83 thメッセージ 学生時代の思い出の相手、追悼記事PartⅠ | 峯運勢研究所

峯運勢研究所

健全で建設的で安心な幸せを永続循環させる為の究極の答え

 ご心配をおかけしました。

 

 2022年7月15日以来、約1年半の長期に渡って、新しい記事を上げることなく、どなたの記事にも、“いいね”も、アクセスすることもなく、ブログ上から姿を消し続けていたにもかかわらず、フォローを続けて下さって、私の復帰を信じ続けて下さった皆様、本当にありがとうございます。

 

 実は、2022年「令和4年」7月15日の、82 thメッセージ、『実名を公表します』のブログを上げる、何カ月か前から、私の人生何度目かの生死にかかわるほどの経済的困窮が始まり、このブログを上げてから暫くしての、8月の暑いさなか、インターネット使用料の支払いが 2カ月以上滞納となり、インターネットの使用を止められ、ブログを上げるどころか、どなたのブログを読ませて戴くことも出来なくなり、実質上、ブログ社会、インターネット社会から、姿を消すことになってしまっただけではなく、電気、ガス、電話も止められる事態となってしまいました。

 

 経済的困窮は、子供の頃から、宇宙が意味をもって結んだ自然の縁を破壊して奪うことで、その縁と共にあった恵みを奪い続けている母校、広島県広島皆実高等学校「皆実高校」同窓会である有朋会常任幹事で、全同窓生を代表する立場になっている杉浦志都代 (旧姓玉田志都代)と、父を蒸発させた父の愛人だった弘子 (旧制後藤弘子)、そして、その弘子と結託して、父を蒸発させたのと同じやり方で、弟の本妻の後釜に座っている、弟の愛人だった、旧姓佐々木鈴子(すずこ)、今は、暴力的に奪った弟の本妻の籍で、中峯鈴子と名乗っており、今後は鈴子と言いますが、この三人の人でなしで非道な女達の為に、ずっとお伝えしているように、82 thメッセージでもお伝えしていますが、世にも残忍残酷非道卑怯卑劣極まりないやり方で、宇宙から本来与えられた、幸せに生きる為の恵みの全てを、奪われ切り続けているからです。

 その価値は、通常の単純な経済的価値だけでも、数千万を超えますが、彼女達に破壊されて奪われたものは、経済的価値だけではなく、宇宙が与えてくれた当然の権利の、自然の縁や恵みを破壊され、奪われたことにより、人としてのまともな暮らしが出来なくされたことによっての、人としてのまともな心を破壊され、失わされた心の豊かさや自然の縁に伴う幸せの全てで、その価値は、何億何兆以上積んでも、お金で買う事の出来ない、天文学的による甚大な価値で、その失わされた価値が、失われず、私のもののままであったなら、当然、私が経済的に困窮することもなく、母も当然の成り行きで、94歳の天寿を全うする迄、夫や子供や孫達と絶縁させられ続ける事もなかった訳です。

 それどころか、杉浦非道のせいで、私がいじめ後遺症にされていなければ、父の蒸発もなく、こんな経済的困窮もなく、私は普通に結婚し、最愛のわが子を得、育てる喜びを知り、家族を持つ喜びを知り、私のDNAを受け継ぐ子孫達が、社会的に貢献する人間になれていたかも知れず、いじめ後遺症にされていた心では、結婚したとしても、新たな不幸を拡大するだけで、決して真の幸せになれなかったことは間違いなく、私は、何故か、若い頃から、そのことを本能的に察知していたので、婚約者が婚姻届を持って来ても、これに署名なつ印すれば終わりだとのハイヤーセルフの声を聞くことになる訳で、そして、仕切る立場でなくては気が済まない杉浦が仕切る立場である為に邪魔だと思って、私と同じ目に遭わせた学友が何人いるか分からず、杉浦非道が破壊した価値は、計り知れません。

 それほど、他人の恵みを奪う為に、宇宙が決めた自然の縁を破壊して奪うことは恐ろしいことですが、悲しいかな、子供の頃にはその意味が分からず、とてつもなく恐ろしいことをされ続け、本来宇宙から与えられた恵みを奪われ切り続けての、当然の結果の、私の今の経済的困窮になります。

 

 何億何兆以上積まれても、私の大好きだった、母校皆実高校での学園社会の、その年齢の時にしかない、欲も得もない、自然の縁の学友達との素晴らしい時間、それと共にあった思い出、その思い出と共に培われた信頼関係、大人になって築くことの出来ない絆は、返って来ないし、愛人達が父や弟に取りつかなかったら、間違いなくあった、普通に幸せな家族の時間も帰って来ません。

 

 何億何兆なんていらないから、この3人の女達が私達から奪った、縁や絆や時間や時間と共にあった全てを返してくれと言いたいですが、この3人の女達は、奪った価値を返すどころか、償いもせず、その何億何兆以上を、今も取り続け、更に、これから、未来永劫、奪い続ける為に、私や母や弟の本妻を貶め続けているのですから、私や母や弟の本妻が苦しみ、経済的に困窮するのは当然で、私は、何度も生死にかかわる経済的困窮を繰り返すことは、私が無能からでも、人間的にくずだからでもないので、恥ずかしいとは思ってなく、むしろ、それでも、この3人の女達のような非道なことをせず、罪を犯さず、最愛の父親から養育を放棄され、それでも守って育てたので、愛人達の卑劣な罠にはまって、愛人達についた弟や妹から裏切られ、いじめ後遺症にされ、まともな精神状態ではなくされていても、大学進学の為の受験勉強を理由に逃げる事もせず、自分のことはさておいて、母を助けて、弟や妹のご飯を作り、父蒸発後、外で働く母がいない家を守り、弟が成人し、父の愛人と結託した鈴子を、卑劣なやり方で受け入れさせられ、それでも弟のそばを離れたくない母を、弟公認で見殺し状態を続けて、死ぬ寸前迄追い詰めた鈴子から、母を引き取り、一人で、母の介護を20年続けて、私一人で母を見送った私を、褒めてやりたいと思っています。

 

 直接自分では手を下さず、取りついて弱みに付け込んだ者に、恵み本来の持ち主をテリトリー社会から抹殺する人でなしな事を実行させるという卑劣なやり方の為に、刑事罰を受けていないというだけのことで、事実上は、杉浦の非道暗躍で、学園社会で抹殺され続けることに耐えられず、私が自殺する可能性もあったし、夫に蒸発させられた二組の母子が、路頭に迷い、心中する可能性も十分あった訳で、それを承知で、妻子から夫を取り上げることを実行した弘子と鈴子で、この、何の罪もない子供と、子供を守る母親から、生きる為の全てを強奪して、欲望を満たし続けている、殺人未遂も含めた、凶悪な強盗犯と言ってもいい、非道な3人の女達に比べて、私は、持って生まれた魂の位、霊格が高い人間だった為に、孤独に耐え、どんなに大変でも、弟や妹のように現実的欲望に負けることなく、3人の女達に屈することなく、ここ迄、導かれ、守られたのだと思っていますし、お金になるなら、どんな仕事でもいいと思うことなく、この苦しみと不条理と困窮の真の原因追及と真の解決の為の、あらゆる勉強をし続け、その成果を生きる糧にすることが出来たのだと思っています。

 そして、私以上に、この3人の女達より、ずっとずっと、人間として立派なのは、父に蒸発されても、自分が女として父に愛されなくても、どんなに大変でも、私と弟と妹を守り、高校迄出してくれた母を、弟が仕事を探しに行くと言って、未だ1歳そこそこの赤ん坊だった、弟の本妻の子供の優和のミルク代も渡さず、弟が本妻の真由美を暴力的に叩き出して、真由美が弟と鈴子を訴えることが出来なくする盾にする為に、優和を暴力的に奪う迄、父と同じように蒸発していた時に、弟の本妻の子供の優和を託児所に預けて、キャバレー勤め迄して、優和を守った真由美も同じで、この、3人の女達の百億倍以上も立派な、母と真由美のお蔭で、私と弟芳昭と妹尚美と弟の本妻の子供の優和と彼らの子供は、現在生きていられる訳で、心の底から、母と真由美に敬意を払い、深く感謝しており、だから、母と真由美の無念を晴らす為に、全力を尽くしています。

 

  この三人の女達が、未だ、何一つ償いもせず、返済もせず、関係者全てを騙し切り続け、奪い切り続けている訳で、その、残忍残酷非道卑怯卑劣極まりないやり方で、何の罪もない、子供の頃からの私や、本妻家族に与えられる恵みを、今現在も奪い続けている訳ですから、彼女達が償いをして、私達から奪い続けている、何億何兆以上積んでも買えられない価値を奪うことを止めさせ、返済に取り組まない限り、世にも残忍残酷非道卑怯卑劣極まりないやり方で理不尽に奪われ続けている、本来私達に与えられる筈だった恵みが奪われ続けた結果の、現状の経済的困窮は、孫子の代に渡って、未来永劫続くことになります。

 

 私は、かなり前から、占い師になる為に生れたのかな、それにしても、物心ついた頃からの、これほどの苦しみと困難を強いられ続けるほどの悪い事をした覚えもないのに、何故、何が原因で、こうなってしまうのかの、真の原因追及と根本解決にしか関心がなく、年頃になっても、恋愛や結婚には関心がなく、その答えがありそうな、様々な習い事や、占いや宗教などに手当たり次第挑み、資格を取り、その答えが載っていそうな本を読みあさり続けるうちに、自然の流れのように、私と同じような苦しみを抱える方の御相談を受け、占いを羅針盤とした、カウンセリングを伴った、占い師という仕事をするようになった訳ですが、平成 2年当時、駅ビルにあった占い所で、プロの占い師としての仕事を、約3年続けて後の、女性専用占いサロンとしての独立開業し、約30年この仕事を続けさせて戴く中で、本当に多くの方々との運命的な出会いがあり、30年来の常連の方もいらっしゃいますが、中には、私との出会いがなければ、現在の笑顔の暮らしはなかったと思われる方もあり、カウンセリングを伴った占い師としての仕事は、それはそれで、そんな経験をした私だからこそ、必要として下さった方々のお役に立てることが出来、その方々に戴いた報酬で今日迄生きさせて戴けた訳ですから、意味があったことは間違いないとは思っていますし、そういう、長年の常連の方と、特別のご縁を感じた方の御相談は、これからも、受けさせて戴くつもりですが、ただ、心のどこかで、このまま、この仕事を続けていても、加齢に伴って、動けなくなれば、それで終る訳ですし、果たして私の人生は、このまま動けなくなって、終わるだけでいいのだろうか、三人の非道女達の諸行はこのままお咎めなしで許されるのだろうか、杉浦や弘子や鈴子の人でなしの諸行によって、破壊された、母や私や弟や妹や弟の本妻や弟の本妻の子供の縁や本来の人生は、このままなのだろうか、3人の女達のせいで起きている問題の意味を知り、本来の健全で正常に回復する、バランスをとることで健全で正常を維持する宇宙の法則にのっとった真の解決という鍵は、今のところ、関係者に対して、私しか持っていないのに、このままだと、占い師としての人生を終わるだけになってしまうけれど、それでいいのだろうか、いや、そんな筈はない、これ迄何度もあった、生死の淵をさまよっては、逆転急浮上を続けて、今迄生かされて来たことには意味があり、どんな状況になっても、その問題を解決しないまま、私の人生が閉じられることはあり得ない、何かある、ジグソーパズルの最後のワンピースの一つの何かが足りないという思いが、ずっと心の芯にあり、電気もガスも止まり、冷蔵庫が空っぽになった状態でも、何故か、私の心は落ち込む事もなく、それどころか、強い生命力が、体の芯から湧き上がり、私を落ち込ませず、生き続ける為の、ありとあらゆる事を思いつかせ、年齢的なこともあり、この度の経済的困窮は、普通に考えれば、とてつもなく深刻な筈でしたが、それでも、私の心は弱まらず、とにかく生きれるだけ生きる努力をして、この経済的困窮が、これ迄のように、私に新たな何かをさせる為に必要な何かを気付かせる為であれば、そのことに気付いて実行すれば、必ず、逆転急浮上し、経済的復旧の為の何かが起こる筈だという思いがあり、何をすればいいかを思いつかないなら、まあ、このまま、命尽きることになるけど、それはそれで、宇宙の意志で、宇宙に帰れるだけだから、何も心配することはない、それが宇宙の意志と受け止め、安らかに人生を閉じようと思い、決して落ち込むことなく、命が終わるその時迄、強い心で、生きる為のありとあらゆる努力をするだけだと思っていました。

そんな状態でも、通りすがりの人が、いきなり、ツカツカと私の所迄近寄って来られ、 “ あんたは元気そうだね”と声をかけられるようなことが、2度もあり、私はこんな状態でも、他人様から見れば、元気でイキイキしているように見えるオーラを発しているのかと、自分でも自分の強さにあきれ果てる始末で。

 

 自分が本当にしたい、やるべきことに気付き、そのことに着手すれば、経済的困窮は、一気に逆転急浮上することを、私は、これ迄の経験で知っていましたので、この状況は、私にやるべきことを気付かせる為に必要なことだと確信し、それほど落ち込むことはなかったというのもあります。

 

 電気もガスも止まったので、8月の暑いさなかでしたが、当然、冷蔵庫のものは駄目になるし、ガスをつけてのお風呂もシャワーもだめでしたが、幸い、水道は止められませんでしたので、こんな状況だけど、清潔だけは心掛けたいと、これは滝業だと思い、毎日冷たい水のシャワーを浴びていました。

 

 ところが、冷蔵庫も駄目になり、食べられるものはほとんどなくなった状態なのに、歌いたい衝動が止まらず、それも、子供の頃、父が蒸発する前に、毎日歌っていた懐メロが、腹の底から、次々に湧いて来て、歌い続けている自分がおり、それも、とてつもなく力強い、素晴らしい声で、“私ってこんなに歌うまかったっけ”と自問自答するほどで、とにかく歌い続けているうちに、私が本当にしたかったことは、これだ、父が、歌のうまい、素敵な歌を歌う人で、毎日、父のように素敵な歌が歌えるにはどうしたらいいかと、小学生の頃から、練習し続けている自分を思い出し、いじめ後遺症から抜ける迄、いじめ後遺症にされて、感じる心を破壊されていたのでどんなに練習しても、エレクトーンを、週一で、休むことなく、20年、レッスンに通い、ヤマハのグレード7級を取り、エレクトーン講師になれる 6級の試験を受験する為のレッスンに取り組んでいた所で、彼と別れることになり、電話営業で見込まれて東京に出向することになって、エレクトーンのレッスンを止めざるを得なくなった訳ですが、でもそこ迄音楽的知識を身につけても、どうしても、自分が納得する歌は歌えず、自分は、歌は駄目だと思い込み続けていた訳ですが、それは、苛め後遺症で、感じる心を破壊されていたから、歌詞の思いを感じ取る事が出来ず、従って、感じてないことを表現することなど出来る訳もなかったからで、いじめ後遺症から抜けて、感じる心が回復し、感じたものを自然に素直に表現することが出来るようになった今は、歌も朗読も出版も、素直に、心の思いを表現すればいいだけで、歌も例外ではなく、私は歌の才能を授かってなかった訳ではなく、歌が下手だったのでもなかったことに気付き、いじめ後遺症だった為に、歌は駄目だと思い込んでいただけで、本当は、私は、父と母と先祖と宇宙から、何億何兆以上積んでも買えない宝の、素敵な声を授かっており、素敵な歌唱力の天分を、父から受け継ぐことが出来ていたのだという事に気付くことになりました。

 

 思えば、小学校5年生くらいの時から、弟や妹のご飯を作り、大人になってからは、人様の御相談を受け、人様の人生にかかわり、人様を守ることに全力を尽くし、その仕事も駄目になるほど、母の介護に全力を尽くし、私一人で、約20年、母の介護をして母を看取り、占いの仕事も、コロナの影響もあってか、下火になり、だからガスも電機も止まった訳ですが、でも、そのお陰で、やっと、他人様のことではなく、自分の為に自分の時間を使い、自分の為の事を考え、自分の為に行動することに自分の時間を、思う存分、使える状況になったということに気付きました。

 

 私は、物心ついた時から、声に関心があり、英語が好きで、広大の英文科を目指したのも、試験に受からず、広大の英文科は断念することになりましたが、英語の音の響きが好きだったから、広大の英文科を目指していただけで、戦争で亡くなった父の長兄が、昔の映画の活弁士だったそうで、その血を引いているのかも知れませんが、私は、来宮良子さんの声が、どうして、あんなに、心に突き刺さるほど強い響きを持っているのか、同じ人間として、同じ喉と声を持っていて、来宮良子さんのように心に強く響く声と、ただ音だけが通り過ぎていく弱い声の違いはどこにあるのか、どうしたら、来宮良子さんのように、ただ話すだけで、心に突き刺さるような強い響きで話すことが出来るのか、どうすれば、そういう声が出せるようになるのか、その答えが知りたくて、アナウンス教室に通い、狂うほど勉強し、その勉強の過程で、半年に一度のNHKアナウンサーの指導を受けたいばかりに、点字図書館の朗読奉仕をするようになり、そこで、幻魔大戦という、文庫本20巻を納め、熱烈なファンレターも戴くようになり、出来が良かったので、東京の国立点字図書館に蔵書したとも聞いていますが、私は、子供の頃から、父のように歌がうまくなりたいと思い、歌の研究を続け、成人してからは、来宮良子さんのように、心に届く声で話せるようになりたいと、アナウンスメント教室に通い、原稿読みの勉強に狂い、スタジオから、テレビコマーシャルのナレーションのお呼びもかかり、100本くらいは、ON AIRになったテレビコマーシャルのナレーションも100本くらいはありますが、ディレクターがOKを出して下さっても、自分ではどうしても気に入らず、それは、父と母から貰った声のきれいさだけで読んでいたからで、いじめ後遺症にされて破壊された心で、どうしても思うような表現が出来る訳もなかったのですが、未だ、いじめ後遺症から抜けてない時の、当時の私には、そんなこと、分かる筈もなく、一人悩み続けていた時に、電話営業の会社からの強い誘いで、東京に行くことになり、全国トップになり、月収百万円くらい稼ぐようになり、部下を付けられ、管理職となって広島に戻り、それを妬まれて、貶められ、電話営業の会社を辞めて、駅ビルの占い所に勤め、占い師になるという流れがあるのですが、どうも、私が、物心ついた時から、心の底から、止められなくて、のめり込んで打ち込み、研究、勉強し続けて来たことは、占いの勉強だけでなく、声で表現する、アナウンスメントと歌だったようで、いじめ後遺症から抜けた今、こんな状況でも、私は、こんなに強い、いい声で、こんなにいい歌が歌えるようになったのだと、我ながら驚き、子供の頃から、弟や妹のご飯を作り、人様の御相談をうけ、母の介護をし、自分が本当にしたいことなど、考えることが許される状況になく、ただ、誰かを責任持って守る為と、生きる為に、あくせくし続け、自分が本当にしたいことになど、意識を向けることさえ出来ない状況だったけれど、ここに来て、電気もガスも止まるほどの経済的困窮があったとしても、それは、他人様のために拘束される時間が少なくなり、これからどうするかなど、自分のことだけを考える時間がたっぷり出来たという事で、やっと、本当に自分にしたいことは何だったかを気付くに至ったという訳です。

 

 そしてその時に、これで最後の総仕上げだ、歌と朗読をUチューブに上げ、そして出版で、全てを語れば、抱えている問題の全ては解決する、抱えている問題の全てを解決するには、それ以外の道はないという強い想念が、まるで肉声の音となって聞えるほどの強い力を持って湧いて来ました。

 

 どうやら、宇宙は、リアルタイムの私をして、宇宙の存在と、宇宙の力を、世に知らしめさせようとしているようで、歌と朗読と出版の三つを、社会的に発表することが、私の、宇宙からの究極の使命で、これ迄にあった全ては、その為で、この三つを完成させる為に必要だった、その使命を果たせば、母の無念を晴らし、二人の愛人達に何をされたか、何をさせられたかの、二人の愛人達の非道の意味を、弟や妹や二人の子供達に分らせ、弟や妹や二人の子供達自らの意思で、二人の愛人達を突き放させ、その上で、弟の本妻と本妻の子供を会わせてやり、二人の愛人達の為に、何も悪いことをしてなく、何の罪もないのに、最も、二人の愛人達の非道の欲望の犠牲にされ続け、宇宙から本来授かった縁と恵みを赤ん坊の時から破壊されて奪われ続けている、弟の本妻の子供の優和が、宇宙から本来授かった素晴らしい恵みを、優和自ら気付き、愛人達に歪められ、洗脳された思考の呪縛から解き放たれ、自らの意思と自らの努力で、宇宙と先祖と祖父母の父や母や両親である、弟や真由美から授かった天分を開花させ、優和自身が宇宙から授かった本来の幸せを生きることが出来るようにしてやり、彼の子供の未来も安心出来るようにしてやるのだ、二人の愛人の非道が始まった時に、ここ迄のことが分かっていなかった為に、弟の本妻も本妻の子供も守ってやることが出来ず、二人の愛人達のやりたい放題され続け、止める事も出来ず、結果的に、何の罪もない赤ん坊の時から、優和を犠牲にされ続けることから、優和を助ける事が出来なかったのだ、優和と優和を産んでくれた優和の母親の真由美に対して償えることは、それしかない、二人の愛人達の為に、夫とも子供とも孫達とも引き裂かれ続けたまま、94歳の天寿を全うしなければならなかった母の無念を晴らすことも、この三つを成し遂げる以外に道はない、この三つを果たすことができれば、それは必ず叶えられるとの強い想念が、私の心を捉え、今は確信を持って、そのことに取り組んでいます。    

 

 そして、約60年研究し続けて来た歌と朗読を、Uチューブに上げて、社会的評価を受けなければならない、そして、その歌は、父が歌っていた、懐メロを中心にしなければならない、懐メロは、歌詞が、文学的に完成していて、叙情的で、素晴らしいものが多く、私の歌唱で、後世に残さなければならないとのメッセージも伴っていました。

 

 そして、次に  ブログを上げる時には、歌と朗読を Uチューブに上げ、それを、ブログに張り付けてからにしようと心に決めました。

 それからは、私の歌と朗読が、Uチューブに上げて、社会的評価を受けるに値するかどうかを、客観的に検証する為に、カラオケボックスに定期的に行き、ダムの精密採点Gを受け続けるようになりました。ダムの精密採点Gでは、AI寸評があるのですが、その寸評で、堂々とした歌いっぷりで、威厳すら感じられますとか、声に力があり、生命力に満ちているので、聞く人を元気にしますとか、演歌を歌った時には、演歌ならではの情感が伝わってきて、歌の世界が広がるようですとか、ビブラートが秀逸で感情迄揺れているように感じますとか、神業的なロングビブラートですとか、プロ並みのビブラートですとか、天下一品のビブラートですとか、文句なしのビブラートですとか、ほとんどビブラートボーナスがつき、特にビブラートについての評価が高いのですが、実は、このビブラートこそが、子供の頃聞いた、父の歌の素晴らしいところの一つで、子供の頃から、父のようにロングビブラートが出来るようになりたいと、研究し続けていたのですが、いじめ後遺症にされて、感じる心を破壊されていた時には、どんなに頑張っても出来ませんでした。

 

 いじめ後遺症から抜け、感じる心が甦り、歌を、歌詞でなく丹田にある、歌詞になる前の思いを、その歌詞を使って、聞き手に届けようという思いで歌う時に、力強い声で、きれいなロングビブラートを出すことが出来るようになることが、体感で分かるようになりました。

 歌詞や言葉を、ただ喉から出すのではなく、歌詞や言葉になる前の思いを分って貰おうとして、歌詞や言葉を使って、聞き手に伝えるという事だったのですが、いじめ後遺症にされて心を破壊され、出来なかったからこそ、いじめ後遺症から抜けて、感じる心が甦った時に、出来るようになりその差が、体感として分かったので、理論として言えるようになり、体で実行出来るようになった訳で、いじめ後遺症にならなければ、その差を理論的に言葉にすることは出来なかったと思いますが、それが出来るようになって、ロングビブラートだけでなく、かなり高い声も低い声も、きれいな声で出せるようになり、高音も低音もきれいな声で歌えるという、伊藤久雄さんや父のような歌い方の、ベルカント唱法に近いのではないかと思っていますが、そのやり方が分かり、出来るようになって、精密採点のこの評価を受ける事が出来るようになったのだと思います。

 ただ、その歌詞や言葉になる前の思いは、丹田に意識を向けると、必ず、もわっとした感じであり、その思いを、聞き手に、その歌詞を使って、自分の言葉として、伝えようとする場合と、何度も歌っていると、その炭田の思いが、上半身とか、後頭部に広がって上がってきて、それを、自分の言葉として、遠くの聞き手に伝えようとした時に、高得点になるので、何度も歌って、歌詞の意味が、もっと自分のものになると、それが、上半身や後頭部に広がるのかも知れないと思っていますが、いずれにしても歌詞をそのままメロディーに乗せて歌うのでは、力強い声にはならず、歌詞や言葉になる以前の思いを、自分の言葉にして、聞き手に伝えようとした時に、声の響きに力が出てきます。

 

 実は、このことが、私が知りたかった、来宮良子さんのように強い響きの声が出せるようになる為の答えで、いじめ後遺症から抜ける迄、決して叶う事のなかった、60年以上求め続けた答えだったのですが、

これも、子供の頃から研究し続けて来た、約60年の成果ということになりますが、懐メロなど、この年迄、歌が好きで、歌の研究を続けているので、一杯、歌を知っているのですが、悲しいかな、楽譜で覚えていないので、音程の正確率が今一で、曲によっては、音程の正確率が90 % 以上のものもあり、それに関しては、総合点が96点くらいには行くのですが、平均の音程の正確率が80点前後なので、今は音程の正確率を上げることに取り組んでいます。

 

 まだUチューブには上げていないのですが、ダムの精密採点Gとポケカラが連動しているようで、精密採点Gを受けるようになって、毎日のように、”声がきれいで引き込まれました”とか、”美しい声ありがとうございます”とか、”毎日聞いている、素敵な空気感を作る声の感じ、どこ迄も透明できれいで羨ましい”とか、”心に響くってこういうことなのね”等々の通知メッセージが、1日 10件くらい入り続けるようになって来ていますが、私は、この年で、スマホの扱いがよく分からず、どうすれば、そのメッセージを開けられるのか、どうすれば、お返しのコメントが出来るのか、そのやり方が分からず、そして、仮にやり方が分かっても、この、身に余る、ありがたいコメントを下さった皆様に、その都度のメッセージのお返しをする時間が、今の私には物理的になく、本当に申し訳なく思っています。

 

 ポケカラアプリから戴く通知メッセージの多くに、声がきれいで引き込まれましたとか、声がどこ迄も透明できれいでうらやましいとかという言葉を頂けることは、私にとっては、3人の心ない人でなしの女達の為に、ここ迄、大変な目に遭わされ、電気やガスも止まるほどの困難に遭っても、彼女達と同じ非道なことをして、自分以外の者を犠牲にして欲望を満たすようなことはせず、自分のことはさておいて、弟や妹や母の老後を守り、同じような苦しみを抱え込まされた、困難な目に遭っておられるご相談者の為に、人生をかけて真剣に取り組み続け、単なる知識や技術や小手先の小細工に頼らず、しがみつかず、屁理屈で楽な方に逃げず、まっとうな心で生きて来たことが、声に濁りと汚れを付着させず、父と母から授かった、宝の素晴らしい声を守る事が出来、それだけでなく、声が美しくきれいで歌のうまい方は、たくさんおられますが、私と同じ経験をした人はなく、3人の女達に強いられた苦しみの試練を乗り越えて、彼女達に、生きる為の、物理的な恵みの全てを奪われ続けても、彼女達のような、何の罪もない者から、残忍残酷非道卑怯卑劣極まりないやり方ではぎ取ったもので欲望を満たして平気な、屑の心と魂になり下がる事なく、魂を汚さず、良心に恥じない生き方を懸命に続けて、尚且つ、いじめ後遺症から抜けた今の私は、ただ声がきれいというだけでなく、3人の女達に与えられた試練で、体中の血が逆流する程の怒りや、私を溺愛してくれている父や、愛して守った弟や妹達に理不尽に引き裂かれ続ける悲しみや苦しみ、これは、母や弟の本妻の悲しみや苦しみと同じものですが、その、自分以外の人の苦しみを、実感として分かる心や、電気もガスも止まっても、それでも、生きることを諦めず、生きる活路を見い出し続ける強さと、宇宙から届くメッセージを受信し、それを心から信じることが出来る素直さなどが、声に、深みをつけ、力強さ、豊かさ、伸びやかさを与え、聞き手の心に響く歌にとって大切なことは、歌詞に込められた思いを感じ取る力、解釈力と表現力ですが、歌詞に込められた思いを感じ取る力、解釈力と表現力が付き、特に人為的に感情を込めようとしなくても、父と母から貰った、何億何兆以上積んでも買えない素晴らしい宝の声に加えて、声自体に、その苦しみを乗り越えた強さや、苦しみや悲しみ怒りや、心の痛みを実感として分かる豊かな深みが加わり、歌詞に込められた思いや感情が込められた声になっており、今の私の声の値打ちは、3人の女達に強いられた、とてつもない苦しみや理不尽や困難が作ってくれたものだと断言出来、言い換えれば、3人の女達に破壊され、失わされ、奪われた、何億何兆以上積んでも買えない価値は、誰も真似の出来ない、何億何兆以上積んでも買えない私の声の価値を作り上げてくれたと言え、彼女達に強いられた試練は、今の私の価値を作ってくれた訳で、全ての苦しみや困難は、決して無駄ではなかった、今の私を作る為に必要なことだったと、声高らかに言えます。

 

 私が、何かもう一つ必要だと思っていた、私の人生の最後のワンピースが、声を使って表現することだと気付き、これが最後の総仕上げだとの強い想念が湧いて直後だったと思いますが、駅ビルの頃からの、30年来のお客様から、野菜があるので持っていくとの電話があり、長年の常連の方でもあり、遠方でもあるので、少々のことは、電話で相談を受け、鑑定料を請求しない時もあったりするので、時々、そんな風に、出来た野菜を持って来て下さるのですが、たまたま、そのタイミングだったという事で、もう、冷蔵庫も空になり、お米もなくなっていたので、とてもありがたく、農家でとれたキュウリは、スーパーで売っている3倍ぐらいの太さと長さで、それが、十本以上あり、スライスして、常備して作っている、酢のものの和え酢をかけて、ご飯代わりに戴いたりしたのですが、それで血がきれいになった為か、体が軽くなったりする予期せぬ効果もありましたが、その日を境に、経済的なことは、徐々に上向きになって、経済的困窮から脱出する事になりましたが、まだ、7000円近くになるインターネット使用料が払える迄にはしばらくかかり、ブログを上げることも、皆様のブログを読ませて戴くことも出来ない状況は 2カ月前迄続いていました。

 私には、Uチューブに歌を上げるに当たって、一つのこだわりがあり、それは、父が愛人の弘子に蒸発させられる迄、いつも歌っていた18番は、伊藤久雄さんのイヨマンテの夜で、テレビなどのなかった当時は、よく、親戚が集まって宴会をしており、その時、いつも歌っていたのが、この歌で、朗々と張り上げる父のイヨマンテの夜は、それはそれは、誰も真似の出来ない素晴らしいもので、いつも拍手喝采で、現在でも、歌唱力に自信のある、多くの歌手の方が、この曲に挑んでおられますが、本人の伊藤久雄さん以外で、父以上に、この曲を素敵に素晴らしく歌われているのを聞いたことがありません。

それほど、父のこの歌は素晴らしいものでしたので、私を溺愛しながら、父の愛人の弘子の為に、私が高二の時から、物理的にだけですけど、私と引き裂かれた父であり、いじめ後遺症にされていた為に、父の愛に気付かず、父を苦しめ続けた贖罪の為にも、それでも、命の灯が消える直前迄、私に償おうと全力を尽くしてくれた、心から尊敬し、心から慕う父の為にも、その父から授かった歌の天分の証明の為にも、Uチューブに上げるオープニングの歌は、この、イヨマンテの夜にしようと思っていることです。

 ですから、カラオケボックスに行った時には、必ず、イヨマンテの夜を集中的にレッスンするのですが、ビブラートが秀逸ですとか、ビブラートは天下一品ですとか、天迄届く伸びやかな声ですとか、歌の世界が広がるようですなどの AI 寸評は戴くのですが、音程の正確率が、今はまだ83パーセントくらいで、せめて、このイヨマンテの夜が 18番で、本人の伊藤久雄さんを除いては、父以上に、この曲を素晴らしく歌える人はいないと思っている父の娘としての誇りと意地にかけて、音程の正確率を上げて、自分の歌を客観的に聞いて、これなら、父がOKを出してくれると思えるイヨマンテの夜に仕上げて、Uチューブに上げようと思っています。

 

 上記の理由で、次にブログに記事を上げる時は、イヨマンテの夜を、私的に、納得ゆく迄仕上げて Uチューブに上げ、それをブログに張り付ける時だと、固く心に決めていましたので、ここ迄長い、お休みをさせて戴いておりましたが、そんな決心をしていたのに、こうして、ブログを上げさせて戴きましたのは、昨年12月の中旬、約 1か月前になりますが、年に一回届けられていた、母校、皆実高校同窓会会報新聞、皆實有朋 86で、昨年、令和5年2月17日に、私の学生時代の思い出の相手、中本信雄君が亡くなっていたことを知り、イヨマンテの夜を張り付けることが出来ない限り、ブログ記事を上げないことに決めていた私でしたが、急遽、こうして、私の思い出の相手の彼、中本信雄君の追悼記事を上げさせて戴きました。

 

 実は、この前年度の令和4年12月初旬だったと思いますが、母校同窓会有朋会の会報新聞、皆實有朋 85が届き、そのトップ記事として、令和4年5月の常任幹事会で、全同窓生同窓会である有朋会、以後、全同窓生の同窓会ことを有朋会としますが、有朋会会長として、皆実24の城 一博氏が選任されたと報じられていました。

 これを見て、次期会長と目されていた中本が会長になれば、中本は、すぐ、会長権限で杉浦を次期会長に選ばされ、中本は、杉浦と、会長を交代させられるのが分かっていましたので、とりあえず、中本が会長にならなくてよかったと思いましたが、何故中本が会長にならなかったかの事情が分からないので、しばらく、コロナ禍で、お休みになっていて、久しぶりに行われる、令和5年の8月の定期総会に参加して事情を知りたいと思って、正しい日程を調べようとインターネットで、有朋会の情報を調べたら、コロナを理由にして、全指定席で、当日券はないとなっていましたので、当日券での参加しか出来ない私は、令和 5年8月の定期総会には参加出来ませんでした。

コロナのさなかの平成30年には、当日券があったから、私も当日券で参加出来たのに、世間的にはコロナも鎮静されたと見られている、令和5年8月の、当日券なし、全指定席の決まりは、不審で、おかしいと思いました。

 

 実は、平成30年の定期総会の時に、私が当日券で参加した事は、杉浦にとっては、青天の霹靂の、予期せぬ出来事だった筈で、杉浦は、私に、杉浦非道をその会場で暴露されるのではないかと恐れ、私が、いざ会場に入ろうとすると、絶対に自分では直接手を出さず、自分が犯人だとは絶対にバレないやり方をする杉浦の陰の実行犯で、中本の親友とされている、やくざで言うなれば、汚れ役の実行犯、鉄砲玉の役割で重宝されて、杉浦側近の有朋会幹事にして貰っている、大林哲雄が、私が入れないように、会場の入り口で通せんぼうをして、会場に入ろうとする私を、両手を広げて、大きな体で阻止するので、しばらくの間、それでも入ろうとする私と、どうしても会場に入れまいとする大林との間で、攻防のすったもんだもんちゃくがあり、私が、大声で、杉浦は皆を騙しているでしょうと叫ぶものだから、仕方なく、大林が、通せんぼうをして広げていた手を下ろして、やっと、私が会場に入ることが出来るという、71歳にもなった、名門母校皆実高校を卒業し、大学迄出た最高学歴保持者で、現役時代は、それなりの役職についていた筈の、いい歳をしたものが、紳士にもあるまじき、とてつもなく恥しい振る舞いを、杉浦にさせられた、一場面でしたが、その会場に入れ、この定期総会に参加したことで、森田前会長に、事情説明を渡す流れが出来た訳ですが、コロナ真っ盛りの平成30年には、当日券があったのに、コロナも鎮静されたと世間が認識している、令和5年の定期総会が、コロナを理由にして、当日券なしの全指定席の決まりは、おかしく、当日券で私が定期総会に参加することが恐ろしくて堪らず、それを阻止する為のものだったと確信していますが、この年の2月17日に亡くなっていた中本は、この時既に、この定期総会に参加することは出来なかった訳で、定期総会を完全指定席にしたという事は、杉浦非道に異を唱えない、杉浦非道が分かっても、杉浦温存を決断した森田前会長に異を唱えない者だけしか、定期総会に参加出来なくなっているという事を露呈し、母校同窓会は、ほんの一握りの、権力欲に取りつかれた者達に私物化されており、とても、伝統ある、素晴らしい、名門、母校皆実高校本来あるべき姿ではない現状になっていることが、このことで証明されたという事で、未だ、全同窓生を代表する常任幹事という立場の杉浦は解任されてなく、浄化も改善もされてないという事も分かりました。

 

 それでも、とりあえず、令和4年12月に届いた会報、皆實有朋 85で、中本が会長にならず、次期会長が、皆実24期の城一博氏に決まり、杉浦が会長になることはないということだけは確定したので、よかったと思いました。

この会報新聞皆實有朋85の、城一博氏、新有朋会長就任の報道だけでは、中本自身の意思で辞任したのか、森田会長の判断で中本を解任したのか、その会報新聞皆實有朋85の報道だけでは分かりませんでした。

 

 中本が、令和5年 2月17日に亡くなっていたことが報じられていた、皆實有朋 86の紙面で、彼が令和4年に辞任していたことも報じられており、という事は、皆實有朋85が届いた、令和4年12月には、中本は、まだ生きていて、たぶん余命宣告を受けて病床にいたという事になります。

 

 何の因果か、杉浦は、私と同じ、皆実高校だった訳で、彼女は、段原中学校「段中」の時に、私が自然に学級委員に選ばれ続けていたことを恐れ、母校、皆実高校に入学当初から、誰が私と親しくなるか、注意深く監視し続け、私と親しくなりそうな人を狙っては取り付き、私貶め嘘を蔓延し続けてシカトの対象にし、私と親しくなる学友を一人もなくし切り続ける動きを始めていたようで、私の高校生活は、初めから、何かがおかしい、ちっとも楽しくない、誰とも親しくなれない、親しくなりかけても、最初はいいけれど、しばらくすると、私を突き放すような態度になり、親しいと思って安心して、朝の挨拶をしても、わざと横を向く学友迄いるという事が続き、私は、高校では誰からも親しくして貰えないと思い、とうとう、学友を避けるようになってしまっていましたが、私の思い出の相手の彼、中本だけは、私と行きかう度に、必ず、少し憂いを含んだ、恥ずかしそうな爽やかな笑顔で、手を振って挨拶してくれており、彼だけは、私を無視しないと分かったので、いつからか、学友を避けていた私の方からも、彼と行きかう時には、彼だけには、笑顔で手を振るようになって、その時既に、いじめ後遺症になっていた私でしたが、彼の、かすかに憂いを含んだ、爽やかな笑顔は、かすかに、私の胸を縦に貫いて響いていた記憶があり、それはきっと、彼に対して好意を持っている心の証しだったと思いますが、彼だけには、まったく警戒心なく、彼と行きかう度に、私も笑顔で手を振っていました。

 

 未だ、そのかすかに胸に響く感覚が、何を意味しているかなども分からない、純白の乙女だった、当時高校3年の私で、その年、昭和39年11月のえびす講の中日 (なかび) の翌日に、父が蒸発させられるので、その何カ月か前の初夏だったと思いますが、その時には既に、父を蒸発させた愛人が父に取り付き、父につきまとい続け、父が夜遅く迄、愛人と遊び回って帰らなくなるようなことも続いており、私が家事をしてうちを守り、母が働いていても、うちにお金が足りないことが分かり、かかる費用を父や母に頼む事が辛くなり、私は、学校から特別の許可を貰って、当時、広島では有名だった、もりやという、高級すし店に、学校の授業が終って、お運びとして、アルバイトに行くようになっていたのですが、授業が 3時に終わって、バイトが始まる5時迄に少し時間があるので、教室で、大学受験の為の勉強をしていた時に、中本が教室に入って来て、”何しよるん“と言ったので、”受験勉強”と言ったら、“一緒に受験勉強頑張ろう ”と言ってくれ、私が“バイトがあるから出来ん” と言い、しばらく沈黙が続き、何故か、彼とそれ切りになりたくなくて、「私がこの気持ちになったことが、約50年後に私が集いに入り、杉浦非道の全てが分かり、私がここ迄のことに導かれる為の、母校学園社会の正常化なる迄、もう誰にも止める事の出来ない、目に見えない、とてつもなく大きな力が導く、シークェンスの始まりだったと、今では思いますが、その時には、そんな事、絶対に分かる訳もなく」”参考書を貸してくれる ?”と、私が聞いたら、彼が、いいよと言ってくれ、そのまま、彼のうちに、参考書を借りに行くことになり、彼は自転車通学をしていたので、“乗る ? ”と聞かれ、彼の自転車の後ろに乗り、そのまま、母校の通学路を走り抜け、彼の家迄行きました。

 

 私は、何となく、彼と付き合う事になるのかなと思いましたが、何故か、彼とは、それ切り、行き交う事もなくなり、それから何カ月か経って、参考書を返しただけで、母校では、それ切りになりました。

それ切りになったことには、その直後、彼と付き合い始めた杉浦の非道暗躍があったことは、45年以上も経って、集いに入って分かる訳ですが、ここで、中本と私と杉浦の関係を分かり安くする為に、中二の一学期、私が学級委員に選ばれた直後から始まった、それ迄、自然に学級委員に選ばれ続けていた私を学級委員から引きずり降ろし、私が親しくなる学友を一人もいなくし切り続ける為の、杉浦非道暗躍について、かいつまんで申します。

 

 中二の一学期、私が、学級委員に選ばれた直後から始まった、学級委員選出選挙の候補にも名前が挙がらず、誰からも選ばれないのに、仕切る立場でなくては気が済まなかった杉浦が、「当時玉田姓」、大阪から転校して来た、大井喜久子と言う名で、今は結婚して、古野姓になっていますが、その大井さんを、男子の学級委員に選ばれ続けていた小谷君という男子に取り付かせ、小谷君は、目が大きく、端正な顔立ちで、頭もよく、穏やかで、男子からも女子からも人気がありましたが、その小谷君を学級委員に選ぶ男子を、女子の学級委員では、大井さんを選ばせて、その大井さんと小谷君を、私シカト孤立させ旗頭にして私シカト孤立させ集団にし、杉浦は、大井さんを操ることで、大井さんと付き合わせた小谷君も、小谷君に投票する男子も、陰で支配出来る妙味を覚え、その時に学習し、それを母校皆実高校で実践したという事ですが、杉浦は自分がそんな事をしている事が私の耳に入ったり、先生に知られたりすることを恐れ、その非道暗躍を私の耳に入れる学友を一人もなくし切り続ける為に、更に非道暗躍を続けることになる訳ですが、それでも、杉浦が学級委員に選ばれる事はなく、それでも私は卒業迄、途切れる事なく、二番の会計に選ばれ続けており、それは、大井さんに投票したのは、小谷君の取り巻きで、女子のほとんどは、大井さんにも杉浦にも投票することなく、私に投票してくれたという事になりますが、杉浦が、中学卒業後も続いている女子の学友は、一蓮托生の大井さんだけというのも、頷けますが、杉浦が、中学の時から、仕切る立場でなくては気が済まなかったという事は、私が集いに入って開かれた、段中の同窓会の時に再会した大井さんが私に教えてくれたことです。

 

 ところが、何の因果か、杉浦と、その小谷君と私だけが、母校、皆実高校に配属になり、大井さんは、皆実高校ではなく、基町高校配属になり、杉浦は、同じ母校に配属になった、学級委員も一緒にしたことがある小谷君と私が親しくなれば、中二から、私を学園社会で抹殺し切り続ける為の非道暗躍が、小谷君から私に漏れることを恐れ、小谷君と私を接近させない為に、中学卒業後も、大井さんと小谷君を付き合せ続けており、その為に、小谷君は、母校にいる間中、中学の時に一緒に学級委員になった私と、言葉を交わすことすらなかったのですが、私がいじめ後遺症になって、学友を避けるようになっていましたので、私と小谷君が親しくなる心配がないと分って、大井さんは中学卒業後ずっと付き合っていた小谷君と別れ、東京の大学で知り合った男性と結婚し、その男性が結婚後5年で、交通事故で死に、寡婦になっていますが、小谷君は、大井さんと別れるにあたって、大井さんが、小谷君と付き合ったのは、私を学級委員から引きずり降ろし、学園社会で抹殺し切り続けるのに利用する為だったこと、しかも杉浦の計略で、杉浦が後ろで糸を引いて、大井さんを操っていたことに気付いていたようで、というか、そういう人間は、計略通りに人を操れることが、人より優れた人間であると勘違いするみたいで、弟の女の鈴子も、私に、弟を思い通りに操って、本妻と別れさせた事を自慢げに話していましたが、大井さんと小谷君は、学校卒業後、何年か付き合っていた訳ですから、気を許して、全て思い通りになったことを自慢するように、そのことを小谷君に話した可能性が高いと思っていますが、本当は人格者で真面目な小谷君は、そのことを知って、耐えられず、大井さんと別れたのかも知れませんが、小谷君は大井さんと別れ、以後、牧師になられ、これも何の因果か、私が、私の身に起きている余りのつらさに、その答えを求め、宗教や占いなど、スピリチュアルなことを勉強している途中に、誘われて教会に行くようになって、何度か通った教会の牧師さんになっていて、彼の方から、泣きそうな、済まなさそうな眼をして、弱々しく、 “中峯さん” と、声をかけて来た事があり、未だ、その時の私の心は、杉浦非道暗躍のせいで、訳が分からないまま、学友からシカトされ続け、自分を否定し、何故こうなったのか、どうすれば、この苦しみから抜けられるのかの答えを探している最中で、私の心、私の精神状態は、混とんとしたカオスの真っただ中でしたので、中学の時に学級委員同士だったのに、母校で私がシカトされ続けても知らん顔で、私に声をかける事もなかった彼に対して、冷たい態度を取った記憶があります。

 

 中学2年の時の、杉浦が、学級委員に選ばれ続けていた私を誰も選ばなくし切り続ける為の、転校生だった大井さんを利用してのこの暗躍が、母校の学園社会で発覚したり、それが先生の耳に入ったりすれば、彼女にとっては、問題児のレッテルを貼られ、退学もありの、とてつもなく恐ろしいことで、私を自転車の後ろに乗せて、母校の通学路を走り抜け、私への好意を公にした中本と私が、その後親しく続くことは、杉浦にとっては、自分が中二から続けていることが発覚し、中学の時と同じように、私が仕切る立場に選ばれ続け、誰からも選ばれない杉浦に逆戻りすることを意味し、それだけでなく、退学に直結するほどの非道の意味を、誰よりも知っている本人ですので、彼女にとっては、とてつもなく恐ろしいことだったという事で、どんなことをしても、この思い出後、彼と私が続くことを阻止しなければならなかった訳で、その為に、中学の時、大井さんが小谷君にしたように、小谷君を学級委員に選ぶ男子から、女子の学級委員では大井さんに投票させるようにして、私を学級委員から引きずり降ろさせることに成功したことを学習している杉浦が、中本に自らを抱かせることによって、この思い出後、私と中本が親しく続くのを阻止し、翠中の人気者だった中本の親友達を支配し、中本を私シカト旗頭にして、私を学園社会から抹殺し切る事に利用し続ける為に、中本が私を好きだと知っていて、中本が杉浦を好きではないと知っていても、彼と彼の仲間を支配し続け、私を学園社会で抹殺し続けることに利用する為に、高校3年の女の体を張ったという事で、ただ、女の体を張っただけでは、いくら高校3年の、男女の事に好奇心が最高潮の時だった中本でも、杉浦を抱かされることはなかった筈で、中本から私を諦めさせ、自らを抱かせる為には、まず、中本に私を嫌わせる必要があるので、中二から続けていた私貶め嘘を必死で中本に呑み込ませたということは、容易に想像出来ますが、私が段中で選ばれ続けた女子だという事は隠して、彼を騙していたという事で、杉浦が私を貶めていた嘘の内容は、私のうちが貧乏だということと、私が男にだらしない女だというようなことを吹聴していたことが、集いの皆や先生の言動で分かりましたが、私は、多くの男性に誘われたことは否定しませんが、体を合わせて付き合った男性は、親の許しと祝福を待って、結婚の約束をして20年付き合って、別れた婚約者一人しかいませんが、私が集いに入る迄は、私がいないので、どんな嘘も通る訳ですから、嘘で皆を騙し、操るのは、杉浦にとっては簡単なことだった訳で、中本は、見事に、その杉浦の罠に嵌ったという事になります。

 

 中学の時に、私を学級委員から引きずり降ろす為に、男子の学級委員だった小谷君に取り付き、誘惑した大井さんから伝授された、女の武器を駆使したのかも知れません。

 

 私と中本と、吉田拓郎先輩のステージの前座で歌っていた、歌のうまい玉田の3人で発足した、カラオケ同好会で、隣同士に座った中本と杉浦の体が、下品ないい方をすれば、出来ている男女の関係のように、お互いに向けてだらしなく溶け合っている感じがあって、もしかしたら、この二人は、男女の関係になっているのではないかと、その時、ふっと思ったのですが、後になって、中本と杉浦は、高校時代から付き合い続けていると、集いの者から聞いて、やっぱりかと思い、それを知らなかったのは、私だけだったと分かり、だとすれば、それは、あの思い出直後に違いなく、中本が、それ迄、私と行きかう時に、爽やかな笑顔で手を振ってくれたように、私と行きかうことすらなくなったことも、あの思い出直後だったことも、合点がゆくというもので、それなのに、それでも、中本は私の噂をし続け、自分の娘に私の名前を付け、妻も私に似た女性を選んでいたという事で、彼の心は屈折し、彼の奥さんも、きっと、彼が何を考えているか分からないと悩まれ続けたと思いますが、それが、中本が20年来の家庭内離婚だという言葉を、彼の友人の大林に言わせることにつながるのかと思っている私ですが、その時の杉浦にとっては、この思い出後、私と中本が続くことは、中二からの私を学園社会で抹殺し切る為の非道暗躍が母校にバレる恐れあり、退学の危険性もあったので、杉浦にしてみれば、色仕掛けであれ、何であれ、とにかく、この思い出後、彼と私が親しく続くことだけは、彼女にとっては、とてつもなく恐ろしく、何としても、止めさせなければならなかった事で、私と彼をそれ切りにする為の、色仕掛けも抱かせもありの、ありとあらゆる事をしたということになります。

 

 それからの、杉浦の、私と親しくなる学友を一人もなくし切り続ける為の、すさまじい非道暗躍が、ずっと続いていた訳で、その直後から、彼と彼女が付き合い続け、その流れで、彼が同窓会幹事に選ばれた時、女性の相方を探すように言われて、相方の女性幹事として、杉浦を選ばされ、かくして、段中で誰からも選ばれなかった杉浦が、同窓会同期の女性幹事となる事が出来たという経緯になります。

この、中二からの杉浦非道と、卒業後、45年以上も経って、私を集いに呼んだ理由や、その手口などの詳細は、ファーストメッセージからずっと、特に前半は集中的にお伝えしております。

 

 杉浦は、小谷君の親友を大井さんに投票させたと同じやり方で、中本の特別の女として、翠中の中本の親友を支配し続けることで、中本を、私孤立させシカト集団の旗頭にして、私を母校学園社会から、在学中も、卒業後も、抹殺し続けて来ているということが、今は分かっています。

 それが、母校皆実高校卒業後、45年以上も経って集いに入ることで分かることになり、それが分かった事で、私が苛め後遺症から抜ける事が出来た訳で、これも、宇宙と母校の神様と、母校の亡き先輩方の御霊の配剤だと、今は確信しております。

 会報新聞以外の情報が入って来ないので、中本の死因は分かりませんが、彼は、ヘビースモーカーだったので、集いにいる時に、私は、何度か、たばこを減らすか止めるかしろと忠告していたのですが、定期検診を受けているし、異常ないので大丈夫だと言っていましたが、肺癌ではないかと思っております。

 ただ、彼が、杉浦と大林や杉浦の側近達にせっつかれて、私を集いから締め出す為に、私を突き放すような行動を取り始めた時に、下瞼に、メボと、この辺では言うのですが、出来物が出来た事があり、彼が杉浦にさせられたことは、母校の学園社会の自然の縁を破壊し、同窓会全体を汚す、とてつもなく悪い非道なことで、中本の力がなければ、杉浦が今の立場になる事は出来ず、杉浦非道のここ迄の成功は、杉浦が自分で直接手を下さない手法をとっている為に、発覚し難かったということと、非道を暴露する被害当事者の私が学園社会で抹殺され続けて、誰とも話しをすることが出来なくされていたという事もありますが、杉浦非道を成功させたことに対して、中本は多大な貢献をしたという事になり、杉浦非道の筆頭旗頭にされていることの罪の重さの意味は、その時の私は、既に分かっていましたので、こんなことを続けていると、メボくらいでは済まなくなるよと言ったことがありましたが、本当に、メボどころか、命を落としてしまいました。

 

  それ以後、4年くらい前迄、メールで、あなた自身で杉浦を解任し、森田会長に身体伺いをたてて、杉浦の為にさせられ続けている、母校学園社会の自然の縁を破壊する後ろ盾は止めて、母校学園社会を健全で正常な状態に回復する為に全力を尽くしなさいと言い続けて来たのですが、50年がかりで杉浦に構築された組織のしがらみから、彼は脱出する事が出来ず、上述ほど迄の思いを持つ私を、集いから締め出し、杉浦が構築した、杉浦の欲望の為に汚れ切った体制に甘んじる選択をした訳ですが、彼の、余りにも早過ぎる死は、バランスをとることで健全と正常を維持する、宇宙の法則通りに、とてつもなく非道な旗頭にされた事の制裁を、宇宙と母校の神様から受けたことを意味し、その意味が分かっているので、彼を、その、杉浦にがんじがらめにされたしがらみから解放して上げる事が出来なかったことが、悔やまれてなりません。

 

 上述の思い出後、私と彼が続いていれば、酒もたばこもせず、総菜を買って食べる事はほとんどなく、添加物の入ったものは、極力口にせず、食べるものは自分で作るような生活をしている私は、絶対に彼をヘビースモーカーにすることはなく、杉浦のように、彼を自分の権力欲の為に利用することもなく、自然に結ばれた縁で、心穏やかで楽しい学生生活を送り、卒業後も、段中と翠中出身の学友を融合する素晴らしい集いの核となり、彼と一緒に年を取り、家庭内離婚もなく、彼は、楽しく、穏やかで、後ろめたさがなく、堂々とした幸せな人生で、もっとずっと長生きしていたと確信するので、この、余りにも早過ぎる彼の死が残念で堪らず、彼を、自分の権力欲の為に利用し、私を学園社会で抹殺し切るシカト旗頭にし、宇宙が意味をもって結んだ自然と縁を破壊し、宇宙の法則に反する、人でなしな事をさせて、寿命を縮め、犠牲にした杉浦への、心の底からの怒りを禁じ得ません。

 それと同時に、中学の時に、私を学級委員から引きずり降ろす為に利用され、学級委員に選ばれ続けた小谷君に取りつかされた、大阪からの転校生だった、大井さんも、森田前有朋会長も含め、大林を筆頭とする、二人の愛人達、弘子や鈴子と同様、自分では決して直接手を下さず、何らかの餌を与え、弱みに付け込み、脅し支配することで、陰で人を操り、手を汚す、直接の非道は、何らかの餌で釣られて弱みにつけ込まれて、言いなりになる人間にさせるやり方の、杉浦非道を非道でなく見せかける為の人垣にされ、利用されている杉浦側近の学友も、人を騙せても、宇宙と自分自身は絶対に騙せず、杉浦非道は、バランスをとることで健全を維持する宇宙の法則に反しているので、宇宙からは、杉浦に準ずる同罪とみなされ、杉浦非道をなかったことにさせられ、杉浦を守る人垣にされる為に利用されている、今杉浦と集っている者達は、これから、順次、次々に、宇宙からの制裁が下る可能性があり、立場が高く権力の及ぶ範囲が広い人ほど、杉浦に大きく利用されていることになりますから、杉浦の罠に嵌められて杉浦の思惑通りになる事は、何億何兆以上積んでも、お金では買えない、尊い価値を破壊する為に利用されていることになるので、バランスをとることで健全と正常を維持する宇宙の法則の仕組みが働き、杉浦が破壊した価値に加担したことに値する価値に見合う価値を強制はく奪することでバランスをとる制裁が下る可能性があるので、そのうちに、杉浦の非道を庇わされて人垣にされている関係者全員、中本と同じようなことになり、そして、誰もいなくなったということになりはしないかと、本気で心配しています。。

 

 集いの異常さで、中二からの杉浦非道が分り、平成26年5月の二木の集いを最後に、集いから引き、杉浦が、私を学園社会から抹殺し切り続ける為のありとあらゆることをし切り続けていたことを知り、毎日震えが止まらず、杉浦が中二から続けていることのきしょく悪さに吐き気が止まらず、何も手に付かず、ただ、杉浦が、集いから私を消す為に陰で糸を引いていた全ての出来事と、杉浦非道の事情説明を書くことだけが、その時の支えだった私は、3年余り、何かに取りつかれたように、事情説明を書くことを止められなかったのですが、出来上がった事情説明を、集いの皆に送り、杉浦の常任幹事解任を求めて、平成30年当時の同窓会長だった、森田有朋会長にも、当時の隠沢校長にもお渡ししていますので、私と中本との、学生時代、まるで、青春映画のワンシーンのように、中本が、私を自転車の後ろに乗せて、母校のあの楠の通学路を走り抜け、皆に振り返られ、以後噂になり続けていたという、手一つ握り合ってもない、時折り、思い出しては、ニッコリ笑い、浄化されたような清々しく爽やかな気持ちになっていた、清らかで聖なる、私の学生時代の思い出の相手、中本信雄君、彼と私の、体の関係一切なしの美しい純愛のことは、彼と親しい人、彼の関係者全てが知っていますので、彼が病に倒れても、余命宣告されても、葬式の時も、私が顔を出せば、どうなるか、母校同窓の彼の関係者は分かるので、私に知らせる訳がないことを私は分かっているので、それは、私の父が癌で余命宣告され、父に会った最後の時になりますが、平成6年の1月2日に、花嫁姿を見せてやれなかった父に、晴れ着姿を見せてやろうと、ホテルで、母に正月のおせち料理をおごり、その後、母と別れて、福山にいる父の見舞いに行こうとした時、母には何も言っていないのに、父の死が近いことと、その父に私が会いに行くことを察したのか、プラットホーム迄追いかけて来て、父の所に行くと言ってきかなかったのですが、病院で愛人と鉢合わせになって、余命宣告されている父の病気に障るといけないという気持ちが働いて、今から思えば、母には、本当に残酷な事をしたと思い、最後なんだから、父に逢わせてやればよかったと思いますが、その時は、私に付いて行くと言ってきかなかった母を断念させ、その時に、それなら、お父さんに伝えてくれと、母が私に託した言葉が、“もう、お父さんの事を怒っていないから、気にしなくてもいい”という言葉で、母は、父にその言葉を伝える為に、どうしても、私について、父の見舞いに行こうとしたのでしたが、愛人と鉢合わせになった時の事を考えると、何が起きるか分からない不安があり、どうしても、母を、命の期限が切られた、重い病気の父の所に連れていく事は出来ず、本当にひどい事をしたと思いますが、この言葉を父に伝えた時に、父は、本当に嬉しそうに、心からニッコリと笑いましたが、この時のことは、34 thメッセージで詳しくお伝えしていますが、その時の私の気持ちと、余命宣告された中本と私を逢わせることが出来ないと判断した中本の側近達の気持ちは同じで、葬式の時も、私が参列すれば、多くの同窓の者が私に気をとられ、葬儀の妨げになることも考えられるので、私を呼ぶことは出来ないという判断がされたのは当然だと思うので、私に、彼が余命宣告されたことを知らされなかったことも、彼の葬儀の連絡が貰えなかったことも、仕方なかったと思っており、これが、心ない他人の欲望の為に、宇宙が決めた自然の縁を破壊され、奪われるという事、母が、この世でたった一人愛した大切な父と、弘子の非道の欲望の為に引き裂かれ、父が余命宣告されても、付き添う事も見舞いに行くことも出来ず、葬儀にも参加出来なかったように、中本が、娘に私の名を付け、私が集いに現れる迄、45年以上も、私の噂をし続け、妻も私に似た人を選ぶほどの思いを持ち続けていたというのに、杉浦非道の為に、とうとう、彼の人生を終える迄、中本がそこ迄の思いを持つ私と、引き裂かれ切ったという事で、そういうところが、他人に行く筈の恵みを取る為に、宇宙が決めた自然の縁を無視して、他人の縁と恵みを奪う、この手法の非道のとてつもなく残忍で残酷で恐ろしいところです。

 

 杉浦非道がなければ、私がいじめ後遺症になる事はなく、私がいじめ後遺症になって、父からすれば、何を考えているか分からない、気味悪い人間になっていなければ、父の蒸発を誘発する事も、更に弟の不倫を誘発する事もなく、杉浦非道は、我が家の愛人問題の元凶で、学生時代のいじめで自殺させられた子供の家族が、以後、一族郎党、取り返しのつかない不幸に見舞われ続けるのと同じように、学生時代の杉浦非道は、我が家の不幸を誘発していますので、他人に行く筈の恵みを奪う為に、宇宙が決めた自然の縁を破壊し続けている杉浦と弘子と鈴子は、私が子供の頃から、私の、何億何兆以上積んでも買うことの出来ない素晴らしい価値を奪い続けているだけでなく、母や弟の本妻や弟や妹や二人の子供達から、何億何兆以上積んでも買えない甚大な価値を破壊し続けて奪い切り続けて、現状の欲望を満たし続けているという事になるのですが、杉浦の為に、あの、中本との青春の思い出直後から、お互いに心の芯から消えない相手なのに、引き裂かれ続けた、彼と私二人の、現世での永遠のお別れのけじめとして、彼の追悼記事を上げたい、そうしなければならないという思いに駆られ、上述の理由で、ブログにイヨマンテの夜を張り付けることが出来ない限り、ブログ記事を上げないことに決めていましたが、急遽、こうして、私の思い出の相手の彼、中本信雄君の追悼記事を上げさせて戴きました。

 

 私は、昭和41年「1966年」卒業の、皆実17期で、この17期が、平成23年「2013年」の、定期総会の当番期という事で、その前年の平成 22年に、その手伝い募集の召集令状と言ってもいいはがきが届き、そのはがきが届いた頃は、それ迄、私一人での母の介護で、経済的にも肉体的にも、とてつもなく大変で、私一人での母の介護のことについては、60 thメッセージで詳しくお伝えしていますが、入院していた病院から、退院を迫られ、母を受け入れてくれる施設を探し回って東奔西走していた、丁度その時に、以前デイサービスに通っていた介護施設から、特養「特別養護老人ホーム」の空きが出来たとの連絡があり、そこに入所が決まり、それでも、そこに母が慣れる迄、しばらくつきっ切りにならなければならず、それでも、やっと母がそこに慣れて落ち着き、これから少し、母から手が離れ、仕事に専念も出来、それ迄よりは、自由な時間が出来るので、これからは、自分のことも考えなければいけないと、ホっと、一息ついた時で、何故か、このはがきを手にした時、腹の底からの、どうしてもこの募集に応じなければならないという強い思いが、とてつもなく強い力で突き上げるように沸き上がり、母の介護も、一息つき、これから自分の老後のこととか、自分の人生をどう折り合いをつけるかなど、考えなければいけないと思っていましたが、その前に、この当番期の召集令状に応じて、学生時代の思い出の相手の中本君もいる筈の集いに入り、学友と共に当番期のミッションを果たしながら過ごそう、そうすれば、あの思い出後、それ切りになった中本君のことも分かり、何故、学生時代、私が学友とうまく関われなかったのかの、本当の原因も分かるかも知れないと言う気持ちもあり、今迄は、弟や妹の世話をし、婚約者の為に使う時間もあり、婚約者と別れたら、仕事でお客様の御相談に真剣に打ち込みながらの、母の介護と、息つく間もなく、自分の人生のことも、自分の楽しみのことも、考えることもないまま、走り続けていたので、欲も得もない青春時代の息吹きを感じながら、少しだけ自分の為の時間を自分に与える、自分へのお疲れさんごほうびをし、このことを人生最後の素敵な思い出にして、それが終って、これからのことを考えようと、則、応じる返信のはがきを投函しました。

 その時には、まさか、この集いに入ることで、私がいじめ後遺症にされていたことに気付き、その原因も分かり、いじめ後遺症から抜ける事が出来、これから私の本当の人生が始まる、一番大切なことを与えられることになるとは、分かる筈もなく、このことが、第二のシークェンスのスイッチオンだった訳で、上述の、思い出の彼とそれ切りになりたくないと思う気持ちで参考書を貸してくれるといった言葉が、第二のシークェンスのスイッチオンする為の、第一のシークェンスのスイッチオンのボタンでしたが、この召集令状に応じたことが、以来、ここ迄導く為の、誰も止められない、シークェンスのスイッチを入れたことになるなど、誰が想像出来るでしょう?

 

 人生最後の思い出にと入った集いが、私の本当の人生の始まりになりました。+

 

 平成23年の当番期の手伝いで、私が、約 45年以上ぶりに集いに入った時には、中本は、次期有朋会会長と目され、誰も、彼が次期有朋会長になることを疑っていませんでした。

 

 

 杉浦に引き裂かれた私と中本ですが、私が集いに入った平成22年から、私が集いから引く平成26年迄の、約4年間、中本のへ私の気持も分かり、私も、学生時代から、胸に響いた、たった一人の男性であり、彼のことを、汚れなき神聖な思い出として、忘れたことはなかった事を彼に打ち明け、男女の関係にはなれないけれど、皆と楽しく集えるよう、素敵な二人になろうといったような手紙を送って、彼も、私が、彼の事を、欲も得もなく利用するでもなく、本当に彼の事を心から好きだと思っているという事を信じ、皆と一緒にいる中で、集いを楽しみましょうという事での気持ちが一致しており、心だけは、お互いに結ばれている感じがずっとあり、カラオケ同好会を作ろうと言う私の申し出に応じて、彼が声かけをしてくれて、第3木曜日は歌の会という事で、必ず、彼も参加してくれ、それ迄あまり集いに参加しなかった、第二木曜日に集う、二木の集いにも、私が集いに来ると分かって、必ず、来るようになり、男女の関係抜きの、大人の素敵で楽しい時間を一杯過ごし、彼との楽しい思い出が一杯あり、中本が、杉浦や大林の権力欲の為に利用されて、苦しみながら、人でなしな事をさせられただけではなく、彼は、本当は、それほど権力に執着はなく、繊細で、心優しく、私が彼に出した手紙を、長文にもかかわらず、全部、最後迄キチンと読んでくれて、完ぺきに、その内容を把握し、私の気持ちにこたえてくれ、人間的で、本当は心優しく、穏やかな人で、そして声がよく、音感とリズム感がドンピシャで、体の関係こそなかったけれど、私と、欲も得も利用もない、本当に心の通った、恋心を伴った男女として、素敵な時間を持ち合ったこと、彼が、ただ、杉浦と大林の権力欲の為に利用されただけの人生ではなかったという証しを永遠に残す為に、もう少し、彼のことを書かせて戴きたいのですが、文字数の関係もありますので、次回もう一度、中本信雄の追悼記事PartⅡとして、上げさせて戴きます。

 

長文にもかかわらず、最後迄読んで戴いてありがとうございます。