大津市 坂本 | にっくんのブログ

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坂本


坂本

坂本 日吉馬場


 坂本は、三塔十六谷、三千坊と言われる比叡山延暦寺の門前町として、また全国に二千もの末社を持つ、日吉、日枝、山王神社の総本社である日吉大社の門前町として栄えた街です。
 日吉大社への参道である、日吉馬場の周辺には五十もの里坊が立ち並んでいます。里坊とは比叡山で修行をした僧侶たちが、天台座主の許しを得て住み込む隠居坊のことです。 それぞれの里坊には、坂本の南にある穴太の石工集団穴太衆の手による、穴太積みの石垣が巡らされています。穴太衆は戦国時代から安土桃山時代、そして江戸時代初期にかけて、全国各地の城郭の石垣造りにその手腕を発揮した石積みの専門家集団でした。
 坂本には僧侶や日吉大社の神職の他に、大工や屋根職の職人や、延暦寺に物資を供給する商人たちが数多く住んでいました。



公人屋敷(旧岡本邸)


公人屋敷

公人屋敷内部


 公人(くにん)とは、延暦寺の僧侶でありながら、妻帯と名字帯刀を許された人々のことです。延暦寺には坂本一千五百石、下阪本三千五百石が徳川幕府により安堵されていました。この寺領を支配していたのが、天台座主を頂点にした僧侶の組織がありました。その下で働いた五人の大年寄がおかれ、その下に四至内年寄が町ごとに置かれていました。そういった役職を努めたのが公人でした。
 坂本にはそういった公人屋敷が数多く存在しました。その中で代々公人を努めてきた岡本家が、昔の公人屋敷の旧状を多くとどめており、内部が公開されています。
 主屋(しゅおく)は屋敷の中心施設で、桁行8間、梁間5間半の切妻造り桟瓦葺きの建物で、東側に土間、西側に大小九部屋を設けています。南奥が床の間を持つ座敷となっています。その横の四畳間が「神前の間」と呼ばれ、祖霊社が設けられています。
 座敷や神前の間の襖には江戸中期の絵師で、晩年を坂本で過ごした横井金谷(1761~1832)の襖絵が飾られています。
 裏手には数寄屋風二階建ての離れがあったようですが、現在は取り壊され有りません。 その奥には馬屋と米蔵が建っています。米蔵は寺領から徴収した年貢米が蓄えられていました。馬屋は滋賀院門跡などに挨拶に来た上級武士の馬を預かるもので、主屋の座敷で、正装に着替えていたようです。



東照宮


東照宮

東照宮拝殿 後ろに本殿があります


 日吉神社の南に東照宮があります。日光東照宮の造営に先立ち、寛永十一年(1634年)天海僧正によって造営されました。桁行三間、梁間三間、入母屋造り銅瓦葺きの本殿と、桁行五間梁間二間入母屋造り銅瓦葺きの拝殿を石の間で繋ぐ権現造りで、極彩色の装飾が施されています。
 坂本と言えば明智光秀の居城のあったところ。その坂本に天海というと、どうしても明智光秀、天海僧正、同一人物説を思い出してしまいます。しかし天海僧正は比叡山延暦寺と関わりが深く、徳川家の菩提寺として、東の延暦寺と言われる上野の東叡山寛永寺を創建した人物で、その関係で坂本に東照宮を造営したのでしょう。
 


日吉大社


日吉大社東宮本殿

日吉大社東宮本殿


 全国に二千の末社を持つ日吉、日枝、山王神社の総本社です。
 八王子山の麓に四十万万平米の境内を持ち、西本宮、東本宮の二つの本宮と、宇佐宮、牛尾宮、白山姫神社、樹下神社、三宮神社の五つの摂社が境内に建っています。
 織田信長の比叡山焼き討ちの際に麓の日吉大社もほとんど灰燼に帰しましたが、信長の死後、豊臣秀吉の尽力で再建されました。秀吉は幼名を日吉丸とよび、あだ名の猿は日吉大社の神の使いであることから、その思い入れも強かったと思います。
 西本宮は大己貴神を祀り、入母屋造り檜皮葺の本殿が国宝に、拝殿と楼門が重要文化財に指定されています。天正14年(1586年)に再建されています。本殿は桁行三間、梁間三間の建築物で、本殿周囲に巡らせた回り縁の両端に木製の狛犬が据えられています。
 その東側に宇佐宮と白山姫神社が並びます。三宮と牛尾宮は八王子山頂に座しています。そして東本宮は大山咋神を祀り、楼門を持ち西宮とほぼ同じ作りで国宝に指定されています。回り縁の高欄は鮮やかな朱色で塗られており、金色の飾り金具も鮮やかでした。東宮は文禄五年(一五九六年)に再建されました。
 敷地内には樹下(じゅげ)神社もあるのですが、楼門と本殿の前の拝殿の間でちょうどクロスするような形で、樹下神社の本殿と拝殿が配置されていると言う、かなり変わった配置になっています。樹下神社本殿は三間流れ造りで、文禄四年(1595年)に建てられました。
 東宮に行く途中に神輿の収納庫があります。比叡山延暦寺の僧が日吉神社の神輿を担いで、朝廷に強訴しました。収納されている神輿は、桃山時代以降のもので(信長の叡山焼き討ち以降)、それぞれに葵(徳川)や菊(皇室)、七五の桐(豊臣)などの家紋が入っています。金細工が見事な豪華絢爛な重量感あふれる神輿です。



西教寺

西教寺明智一族の墓

明智一族の墓


 日吉大社から北へ徒歩十五分ほど行ったところにあるます。少し離れていますので、訪れる人は少ないです。
 西教寺は天台真盛宗総本山で、その起源は推古天皇の時代、聖徳太子の開基と言われていますが定かではありません。室町時代中期、文明18年(1486年)真盛という僧によって天台念仏の戒律の道場として栄えました。
 しかし元亀2年(1571年)織田信長の比叡山焼き討ちによって西教寺も焼かれました。その後坂本に封じられた明智光秀により再興されました。そのために明智光秀と縁が深く、本堂の脇には明智光秀やその一族、光秀の妻、煕子(ひろこ)の墓があります。
 またそばには明智一族の一つ、妻木一族の墓などもあります。
 大津では比叡山焼き討ちをしたこともあり(大殺戮をした伊賀や、名家北畠氏を滅ぼしたことで、伊勢でもいえることですが)、織田信長の評判はすこぶる悪いのですが、坂本を再興した明智光秀は名君と言われています。
 坂本と言えば、幕末の英雄、坂本龍馬の先祖は、本能寺の変の後、山崎の戦いで敗れ、土佐の長宗我部氏を頼って逃れてきた明智一族の末裔と言われています。坂本という名字は、明智一族の本拠地である坂本からとったと言われています。家紋にも明智一族と同じ桔梗を二重の枡で囲った組合角に桔梗紋を使っています。しかし坂本氏が明智一族の末裔であるかどうかは、いろいろな説があるようです(どうも事実ではないようです)。