六華苑
三重県桑名市の六華苑に行ってきました。
桑名の山林王と呼ばれる諸戸家の屋敷です。広さは約一八〇〇〇平方メートルあります。隣に諸戸家庭園というものがありますが、それぞれ別の施設で、入場料は六華苑が三百円。諸戸家庭園が五百円。共通券が六百五十円となっています。
同じような施設なのですが、何が違うかというと、六華苑は二代目諸戸清六によって建てられた屋敷で、諸戸家庭園は初代諸戸清六によって建てられた邸宅です。
六華苑、右のシートで覆われたのが洋館
六華苑は明治四十四年(1911年)から大正二年(1913年)にかけて建てられました。洋館は東京の鹿鳴館やニコライ堂などを設計したジョサイア・コンドルによって設計されました。残念ながら八月二十九日まで、工事の都合で外側に足場が組まれシートが貼られているため、その薄い水色の外観を見ることが出来ませんでした。非常に残念でした。
二階塔屋部、三階への階段
洋館部分は、木造二階建て、塔屋部分は当初三階建てでしたが、清六氏の意向により、揖斐川が見晴らせるようにと四階建てになりました。ビクトリア調の住宅様式で、南に池泉回遊式庭園を配し、二階にサンルームを設けるなど、明るい造りの洋館です。
和館内部
洋館の隣には平屋建て、一部二階建ての和館が建てられています。
大小二つの書院が並んでいます。それぞれ一の間、二の間と呼ばれ、大きい方の一の間は来客用として使用され、小さい方の二の間は、二代目諸戸清六氏の居間として使用されました。豪勢な洋館を建てながら、実際に生活するのは、和室の方が落ち着いたのでしょう。
和館の北側には離れ家や、桑名の北側、高須藩陣屋の建物を移したと言われる、高須御殿があります。
洋館と和館は平成9年に重要文化財に指定されています。庭園は一部を除き、平成13年に名勝に指定されています。
洋館二階
ジョサイア・コンドル
1852年9月28日~1920年(大正9年)6月21日 イギリス人
いわゆる“お雇い外国人”として来日。工部大学校 (現、東京大学工学部建築学科)の教授として東京駅などを設計した辰野金吾、赤坂離宮などを設計した片山東熊(とうくま)を教えました。年齢的には二人とは二歳年上に過ぎませんでした。
コンドル自身、文明開化の象徴と言われる鹿鳴館やニコライ堂、三菱財閥総帥の岩崎久弥邸、岩崎弥之助高輪邸、三井倶楽部、島津家袖ヶ崎邸(現清泉女子大学本館)、古賀虎之助邸などを設計し、近代日本建築の父と呼ばれました。
二十五歳の時に来日し、工部大学校を退官後も日本に残り、日本女性、前波くめと結婚、六十七歳で亡くなるまで、その生涯を日本で暮らしました。彼の建築物の多くは、東京、横浜にありましたが、その大半は関東大震災や戦災などで失われてしまいました。桑名の六華苑は数少ない地方での建築物となります。
二代目諸戸清六
明治21年(1888年)~昭和44年(1969年)
二代目諸戸清六は、初代諸戸清六の世なんとして生まれ、早稲田大学に学びました。父の清六が明治39年(1906年)に亡くなると、父の事業を引継ぎ、二代目諸戸清六を名乗りました。父の代から早稲田大学の創設者、大隈重信と親交があり、大隈重信が三菱財閥との関係が深いことから、三菱関係の建築物を数多く手がけたコンドルを紹介されたと言われています。
六華苑で撮影された映画、ドラマの一覧
全くの余談ですが、「スパイ・ゾルゲ」という映画で、この六華苑をロケ地とした映画監督の篠田正浩(極妻、岩下志麻の夫)は早稲田大学の陸上部出身で、桑名出身の名ランナー、瀬古敏彦氏の早稲田の先輩であると自慢していたのを思い出しました。ちなみに桑名は上流の美濃の物産を扱うことで、十楽の津と呼ばれるほど発展した港町です。
さらに全くの余談なのですが、三重県名張市が生んだ探偵小説の大家、江戸川乱歩も父親の仕事の都合で、一歳の時に亀山、二歳から十八歳まで名古屋に住み、愛知五中(今の瑞陵高校)に通いましたが、父親の事業の失敗で、八高(名古屋大学)への進学をあきらめ、家族とソウルへ移住しています。その後、乱歩のみが帰国し、苦学して早稲田大学へと進んでいます。
どうして江戸川乱歩かというと、洋館と言えば乱歩作品に欠かせないもの。特に塔屋のある洋館は、暗黒星を思い出してしまいます。しかし乱歩作品に出てくる洋館は、窓の小さ意、犯罪集団が隠れ住んでいる暗い感じの建物。窓の大きな明るい感じのライトブルーの外壁を持つ六華苑とは正反対の建物です。しかし中に入ると、シートで覆われているせいもあり、どこか暗く、そして各部屋に配置された大きな暖炉は、江戸川乱歩の作品を彷彿させます。