清洲城
清洲城模擬天守
清洲城は応永12年(1405年)尾張守護の斯波義重によって、守護所である下津城の別郭として築かれました。
斯波義重は室町幕府三代将軍、足利義満に仕えた越前の守護大名でした。応永6年(1399年)の応永の乱(周防の守護大名、大内義弘の反乱)で活躍し、その功績が認められ、翌応永7年より尾張守護を兼ねることになりました。清洲城の北側にある下津(おりつ)に城を築き守護所としました。
斯波義重は、足利幕府の要職である三管領の一人であるため、京を離れることが出来ず、守護代を置きました。それが織田家の祖先である織田常松であり、元々は越前(福井県)織田剣神社の神官でした。しかし常松も京を離れることが出来ず、弟の常竹が守護代の代理(小守護代)となり、下津城で政務を執りました。
織田常松の子孫は、後に尾張上四郡を支配した岩倉城の織田伊勢守家に、常竹の子孫は、下四郡を支配した清洲城の織田大和守家になります。
応仁の乱(応仁元年1467年)がはじまると、斯波氏も11代の斯波義敏と12代の斯波義廉の間で争いが起こります。織田家の間でも義敏に付いた織田大和守敏定と義廉に付いた織田伊勢守敏広の間で争いが起きました。
この頃、下津城には、斯波義廉を伴って織田伊勢守家敏広がいましたが、文明8年(1476年)、斯波義敏派の織田大和守敏定が、下津城を攻め落としました。下津城は消失し、勝利した敏定は下津城の別郭であった清洲城に守護所を移しました。以来、清洲は尾張の中心として、発展していきます。
下津城を追われた敏広は、岩倉に城を築き移りました。
清洲城祉
それ以後、清洲城は尾張守護、斯波氏の守護所であるとともに、尾張下四郡を支配する、織田大和守家の居城でもありました。
織田信長の家である織田弾正忠家は、織田大和守家の三奉行の一人でした。
織田弾正忠家は尾張西部の勝幡を拠点としており、信秀の父、信定は津島を支配することで、その財力を手に入れ、信秀の代には、主家である織田大和守家をしのぐ勢力となり、事実上尾張の盟主として活躍しましたが、これには主家である織田大和守家はおもしろくありません。信秀は最盛期には三河の安城城、美濃の大垣城にまで勢力を伸ばしていきましたが、加納口の戦いで斎藤道三に破れ、続いて天文18年の三河の小豆坂の戦いでは、今川の軍師、太原雪斎に敗れ、そして安城城を失うなど、次第に勢力を失っていきます。
天文18年、西美濃の拠点である大垣城を斎藤道三が攻め、信秀は救援に向かいます。その隙を狙い清洲城の織田信友が、重臣の坂井大膳に命じ信秀の居城、古渡城を攻め、城下を焼きます。信秀は急遽古渡に戻り、落城は免れました。しかし信秀の力が低下しているのは事実で、家老の平手政秀の進言を受けて、宿敵斎藤道三と和睦し、道三の娘帰蝶と信秀の嫡子信長の間で婚儀が結ばれました。清洲の信友は、状況が不利とみて、一旦は信秀と和睦します。
天文21年(1552年)3月3日、信秀が亡くなり信長が織田弾正忠家を継ぎました。虚けとよばれた信長を清洲の信友は完全に見くびります。その年の8月、織田弾正忠家のかつての本拠地であった勝幡城や、経済拠点である津島との分断を計るために、中間の松葉城や深田城から人質を取り、清洲方に付けます。それを知った信長は、叔父の守山城主、織田信光の協力で、松葉城、深田城を攻め、清洲の救援を萱津で撃退しました。萱津合戦に勝利した信長の株は上がり、松葉城、深田城は再び信長方に奪い返すことが出来ました。
信長を侮れないとみた守護である斯波義統は、信長の力を借りて、失われた守護の権威を取り戻そうと、信長に接近しました。
当然、信長と対立していた信友とは、徐々に亀裂を深めていきます。そして天文22年(1553年)7月12日。斯波義統の嫡子、義銀が多くの警護を連れて川狩りに出かけている隙を見て、織田信友の重臣、坂井大膳が義統を殺害してしまいます。その事変を知った義銀は信長の元に逃げ込みました。
信長にとり、守護を殺害した織田信友を討つ、絶好の口実が出来ました。信長は7月18日、柴田勝家を派兵し安食に布陣し、清洲方と合戦になりました。安食合戦とよばれ、柴田勢の勢いに適わず、清洲勢は成願寺に逃げ込み防戦しましたが、防ぎきれず清洲城に逃げ込みました。この合戦で清洲方は織田三位以下、多くの手勢を失いました。
徐々に劣勢になっていく清洲方は、不利を挽回しようと、信長の叔父で守山城主の織田信光を内応を持ちかけ成功したかに見えました。しかしこれは事前に信長との間で打ち合わせていたことで、清洲城に招かれた信光は、弘治元年(1555年)4月19日、清洲城の南櫓に入ります。そして翌20日に、兵を配し、挨拶に来た坂井大膳を討ち取ろうとします。しかし大膳はその気配を察し、清洲城を脱出し今川の元に逃げていきました。大膳を討ち逃しましたが、織田信友を捕らえ、守護殺害の罪で切腹させました。そして清洲城を事前の打ち合わせ通り、信長に明け渡しました。その功績で信光は那古野城主となりましたが、11月26日に家臣の坂井孫三郎に殺害されてしまいました。一説には信長の謀略だと言われています。
尾張の中心である清洲城を手に入れた信長は、尾張統一にまい進していきます。弘治2年(1556年)稲生ヶ原の戦いで、弟信行と林佐渡秀禎を打ち負かします。しかし信行は翌年、再び反旗を翻えし、信長の直轄地、篠木三郷の横領を企てます。信行の家老、柴田勝家の内通ででそれを知った信長は、11月2日に病を装い、信行を見舞いに来させます。そして北櫓に幽閉し信行を殺害しました。
永禄2年(1559年)岩倉城の織田伊勢守信賢を攻め、信賢は美濃に逃げました。信長は尾張の大部分を手中に収めました。
そして永禄3年(1560年)5月19日。駿河、遠江、三河の太守、今川義元を迎え、清洲城を出撃、桶狭間の奇襲に成功し、義元の首をあげ清洲城に凱旋し、信長の名を天下に轟かせます。永禄5年(1562年)今川から独立した松平家康(徳川家康)を清洲城に招き、同盟を結びます。
永禄7年(1564年)に最後まで残った犬山城を攻め、城主の織田信清は犬山城から逃げ、尾張の統一を完成させました。
尾張統一を完成した信長は、次の目標である美濃を攻略するために、北西の小牧山に城を築き居城を移しました。そして清洲城は番城となりました。
天正10年(1582年)6月2日。本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれ、その光秀も山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ敗死しました。6月27日に織田家の相続を決める会議が清洲城で行われました。会議は光秀を討った羽柴秀吉が有利に進め、織田家の相続は、信忠の嫡子(信長の孫)、三法師に決まり、後見人に三男の織田信孝に決まりました。
信長、信忠の遺領の内、尾張は信雄が相続します。後に伊勢での弟信孝の領地も加え、尾張伊勢100万石の太守となります。信雄は長島に居城を構えていましたが。天正14年(1586年)に長島城が倒壊すると、清洲城に居城を移しました。その際、清洲城を三重の堀で囲む、近代的な大城郭に改築しました。
天正18年(1590年)、関東の北条氏が滅びると、徳川家康が関東に入封、空いた家康の旧領への移封を秀吉に命じられましたが、信雄はこれを断り、秀吉の怒りを買い、尾張伊勢の領地を取り上げられました。その後、信雄は秀吉の御伽衆となり、わずかばかりの領地を与えられます。
空いた尾張には秀吉の甥、三好秀次が入封し、清洲城主となります。秀次は秀吉の子の鶴松が亡くなると、豊臣家の後継者となり、関白となりますが、秀吉に再び子供(秀頼)ができると、秀次を疎み、文禄2年(1595年)難癖をつけて切腹させます、そして妻子は京の三条河原で殺害されます。
清洲城は秀吉子飼いの福島政則が入城し、尾張半国を支配します。そして関ヶ原の合戦で東軍(徳川家康)に味方し、先陣を争うなど活躍を見せ、勝利すると、恩賞として安芸広島五〇万石の大大名となりました。
尾張には徳川家康の四男、松平忠吉が54万石で入り清洲城主となります。しかし忠吉も慶長12年’1607年)に亡くなると、家康の9男徳川義直が、忠吉の遺領を引き継ぐかたちで入封、清洲城主となります。家康は清洲の地は土地が低く、城下の真ん中を五条川が流れ水害に悩まされると、居城を南東の高台にある那古野城址に移すことを計画します。慶長15年(1610年)より巨大な城郭を築きます。そして清洲城を城下町ごと全てを名古屋城下に移しました。俗に清洲越しと呼ばれました。名古屋城御深井丸(おふけまる)の三重の北西隅櫓は、清洲城の小天守の古材を利用したものと言われています。
名古屋城清洲櫓
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