫

煉瓦蔵


 明治20年(1887年)に当初、木造で建設されましたが、明治28年(1895年)に火災で喪失。その後煉瓦造りで再建され米蔵として使用されました。そのときは五棟ありましたが、昭和20年(1945年)の戦災で二棟を焼失し、現在のように3棟が残りました。





推敲亭

推敲亭


 日本庭園に面して建つ、三畳敷き小さな建物です。障子戸を巡らせた開放的な建物で、月見や歌詠みなど、風流な催しに使用されました。





御殿

御殿



 残念ながら、現在御殿や御殿玄関、玉突場、大門などの建物が修築中でした。今後、本邸も修築する予定で全て修了するのは平成31年頃の予定です。