林秀禎
沖村の林秀禎邸址
織田信長の重臣だった林秀禎は春日井郡沖村(北名古屋〔西春町〕沖村 )を本貫とした地侍でした。沖村の松林寺西側に秀禎の屋敷跡があります。(県道62号線のトヨタカローラ愛豊の二本南側にあります)
元々林家は、美濃の稲葉氏の一族で、祖父の通村の代に林姓を名乗りました。稲葉氏は伊予の河野氏の一族で、河野氏は“通”という字を通字(とおりじ)として使います。通字とは平氏の清盛とか、重盛、敦盛の盛と言った字のことです。
秀禎の元の名である、通勝、弟の通具、父の通安、祖父の通村など皆、名前に“通”の字が使われています。
信長の父、信秀に仕え、信秀より“秀”の字をいただき、秀禎と名乗るようになりました。弟の林美作守通具が永承5年(1516年)生まれですから、主君である信秀と同年代だったと思われます。信秀は1510年頃に生まれています。
信秀の信頼が厚く、信長が幼くして那古野城の城主となった時に、信長に付けられた四人の家老の筆頭でした。ドラマでも演じられてきたように、若き日の信長の大虚けぶりに、さぞかし手を焼いたことでしょう。
信長の奇行は、信秀が亡くなり、織田家を継いだ後でも続きます。 それは織田弾正忠家の存亡を揺るがすことになるのでは・・・と、秀禎は思ったかもしれません。
天文23年〔1554年)1月21日に知多半島の付け根にある、村木城攻めに出発します。村木城は今川勢が、織田方の水野忠政の小川(緖川)城を攻めるために築いた城で、この城を拠点に寺本城を攻め、傘下に組み入れています。
信長は舅である美濃の斎藤道三に援軍を要請、道三の重臣、安藤守就(もりなり)の一千人の兵が到着、守就に那古野城の留守居をさせて、知多半島へと出陣します。
これはとんでもない話で、逆に居城を乗っ取られる恐れもありました。信長は妻、濃姫の父の道三を信頼していたのでしょう。
荒子城祉
この時、秀禎は彼のの与力の前田与十郎の荒子城の元に隠れ、出陣を拒否しました。主命に背くという軍律違反を犯しました。
信長が那古野城の留守居に、かつての宿敵、美濃の蝮と恐れられた戦国の三大梟雄の一人(斎藤道三、松永弾正久秀、北条早雲、または宇喜多直家。裏切りを重ねてきた人物)、斎藤道三の家臣を入れたことが、秀禎から見れば狂気の沙汰としか思えず、理解できなかったのでしょう。見方を変えれば、もし那古野城で安藤守就に不穏な動きがあれば、すぐにでも駆けつけるつもりだったのかもしれません。
信長は、熱田から海路南下し知多半島に上陸、23日に小川城に入り、1月24日に村木城を攻めました。このとき鉄砲を多用したと言われています。戦いは村木城に籠もる今川勢に多数の犠牲者を出しましたが、攻める織田勢にも多くの犠牲が出ました。夕方になると、今川勢が降伏し、信長は小川城の水野忠分に後の始末を命じ帰途につきます。 途中で今川方に渡った寺本城の城下に火を付け、25日に那古野城に帰還しました。この戦いは信長軍の機動力を見せつける戦でした。
出陣を拒否した林秀禎ですが、その後も織田家の宿老であり続けたことから、お咎めは軽かったのでしょう。後々の信長からは、考えれないほどの寛大さです。
弘治2年(1556年)4月20日。斎藤道三が息子の義龍に攻められ自害すると言う事件がおこります。道三は信長の最大の理解者でした。後ろ盾を失ったことで、信長は窮地に立ちます。織田家内で信長に不満を持つものの中から、不穏な空気が流れました。その最大の勢力が、信長の同腹の弟の信行と、信行を担いだ宿老の林秀禎と美作兄弟でした。
林兄弟が信長に反旗を翻す直前の5月26日、信長は弟の信時と二人で、突然那古野城の林秀禎の元を訪れています。強硬派の林美作は、信長の暗殺を主張しますが、秀禎はこれを止めて、信長は無事清洲城に帰還します。
五月末に反旗を翻し、秀禎の与力の荒子城の前田与十郎、大脇城(中村区)、米野城(中村区)が、信行方に付きます。前田与十郎は、今の中川区辺りに蟠踞していた豪族で、荒子城の他に前田城、下之一色城などが影響下にあります。加賀百万石の祖、前田利家の本家筋と言われています。
8月23日に庄内川河畔の稲生ヶ原の合戦で両者が激突、信長勢の勝利に終わり、林美作は討ち死にします。この戦いには秀禎は出陣していませんでした。弟の美作ほど、信長との対立には積極的ではなかったのでしょう。
信長、信行の母、土田御前の取りなしで、信行と柴田勝家、林秀禎は許されます。
秀禎は信長の大胆な行動に、織田家を滅ぼしてしまうのではないかという危うさを持ちながら、その実力を認めていたのではないでしょうか。そのため、反旗を翻す直前に秀禎の元を訪れたときに、弟美作の暗殺しようという主張を止めさせたのでしょう。しかし振り上げた拳を下ろすことが出来ず、信長と対立してしまったのではないでしょうか。
大脇城祉
米野城祉
前田城祉
秀禎はその後も織田家の宿老として、那古野城の城代であり続けました。しかし活躍の場を失い、他の武将に比べ全くの目立たない存在になりました。そして天正8年(1580年)8月、突然信長に安土城に呼び出され、24年前の信行擁立を理由に、織田家を追放されました。秀禎はその後、京都、そして広島へ流れ落ち、二ヶ月後の10月15日に広島で亡くなりました。
林秀禎の子息の勝吉が、山内一豊に仕え、一豊から一字をもらい一吉と名を変え、土佐の窪川に5000石の知行をもらい、家老となっています。