『武士の衣服から歴史を読む 古代・中世の武家服制』佐多芳彦著(吉川弘文館 2023年)
平安末期の武士の衣服「袖細」は「直垂」へと進化する。武士たちは服装の制度をどう定めたのか。有識故実と絵画史料から実態に迫る。
用語解説垂領(すいりょう/たりくび):Vネック。盤領(ばんりょう/あげくび):丸首。頸上(くびかみ):盤領の首まわりの小襟。菊綴(きくとじ):縫い目の補強に生糸の束や紐を縫いつけたもの。布:植物性繊維の織物。織物:とくに説明がない場合は絹織物。
貴人の運動着である狩衣をさらに動きやすく改良したのが水干です。基本的に布製で、頸上を紐で結びとめ、裾を袴に着込めます。貴族に仕える人たちにとっては「偉い人に会うからジャケットくらい着なくちゃ」って感じの服。武官にとっては動きやすい仕事着です。警察官や自衛官の制服と考えるとわかりやすいかな。
自衛隊の上の方には〈背広組〉と呼ばれる人たちがいますよね。警察の上層部には警察官僚、いわゆるキャリア組がいる。彼らは霞が関などで働き、現場には出ないので、あまり制服を着ないものです。
『武士の衣服から歴史を読む 古代・中世の武家服制』によると、源頼朝は正二位・右近衛大将という高位に昇ってからも、現場組の制服である水干を公式の場で着つづけたそうです。
頼朝は律令制下では〈背広組〉であり、律令制から独立した坂東の王者でもあったのだから、より格の高い狩衣を着るべきだし、まったく別の服制を創出してもいい。なのに、院政期に出来上がった〈武官=水干〉という常識に従いつづける。
前掲書では「頼朝の心理は謎」とされています。現場組からの叩き上げであることを誇るための服装でしょうか。ぼくは存外「尊敬する父・源義朝が着ていたから」というあたりじゃないかなと思います。頼朝が鎌倉幕府を建てることになった原動力は、父・義朝のための復讐だったわけだし。
『鎌倉殿の13人』では、源頼朝が以仁王の令旨を受けるときなどに水干を盤領に着ていました。じつは北条義時も公用で将軍に会う時は水干を着ていたという『吾妻鏡』の記述があるのですが、ドラマではそこまで再現されていません。
〈武士=直垂〉という視聴者側のイメージのせいでしょうし、予算不足のあらわれでもあるのでしょう。そもそも脚本家の三谷幸喜は飛鳥時代で大河をやりたかったのに、NHK側から「セットと衣装にカネがかかるからやめてくれ」と言われて鎌倉時代にしたそうですし。