阿波の孤島へ送られるはずだった一橋治済は、思わぬ死に方をしました。護送の徳島藩士の隙を突いて逃げ出したものの、雷の一撃を脳天に受けて死亡。天は天の名を騙るおごりを赦さない。高く掲げていた脇差ではなく頭に雷が落ちたのは、天罰だったからでしょう。
『鎌倉殿の13人』の源仲章役に続いて地に倒れ伏した生田斗真の傍らに立つのは、蜘蛛の巣模様の小袖を着た、変わった髷の男。あの雷撃は、天に昇って雷獣となった平賀源内のエレキテルアタックでした。エレキテルはインチキじゃないんですよ!
一橋治済が死んだ以上、斎藤十郎兵衛が替え玉を続ける必要もないのですが、徳島藩ではすでに十郎兵衛の存在をなかったことにしていました。
「いまさら帰るところもないし、最初からいてもいなくても同じ存在だった」
寂しげな十郎兵衛のために、蔦重は一計を案じました。写楽プロジェクトのメンバーに頼んで、斎藤十郎兵衛が写楽の正体であると広めさせたのです。定信くんの雑な計画のために今までの人生を失った十郎兵衛に、せめて唯一無二の個性を持った絵師としての名声を。現代のぼくらも蔦重の仕掛けに騙されたんだね。
十郎兵衛=写楽化計画のために集まっていたメンバーの誰かが、和学者 本居宣長著『玉くしげ』を忘れていきました。「もののあはれ」についての本です。簡単に言うと、「考えるな、感じろ!」ってこと。儒学や仏教は外国から入ってきたもので、日本人にとっては頭で考えて覚えたことでしかない。日の本の風土が育んだ大和意(やまとごころ)で感じたことこそが真実である。この考え方が幕末にこじれて尊王攘夷運動になっちゃうんだけど、詳しくは2027年『逆賊の幕臣』で。
幕府が官学として掲げる儒学を真っ向から拒否する内容だからこそ、江戸にはまだ広まっていない。そこに商機を見出した蔦重は、伊勢 松坂に本居宣長を訪ねて著書を売り広める約束を取り付けようとしましたが、宣長先生は渋い顔です。蔦重プロデュースの写楽が西洋画法を取り入れてるのが気に食わないし、幕府に目をつけられても困るし。
そこで蔦重が取り出したのが松平定信の書状でした。定信の実父 田安宗武に仕えて和学を研究していたのが賀茂真淵(かもの まぶち)で、その研究を受け継いだのが本居宣長です。儒学・仏教と相容れないとはいえ、日本古来の書物を研究する和学は悪いものではない。定信くんからのお墨付きをもらって、宣長先生も嬉しそうでした。『源氏物語』マニアの定信くんのために、『源氏物語 玉の小櫛』にでもサインを入れて贈ってあげてね。
そして、もうひとつの旅へ。長谷川平蔵は体調不良を押して蔦重をとある宿場町へ連れ出しました。手下の磯八と仙太が見つけてくれたという駕籠屋の女将は大変な本好きだとかで、客待ちをしている駕籠舁きたちは皆黄表紙を読んでいました。
若いころから自慢気に垂らしていたシケも白髪まじりになった長谷川平蔵は、ちかぢか大規模な警動(違法売春の一斉取り締まり)が行われ、捕らえられた女郎たちが吉原に押し付けられるだろうと告げました。ただでさえ不景気な吉原の環境がさらに悪化する。泥沼ではあっても、まれには美しい蓮の花を咲かせる泥沼であってほしいのに。
それはかつて蔦重が瀬川と語り合った夢でした。女郎たちがいい思い出をたくさん抱えて、吉原大門を出て行けるといい。従業員に白米の握り飯を腹いっぱい食わせ、黄表紙で心を満たしてやれる女将さんになれる女郎たちばかりだといい。
子に恵まれて幸せに暮らしているらしい女将には声をかけずに江戸へ戻った蔦重は、吉原で新たな掟を定め、奉行所の公認を得ることを提案しました。もうお座敷遊びに何百両も費やしてくれるお大尽は来ない。吉原の流儀を捨てざるを得なくなっても、女郎と芸者の待遇は守らなくては。日本橋で稼いだカネを吉原で使い果たす商人は数あれど、吉原から日本橋に出て店を大きくしたのは蔦重ひとり。蔦重は原点である吉原を支えることを忘れていない。
蔦重は脚気に倒れました。ビタミンB1不足で手足にしびれを生じ、やがて心不全で死に至る病です。江戸で多く、地方に行くと治ることから江戸患いと呼ばれました。ビタミンB1は米ぬかや胚芽に多く含まれるので、真っ白に精米した米を好む江戸で患者数が多くなるのです。
『べらぼう』の作中でも副菜はわずかで、白米だけはおかわり自由という食事でした。そりゃあビタミン不足にもなる。蔦重は接待で酒をよく飲んだでしょうから、そのぶんビタミンB1を浪費したはずです。南方仁先生がタイムスリップしてくれていれば、ゴマ入り餡ドーナツで救ってくれたろうけど。
地方で養生しろという ていちゃんの意見も聞かず、死の間際まで書をもって世を耕したと言われたいと、蔦重は江戸での仕事を選びました。本居宣長に会った帰り道、東海道 宮宿で黄表紙の読者から聞いた感想を参考にして、短いと話がとっ散らかる曲亭馬琴にはもっと長い話を、駿河から上方、江戸と移ってきた十返舎一九には江戸以外でも老若男女に笑ってもらえる話を書くように勧めます。ああ、20年以上も続く大長編『南総里見八犬伝』と『東海道中膝栗毛』だ。
山東京伝には心の機微を繊細に写しとれるという美質を再確認させ、勝川春朗(葛飾北斎)には音が聞こえるような絵を描けと、のちの 'The Great Wave' こと「神奈川沖浪裏」につながる仕事を与えます。北尾重政先生には黄表紙の絵付けを全部やってもらいましょう。弟子の北尾政美が鍬形蕙斎と名を変えて津山藩の御用絵師になっちゃったんで、人手が足りないんです。重政先生がいつでも無茶を聞いてくれる人なのは知ってるよ。
大田南畝は学問吟味で取り立てられて表立った活動はできなくなりましたが、狂歌界の重鎮として江戸の外からも歌を集めた狂歌集づくりを裏から支えてくれました。それから、鵬誠堂喜三二に指導を受けて蔦重みずからビジネスの教訓をまとめた黄表紙『身体開帳略縁起』を書いてみたけど、『伊達模様見立蓬莱』の時のようにはうまくいきませんでした。ビジネスでなかなか大きい失敗をした蔦重がビジネス書を書いても説得力がないしな。
蔦重は「冥途に急用ができた」と死を予告する張り紙を店先に掲げて客を呼びこみ、越せないと言われていた年を越し、明けて寛政9年(1797年)5月のある夜。チョンチョーンと拍子木が鳴り、巫女姿の九郎助稲荷が現れました。明和9年(1772年)の迷惑火事で九郎助稲荷の狐像をドブに放りこんで助けてくれた礼を言い、明日の午の刻、拍子木の音を合図に迎えに来ると告げました。
狐のお告げを本気で信じたわけでもないのでしょうが、宿屋飯盛が書くことになる蔦重の墓碑銘通りに蔦重とていちゃんは身辺整理をしました。店を継いでくれる みの吉のために、ていちゃんは作家の扱いの注意点を列挙したマニュアルを作ってありました。
「万が一に備えて作ったものの、こんなものは屑屋に出せるようになるのが一番なのですが」
ていちゃんの言葉に、蔦重は恋に落ちた日を思い出しました。
「屑屋に出せば本もただの屑ですが、読む人がいれば本。本も本望、本屋も本懐」
ていちゃんが父から継いだ丸屋を畳むことになり、売れ残りの本を寺に寄贈したときのこと。吉原を嫌うていちゃんから丸屋を買い取るための手がかりを求めて、ていちゃんの様子を探りに行った蔦重が、寺の庭からひそかに聞いていたのがこの言葉でした。
本を愛する同志としての、人生を共にする夫婦としての時が終わる瞬間が近づきます。ゆかりの人びとが駆けつけ、蔦重は「ありがた山の寒ガ……」と囁いて目を瞑りました。親である駿河屋夫妻が別れも言えないまま子が死んではならない。大田南畝は蔦重を呼び戻そうと屁踊りを始めました。天の岩戸に籠るアマテラスを呼び戻そうとアメノウズメが舞ったように。
「糞なら畑の肥やしになるが、屁はなんの役にも立たない」
平賀源内は第1回でそう言いました。でも、なんの役にも立たないからと言って、まったく必要ないのだろうか。追放刑が解けておらず、江戸から離れたところで蔦重の墓碑銘を書く宿屋飯盛も踊りました。俺たちは屁だ! 人の心を笑いで満たすことのできる屁だ!
屁踊りの輪に加わった ていちゃんから蔦重を預けられた次郎兵衛義兄さんが、蔦重の髷をやさしく撫でつけました。物語の序盤、まだ蔦重が次郎兵衛義兄さんの茶屋に間借りしていたころ、
「本屋としての欲が出てきたね」
と笑って、次郎兵衛義兄さんが蔦重の髷を撫でたことがありました。あれから20年、誰も見たことのないものを世に送り出したいという本屋の業を抱えて、蔦重は走り抜けました。
「屁! 屁! 屁! 屁!」
あまたの戯作者、絵師、狂歌師、耕書堂の従業員、書肆の主、吉原の忘八たちの屁踊りの渦の中で、蔦重は目を開けました。
「拍子木、聞こえねぇんだけど」
「へっ!?」
周りでこんなに騒がれていては、お狐さまの合図も何もないね……と思ったところで、幕切れの拍子木がチョンチョーン! 最後のオープニングが始まりました。
作曲家のジョン・グラム氏は、主題曲「Glorious Edo」を静かに終わらせる構想だったそうです。しかし、制作側から「もっと元気よく」と注文を受けて今の形になったのだとか。
タイトルバックは渦をテーマにしたものです。黄表紙と浮世絵が逆巻く波と炎に巻きあげられ、その奥に現れるのは大判の白紙を手にした蔦重。そこから北斎の「凱風快晴」の赤富士を見上げる蔦重の後ろ姿に切り替わり、音の渦がパチンとはじけてエンディングを迎えます。
一代で出版界の大立者に成り上がった蔦重は歩みを止め、その背を追ってきた者たちが追い越して、文化・文政年間(1804~1830年)の化政文化を花開かせるのです。田沼時代の自由な空気がなければ耕書堂の興隆はなく、耕書堂があったからこそ、田沼時代よりいっそう享楽的な化政文化が生まれることになります。四隻の蒸気船が泰平の眠りを覚まさせるまでの一炊の夢に過ぎなかったにしても。文政10年生まれの小栗上野介忠順、がんばれよ!