稲生の戦い | にっくんのブログ

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稲生の戦い



稲生庚申塚

稲生古戦場、庚申塚



稲生庚申塚説明書き

稲生が原古戦場跡説明文



 弘治二年(1556年)織田信長の最大の後ろ盾であった、舅の斎藤道三が、息子の斉藤義龍に討たれると、尾張国内で信長に不満を持つものが不穏な動きを見せます。その急先鋒が母を同じとする弟の信行と、織田家の宿老であった林佐渡守秀禎でした。
 彼らの動きを察した清洲城の織田信長は、8月22日に佐久間盛重に命じて、清洲と末盛城の中間に当たる、庄内川を渡った名塚に砦を築きます。
 それを知った信行方は、8月24日、家老の柴田勝家に命じて約千名の兵を派遣、林秀禎も弟の林美作以下、約七百名の兵を派遣して名塚砦を攻めさせます。
 それに対して織田信長は前田利家や丹羽長秀など七百名を送り、名塚砦付近の稲生が原で合戦となりました。信行方の千七百名に対して信長方は七百名と無勢でした。当初は佐々孫介が討たれるなど劣勢でした。佐々孫助は佐々成政の兄で、小豆坂の戦いで戦功を上げ、小豆坂七本槍の一人といわれた人物でした。
 しかし信長の軍勢は、いずれも精鋭揃いで、次第に挽回し、柴田勢を攻め、そして林美作を攻めました。林美作は討ち死にし、戦は信長方の勝利に終わりました。
 破れた織田信行、林秀貞はそれぞれ末盛城、那古野城に籠城しました。信長は末盛城、那古野城の城下を焼きました。
 信長、信行の母である土田御前が助命嘆願し、信長は許すことになりますが、信行は再度信長に対し反旗を翻します。岩倉の織田信安と組んで篠木三郷の横領を企てます。この時は重臣、柴田勝家が信長に通報、企ては未遂に終わりました。
 しかし二度目の反旗を、信長は許しませんでした。弘治三年(1557年)11月2日、病を装った信長は、信行を清洲城に見舞いに呼び寄せました。しかしそれは罠で、信行を清洲城の北櫓に幽閉し、川尻秀隆に命じて殺害しました。
 その後、天正8(1580年)年。信長はこの時の謀反を理由に、那古野城の林秀貞を追放しています。稲生の戦いから24年後のことでした。信長にとり、同腹の弟を殺害したことに対し、かなり複雑な思いだったのでしょう。



名塚白山神社

名塚白山神社 ここに名塚砦がありました。



名塚砦説明書き

名塚砦説明文



織田信長は幼い頃から奇行が目立ち、「大うつけ」と言われていました。そんな信長が織田家の後継となったら、織田家の行く末が危ぶられる。そんな危機感から、品行方正な信行を後継にしようと言われています。
 しかし実際には信長はかつての主家であった清洲の織田大和守信友を、守護である斯波義統殺害を理由に清洲城を攻め、信友を殺害し、清洲城主に治まるなど、着実に実績をつけていきました。織田家の宿老である林佐渡守秀禎を筆頭に、家臣団が弟の信行を擁立した背景には、むしろ信長が頭角を現すのを恐れたのではないでしょうか。
 個人的な意見になりますが、それは信長が行おうとする改革とそれに抵抗する派閥との争いだったのではないでしょうか。
 織田信秀の頃の織田家は、土地に土着した地侍、土豪の連合でした。それを信長は直属の直参を中心とした、常時兵を動かすことのできる、機動力のある軍団を造ろうとしました。前田利家のような土豪の庶子や、森可成のような美濃など他国出身の新参者が頭角を現してきました。
 当然ながらかつての織田家を担ってきた老臣達は危機感を持ちました。その中心となったのが家老の林佐渡守秀禎でした。林秀禎は組みやすく、また篠木三郷をめぐり対立していた信行を担ぎ上げたのです。
 信長も直属の兵や、新参の兵を養うための経済力、土地が必要でした。そのために篠木三郷をめぐり、弟信行と対立してしまったのではないでしょうか。


伊奴神社

伊奴(いぬ)神社 稲生ヶ原古戦場付近にあります。