星野洋品店(仮名)

星野洋品店(仮名)

とある洋品店(廃業済み)を継がなかった三代目のドラマ感想ブログ

『浮浪雲(はぐれぐも)』
ジョージ秋山の名作『浮浪雲』が佐々木蔵之介主演で令和に参上!

NHK BS  2026年1月4日(日)スタート 毎週日曜 午後6時45分から 初回のみ夜7時から

 

 

『べらぼう』最終回で、蔦重が九郎助稲荷に「100年後の髷はどうなってますか?」と尋ねるシーンがありました。答えてもらえませんでしたがね。「ひとつだけ質問に答えます」と九郎助稲荷に言われて、思わず「本当に?」と聞き返してしまい、そこでたったひとつの質問権を消費してしまったので。ガッデム。

 

100年後の髷というのは、恋川春町の黄表紙『無益委記/無題記(むだいき)』のネタでした。春町の絵では、髷が後方に高々と突き出していましたが。 安永9年(1780年)の刊行なので、100年後はすでに明治13年。朝ドラ『ばけばけ』の勘右衛門じじ様以外はほぼほぼ断髪しています。

 

 

さて、2026年1月4日(日)スタートのBS時代劇『浮浪雲』では、主人公の雲がおでこで髪を結っています。まだ幕末なのに斬新な髪形です。そういえば、ぼくが小さいころ、こんな風に髪を結ばれてたわ。髪が異様に硬くて、結ばないとハリネズミみたいになっていたらしくて。

 

原作はジョージ秋山氏の同名漫画。名前だけは知っていたけど読んだことはありませんでした。だって、連載44年の漫画を途中から読むのってキツいし。そういうわけで今回のドラマ化はたいへん楽しみです。

「歌麿は男女の風俗を描いて一流。義理に厚いがそれに乗じて甘えてはならない。歌麿は蔦屋重三郎一世一代の作であるから」

ていちゃんが後継者のみの吉に与えたマニュアルの一節です。ちなみに、曲亭馬琴のことは、

「頑固で滑稽味がないが、教養は高い。砂糖を食べることが無上の喜び」と書いていました。

 

 

 

『べらぼう』最終回の歌麿はいい顔をしていました。絵を描くということは、己の内面と向きあう孤独な作業です。しかし、写楽プロジェクトの共同作業を通じて、蔦重以外の人たちからも頼りにされる喜びを知りました。

 

浮世絵界の重鎮である北尾重政から、

「一番貢献したのは歌麿だから、写楽は歌麿作だと明かすべきだ」

と言われた歌麿は、

「自分の絵という気がしないし、みんなが写楽ってことでいい」

と笑いました。

 

蔦重を「義兄さん」、ていちゃんを「義姉さん」と呼ぶ歌麿の顔は、かつてないほど晴れやかでした。生まれてこないほうがよかった子だと母から言われて育った歌麿が、ようやく生まれてきてよかったのだと納得できたのです。

 

自信をつけて、ほかから声をかかるのを待つのではなく、主体的に行動できるようにもなれました。蔦重が当時は不治の病とされた脚気に罹ったと知って心許なげな ていちゃんを置き去りにしてサッサと帰宅。蔦重の身のまわりの世話は、妻のていちゃんがやればいい。歌麿にできること、歌麿にしかできないことは、刺激的な企画案で蔦重の心を前向きにすること。

 

歌麿は母を恋う気持ちと向きあいました。蔦重のために考えた新しい女絵は、金太郎を育てた山姥(やまんば)の絵。蔦重の死後に二代目 蔦屋重三郎が出版しています。

 

山姥と金太郎 盃

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

 

史実の話をするなら、美人画に対する規制逃れとして立てられた企画ではあります。妖怪は法的に人じゃないので美人画として扱われないらしく、金太郎と山姥のシリーズは長く続きます。脚本家の森下佳子さんはこのシリーズをもとに歌麿と母との関係性を発想したそうです。金太郎を行水させてやる山姥、山姥の髪を梳いてやる金太郎。そこにはエロ絵の口実以上の、あたたかな情愛が確かにある。

 

 

 

規制逃れと言えば、『べらぼう』最終回の紀行コーナーで紹介された「太閤五妻洛東遊観之図」も規制を逃れられるはずだったんですがねぇ。じつは享保7年(1722年)に幕府から出版業界に対してお触れが出され、
「他人の家系・先祖のことなどを新版にすることは禁止。子孫から訴えがあったら厳重に調査する。 徳川家のことを版行することは禁止。どうしても必要な時は奉行所の許可を受けるべし」

ということになっていたのですが、武者絵に関しては実名でもなんとなくセーフになっていたんですね。歴史を学ぶのは大切なことだし。

 

太閤五妻洛東遊観之図

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

 

蔦重が亡くなった寛政9年(1797年)のこと。大坂で豊臣秀吉の生涯を描いた読本『絵本太閤記』が出版され、江戸にも人気ぶりが伝わりました。そこでこれを基にした武者絵、というか美人画の「太閤五妻洛東遊観之図」を実名入りで描いたのですが、文化元年(1804年)、歌麿は手鎖50日の刑、元ネタの『絵本太閤記』も絶版処分を受けました。醍醐の花見に興じる秀吉と妻妾を描いているので、将軍 家斉の大奥を茶化したと思われてしまったようです。衝撃が大きかったのか、歌麿は2年後に亡くなりました。ちなみに『絵本太閤記』のパロディ版を書いた十返舎一九も手鎖50日を食らっています。

 

この摘発以降、享保年間のお触れが再確認され、「一枚絵や版本では、天正年間(1573~93年)以降の武将の名前や紋所などを記してはならない」 という規則が明文化されました。影響は現在まで及び、歌舞伎でも真柴久吉(はしば ひでよし)・武智光秀(あけち みつひで)という感じで名を変えたまま上演されています。

 

いまさら実名に戻されても違和感があるんだけどね。歌舞伎の真柴久吉は恰幅のいい役者がカッコよく演じることが多くて、あんまり猿って感じがしないから。2016年1月4日スタートの『豊臣兄弟!』第1回のサブタイトルは「二匹の猿」だそうですが。やっぱり猿なのか~。

阿波の孤島へ送られるはずだった一橋治済は、思わぬ死に方をしました。護送の徳島藩士の隙を突いて逃げ出したものの、雷の一撃を脳天に受けて死亡。天は天の名を騙るおごりを赦さない。高く掲げていた脇差ではなく頭に雷が落ちたのは、天罰だったからでしょう。

 

『鎌倉殿の13人』の源仲章役に続いて地に倒れ伏した生田斗真の傍らに立つのは、蜘蛛の巣模様の小袖を着た、変わった髷の男。あの雷撃は、天に昇って雷獣となった平賀源内のエレキテルアタックでした。エレキテルはインチキじゃないんですよ!

 

 

一橋治済が死んだ以上、斎藤十郎兵衛が替え玉を続ける必要もないのですが、徳島藩ではすでに十郎兵衛の存在をなかったことにしていました。

「いまさら帰るところもないし、最初からいてもいなくても同じ存在だった」

寂しげな十郎兵衛のために、蔦重は一計を案じました。写楽プロジェクトのメンバーに頼んで、斎藤十郎兵衛が写楽の正体であると広めさせたのです。定信くんの雑な計画のために今までの人生を失った十郎兵衛に、せめて唯一無二の個性を持った絵師としての名声を。現代のぼくらも蔦重の仕掛けに騙されたんだね。

 

 

十郎兵衛=写楽化計画のために集まっていたメンバーの誰かが、和学者 本居宣長著『玉くしげ』を忘れていきました。「もののあはれ」についての本です。簡単に言うと、「考えるな、感じろ!」ってこと。儒学や仏教は外国から入ってきたもので、日本人にとっては頭で考えて覚えたことでしかない。日の本の風土が育んだ大和意(やまとごころ)で感じたことこそが真実である。この考え方が幕末にこじれて尊王攘夷運動になっちゃうんだけど、詳しくは2027年『逆賊の幕臣』で。
 

幕府が官学として掲げる儒学を真っ向から拒否する内容だからこそ、江戸にはまだ広まっていない。そこに商機を見出した蔦重は、伊勢 松坂に本居宣長を訪ねて著書を売り広める約束を取り付けようとしましたが、宣長先生は渋い顔です。蔦重プロデュースの写楽が西洋画法を取り入れてるのが気に食わないし、幕府に目をつけられても困るし。

 

そこで蔦重が取り出したのが松平定信の書状でした。定信の実父 田安宗武に仕えて和学を研究していたのが賀茂真淵(かもの まぶち)で、その研究を受け継いだのが本居宣長です。儒学・仏教と相容れないとはいえ、日本古来の書物を研究する和学は悪いものではない。定信くんからのお墨付きをもらって、宣長先生も嬉しそうでした。『源氏物語』マニアの定信くんのために、『源氏物語 玉の小櫛』にでもサインを入れて贈ってあげてね。

 

 

 

そして、もうひとつの旅へ。長谷川平蔵は体調不良を押して蔦重をとある宿場町へ連れ出しました。手下の磯八と仙太が見つけてくれたという駕籠屋の女将は大変な本好きだとかで、客待ちをしている駕籠舁きたちは皆黄表紙を読んでいました。

 

若いころから自慢気に垂らしていたシケも白髪まじりになった長谷川平蔵は、ちかぢか大規模な警動(違法売春の一斉取り締まり)が行われ、捕らえられた女郎たちが吉原に押し付けられるだろうと告げました。ただでさえ不景気な吉原の環境がさらに悪化する。泥沼ではあっても、まれには美しい蓮の花を咲かせる泥沼であってほしいのに。

 

それはかつて蔦重が瀬川と語り合った夢でした。女郎たちがいい思い出をたくさん抱えて、吉原大門を出て行けるといい。従業員に白米の握り飯を腹いっぱい食わせ、黄表紙で心を満たしてやれる女将さんになれる女郎たちばかりだといい。

 

子に恵まれて幸せに暮らしているらしい女将には声をかけずに江戸へ戻った蔦重は、吉原で新たな掟を定め、奉行所の公認を得ることを提案しました。もうお座敷遊びに何百両も費やしてくれるお大尽は来ない。吉原の流儀を捨てざるを得なくなっても、女郎と芸者の待遇は守らなくては。日本橋で稼いだカネを吉原で使い果たす商人は数あれど、吉原から日本橋に出て店を大きくしたのは蔦重ひとり。蔦重は原点である吉原を支えることを忘れていない。

 

 

 

蔦重は脚気に倒れました。ビタミンB1不足で手足にしびれを生じ、やがて心不全で死に至る病です。江戸で多く、地方に行くと治ることから江戸患いと呼ばれました。ビタミンB1は米ぬかや胚芽に多く含まれるので、真っ白に精米した米を好む江戸で患者数が多くなるのです。

 

『べらぼう』の作中でも副菜はわずかで、白米だけはおかわり自由という食事でした。そりゃあビタミン不足にもなる。蔦重は接待で酒をよく飲んだでしょうから、そのぶんビタミンB1を浪費したはずです。南方仁先生がタイムスリップしてくれていれば、ゴマ入り餡ドーナツで救ってくれたろうけど。

 

 

地方で養生しろという ていちゃんの意見も聞かず、死の間際まで書をもって世を耕したと言われたいと、蔦重は江戸での仕事を選びました。本居宣長に会った帰り道、東海道 宮宿で黄表紙の読者から聞いた感想を参考にして、短いと話がとっ散らかる曲亭馬琴にはもっと長い話を、駿河から上方、江戸と移ってきた十返舎一九には江戸以外でも老若男女に笑ってもらえる話を書くように勧めます。ああ、20年以上も続く大長編『南総里見八犬伝』と『東海道中膝栗毛』だ。

 

山東京伝には心の機微を繊細に写しとれるという美質を再確認させ、勝川春朗(葛飾北斎)には音が聞こえるような絵を描けと、のちの 'The Great Wave' こと「神奈川沖浪裏」につながる仕事を与えます。北尾重政先生には黄表紙の絵付けを全部やってもらいましょう。弟子の北尾政美が鍬形蕙斎と名を変えて津山藩の御用絵師になっちゃったんで、人手が足りないんです。重政先生がいつでも無茶を聞いてくれる人なのは知ってるよ。

 

大田南畝は学問吟味で取り立てられて表立った活動はできなくなりましたが、狂歌界の重鎮として江戸の外からも歌を集めた狂歌集づくりを裏から支えてくれました。それから、鵬誠堂喜三二に指導を受けて蔦重みずからビジネスの教訓をまとめた黄表紙『身体開帳略縁起』を書いてみたけど、『伊達模様見立蓬莱』の時のようにはうまくいきませんでした。ビジネスでなかなか大きい失敗をした蔦重がビジネス書を書いても説得力がないしな。

 

 

 

蔦重は「冥途に急用ができた」と死を予告する張り紙を店先に掲げて客を呼びこみ、越せないと言われていた年を越し、明けて寛政9年(1797年)5月のある夜。チョンチョーンと拍子木が鳴り、巫女姿の九郎助稲荷が現れました。明和9年(1772年)の迷惑火事で九郎助稲荷の狐像をドブに放りこんで助けてくれた礼を言い、明日の午の刻、拍子木の音を合図に迎えに来ると告げました。

 

狐のお告げを本気で信じたわけでもないのでしょうが、宿屋飯盛が書くことになる蔦重の墓碑銘通りに蔦重とていちゃんは身辺整理をしました。店を継いでくれる みの吉のために、ていちゃんは作家の扱いの注意点を列挙したマニュアルを作ってありました。

 

「万が一に備えて作ったものの、こんなものは屑屋に出せるようになるのが一番なのですが」

ていちゃんの言葉に、蔦重は恋に落ちた日を思い出しました。

「屑屋に出せば本もただの屑ですが、読む人がいれば本。本も本望、本屋も本懐」

ていちゃんが父から継いだ丸屋を畳むことになり、売れ残りの本を寺に寄贈したときのこと。吉原を嫌うていちゃんから丸屋を買い取るための手がかりを求めて、ていちゃんの様子を探りに行った蔦重が、寺の庭からひそかに聞いていたのがこの言葉でした。

 

本を愛する同志としての、人生を共にする夫婦としての時が終わる瞬間が近づきます。ゆかりの人びとが駆けつけ、蔦重は「ありがた山の寒ガ……」と囁いて目を瞑りました。親である駿河屋夫妻が別れも言えないまま子が死んではならない。大田南畝は蔦重を呼び戻そうと屁踊りを始めました。天の岩戸に籠るアマテラスを呼び戻そうとアメノウズメが舞ったように。

 

「糞なら畑の肥やしになるが、屁はなんの役にも立たない」

平賀源内は第1回でそう言いました。でも、なんの役にも立たないからと言って、まったく必要ないのだろうか。追放刑が解けておらず、江戸から離れたところで蔦重の墓碑銘を書く宿屋飯盛も踊りました。俺たちは屁だ! 人の心を笑いで満たすことのできる屁だ!

 

屁踊りの輪に加わった ていちゃんから蔦重を預けられた次郎兵衛義兄さんが、蔦重の髷をやさしく撫でつけました。物語の序盤、まだ蔦重が次郎兵衛義兄さんの茶屋に間借りしていたころ、

「本屋としての欲が出てきたね」

と笑って、次郎兵衛義兄さんが蔦重の髷を撫でたことがありました。あれから20年、誰も見たことのないものを世に送り出したいという本屋の業を抱えて、蔦重は走り抜けました。


「屁! 屁! 屁! 屁!」

あまたの戯作者、絵師、狂歌師、耕書堂の従業員、書肆の主、吉原の忘八たちの屁踊りの渦の中で、蔦重は目を開けました。

「拍子木、聞こえねぇんだけど」

「へっ!?」

周りでこんなに騒がれていては、お狐さまの合図も何もないね……と思ったところで、幕切れの拍子木がチョンチョーン! 最後のオープニングが始まりました。

 

 

 

作曲家のジョン・グラム氏は、主題曲「Glorious Edo」を静かに終わらせる構想だったそうです。しかし、制作側から「もっと元気よく」と注文を受けて今の形になったのだとか。

 

タイトルバックは渦をテーマにしたものです。黄表紙と浮世絵が逆巻く波と炎に巻きあげられ、その奥に現れるのは大判の白紙を手にした蔦重。そこから北斎の「凱風快晴」の赤富士を見上げる蔦重の後ろ姿に切り替わり、音の渦がパチンとはじけてエンディングを迎えます。

 

一代で出版界の大立者に成り上がった蔦重は歩みを止め、その背を追ってきた者たちが追い越して、文化・文政年間(1804~1830年)の化政文化を花開かせるのです。田沼時代の自由な空気がなければ耕書堂の興隆はなく、耕書堂があったからこそ、田沼時代よりいっそう享楽的な化政文化が生まれることになります。四隻の蒸気船が泰平の眠りを覚まさせるまでの一炊の夢に過ぎなかったにしても。文政10年生まれの小栗上野介忠順、がんばれよ!

懐かしの痛快娯楽時代劇って感じでした。自称 歴史評論家とやらが「史実と違う!」と顔を真っ赤にしそうですねぇ。ふふふ。まあ、平賀源内が気球に乗ってフランス革命に参加するよりは、ずいぶん現実的です。

 

 

一橋治済のそっくりさんは、阿波 蜂須賀藩のお抱え能楽師 斎藤十郎兵衛でした。そうきたか。東洲斎写楽の正体であることがほぼ定説になっている人です。絵を描いた写楽ではないけど、「写楽で一橋治済をハメよう計画」の一員ではあったんですね。

 

となると、いままで街ブラをしていた「一橋治済」は、一橋治済なのか斎藤十郎兵衛なのか。耕書堂で写楽の絵を買ったときは本物。大名クラスの武家は銭を卑しいものと考えて手を触れることすら嫌がるので、お供の大崎に代金を支払わせていました。煎餅屋や人相見の行列に並んでいた時はお供がいなかったので、斎藤十郎兵衛でしょう。

 

将軍の父君が死んでしまっては大騒ぎになるので、そっくりさんの斎藤十郎兵衛と入れ替えようとしたものの、粗雑な計画を気合で何とかしようとして失敗しました。そういうところですよ、武家の悪いところって! しかもプランBを用意してないし!

 

「いつ何をされるかわからない」と耕書堂の従業員たちが怯え、ていちゃんは写楽計画に賛成したことを悔やみましたが、毒饅頭にあたって寝こんだ みの吉は「毒饅頭を仕込んだ奴が、うっかり毒饅頭を食ってしまえばいいのに」と言い出しました。耕書堂のために黄表紙の案思をあれこれ考えていたからこその黄表紙めいた発想です。

 

みの吉の言葉を聞いて、蔦重は白河藩邸を訪ねました。公方さまのお父君に毒饅頭を食わせても罰せられない人が、この世にひとりだけいる。将軍 家斉を計画に引きこめば、将軍家の体面を傷つけずに一橋治済を処分できるかもしれない。

 

この辺は朱子学的な発想かなと思いました。儒学では親への孝はすべてに優先されるけど、朱子学はどちらかと言うと主君への忠を強調します。親子の血のつながりよりも、社会的なつながりである主従関係のほうが重い。主君殺しの大罪を犯した父 治済を将軍 家斉が罰する可能性があるんですね。儒学のほかの流派だと「どんなクズでも親は親。子は涙を飲んで従うべきだ」となるんだけど。

 

 

治済成敗計画を将軍 家斉の耳に入れるため、御三卿の清水重好を送りこんだものの、一橋治済に妨害されてしまいました。しかも、松平定信が裏で動いていることを清水重好がバラしちゃった。ガッデム。

 

プランAでダメなら、プランBだ。新しい手掛かりを求めて長谷川平蔵に探らせた結果わかったのは、二重スパイ 大崎が最後に接触したのが蔦重だったこと。……耕書堂の臨時支店で大崎から受け取った代金の包み紙! 毒饅頭騒ぎでバタバタしていて、売り上げを確認していなかったんだ。

 

将軍 家斉の家庭教師でもある柴野栗山が、その包み紙を将軍に見せました。一橋治済はお勉強が嫌いだろうから、邪魔される恐れもない。包み紙の裏にあったのは、一橋治済の指示で犯した何件もの殺人を告白する大崎の書状。

 

家斉は自分の乳母だった大崎の筆跡を見分けました。そして、「中納言(清水重好)は夢とうつつもお分かりにならぬ」という治済の言葉をきっかけに、先代 家治の死のありさまを思い出しました。

 

「悪いのはすべてそなたの父だ」

家治はそう言いました。そのとき治済は家治を「夢とうつつもお分かりにならぬ」と評したけど、本当に錯乱していたのか。あの言葉は亡き家基ではなく、まだ幼い家斉に向けられていたのでは? 家斉が成長し、いつか真意を理解する日に望みを託していたのでは?

 

家斉が家基の祟りを恐れて供養したがったのに、父 治済はそれを拒んだ。またいとこの死を悼むのは当たり前なのに、なぜそこまで嫌がるのか。家基の死に責任があるからこそ、後ろめたさを打ち消そうと頑なになっていたのでは?

 

 

家斉は家治と家基への供養として、父を成敗することにしました。跡継ぎのない清水家の今後を相談したいという清水重好の誘いに乗り、家斉は治済と連れ立って清水邸の茶室を訪ねました。

 

毒を警戒しているのか、出された茶菓子に手を付けない治済。それどころか、自分のぶんも家斉に食べさせます。家斉が死んでも子の敏次郎がいるし、家斉の弟もいる。家斉は大事な傀儡だけど、しょせん傀儡に過ぎない。

 

落語「饅頭こわい」では、「こわい、こわい」と言いながら饅頭を食べまくった男が、「ここらで熱いお茶がこわい」と言うのがオチになります。饅頭を騙し取るために、「饅頭がこわい」と言い張っていたんですね。そして本作では、ほんとうに茶のほうがこわかった。大河ドラマの茶には気をつけろと、『麒麟がくる』の斎藤道三が教えてくれたじゃないですか。

 

将軍が先に口をつけた濃茶を回し飲みするなら安全だろうと思ったのに、茶は毒入りでした。倒れ伏した将軍 家斉には目もくれず、茶室から逃げ出そうとする治済。血のつながりもへちまもないな。毒が回ってきた治済を、清水重好が冷ややかに見つめていました。序盤から登場し、重要な場面にただ座っているだけの役だった重好ですが、先代 家治の死にも立ち会い、最後に大きな役目を果たしました。

 

 

将軍に父殺しの大罪を犯させるわけにいかないという儒学者 柴野栗山の意見で、治済は阿波の孤島に流されることになりました。だいぶ先の話ですが、松平定信の嫡男 定永は阿波 蜂須賀藩の姫を正室とし、蜂須賀藩は血が絶えて将軍 家斉の子を養子に迎えることになります。

 

治済がかつて顔に当ててニヤリとしていた能面は俊寛でした。定信を島流しにしてやろうと企んでいたのでしょうか。平家に逆らった俊寛僧都は薩摩の鬼界ヶ島に流され、海岸で拾ったワカメを村で食料と交換してもらって生きのびました。一緒に流された人たちは都に帰りましたが、俊寛だけはついに赦免されなかったと言います。治済さんも戻れないだろうけど、たぶん俊寛よりは待遇がいいと思うよ。

 

入れ替わった斎藤十郎兵衛はいままでの生活を捨てることになりましたが、「さすが御三卿。いい能面を持ってるなぁ」とウキウキ顔でした。亡き大崎のレクチャーを受けたし、田沼意次の甥 田沼意致のサポートもあるし、お能三昧で楽しく生きられるんじゃないでしょうかね。

 

 

 

一橋治済が去り、平和が戻った日本橋で、耕書堂は営業を再開しました。耕書堂が面する日光街道を通って北へ向かうのは、白河藩の大名行列。蔦重たちは土下座してましたけど、譜代大名の行列に対しては、道端へ避けるだけでいいらしいですよ。

 

駕籠を降りた松平定信は、耕書堂に来るという夢をかなえて目を輝かせました。黄表紙の祖 恋川春町は神。耕書堂は神々の集う神殿。字幕では、神殿に「やしろ」とフリガナがありました。定信、おまえ、ヲタと言うより中二病だな? もしくはマンションポエマー。「日本橋(ラグジュアリー)に、住まう。」みたいな。

 

 

「揚がった凧を許し、笑う事ができれば、すべてが違った」 

定信が『鸚鵡言(おうむのことば)』で書いた「政治と凧揚げは似ている。周囲がよく見える場所に立って、風を待たねばならない」という文言を茶化したのが、恋川春町の『鸚鵡返文武二道(おうむがえし ぶんぶのふたみち)』でした。凧を揚げれば政治がよくなると誤解した人びとの愚かしい姿を描き、定信を怒らせました。

 

戯けるのが本屋の分であり、民を教導するのが老中の分ではあります。しかし、いずれにしても戯作者の命を危険にさらしてまですることではなかった。恋川春町を死なせた後ろめたさから意地を張っていたふたりは、春町の供養として写楽プロジェクトを成功させることで、ようやく和解することができました。

 
定信は店頭に並んだ黄表紙をひと通りかっさらいました。すでに持っている黄表紙でも、新装版は絵が差し替えられたりしてるしね。定信が弾圧したから改版されたんだけどね。新刊の通販と斎藤十郎兵衛への差し入れを言いつけて、定信は白河藩へと帰っていきました。写楽プロジェクトの経費として千両もふんだくったんだから、それくらいはしてやろうよ。

「世の中、好かれたくて、役立ちたくて、てめえを投げ出す奴がいるんだよ。そういう尽くし方をしちまう奴がいるんだよ。いい加減分かれよ、このべらぼうが」

 

歌麿はていちゃんを蔦重を奪った敵ではなく、蔦重に最高の仕事をさせる同志と見なすようになったようです。結果として、家出して良かったよ。恋心を断ち切って、歌麿の方から蔦重の肩をたたくことができるようにもなったし。唐丸として暮らしていたころから使っていた矢立てを返してもらい、携帯用の小さな筆で絵を描く歌麿は幸せそうです。

 

 

歌麿が加わって、チーム写楽が本格始動しました。写楽の正体を隠すため、鶴屋さんに口をきいてもらって芝居の稽古を見学。歌麿一門と絵師・戯作者たちのなかに、蔦重の父と称して源内風の総髪の老人をまぎれこませます。蔦屋重三郎が日本橋に進出してから両親を呼びよせたという史実も、ついでに回収しました。

 

『婦人相学十躰』のときはボツになった ありのままを写す歌麿の絵に、北尾政美と北尾重政の顔パーツを加え、勝川春朗が研究した遠近法で顔をドーンと大きく、手をキュッキュッと小さく付けました。輪郭線を描かない西洋画法を再現するために背景を墨雲英摺りにすれば……いかにも平賀源内が描きそうな新機軸の浮世絵が誕生しました。自分たちで作ったけど、写楽ってスゴイ!

 

 

多くの絵師・戯作者が関わったために相当な経費がかかっていますが、支払ったケチケチ定信くんも満足する出来でした。江戸の誉れとして、東洲斎写楽と名乗らせるようにと定信は提案しました。以前、江戸っ子の誇りである黄表紙のシェアが上方の本屋に奪われそうになった時は、自分が弾圧したくせに動揺してたもんねぇ。

 

むやみにリアルだったせいでグニャ富こと中山富三郎(坂口涼太郎)が大騒ぎしたこともあり、写楽の評判は江戸中に広まり、なんと蔦重の脳内八つぁん熊さんまでもが耕書堂に詰めかけました。実在したのかよ……。

 

彗星のように現れた写楽の正体をああでもないこうでもないと誰もが想像する中、源内と交流のあった杉田玄白が正体は源内だと言い出しました。口が軽そうなのでチーム写楽からハブられていた瑣吉はデカい声で源内説を騒ぎ立て、噂を広めるのに一役買いました。ハブっといてよかった。

 

とどめに、源内風の戯作『一人遣傀儡石橋』を一橋治済に届けました。届けたのは二重スパイになった大崎。潰れた浄瑠璃小屋に源内らしき老人が潜伏しているという情報を耳に入れ、治済自ら確かめるように促す大崎でしたが……。

 

結果としては失敗でした。お坊ちゃま育ちの定信くんでは、一生を暇つぶしの謀略に費やす一橋治済にはかないません。武士たる者の心得を書いたものをアホほど将軍家斉に送りつけていたせいで、『一人遣傀儡石橋』が定信くんと同じ筆跡だと見抜かれてしまいました。なんで原本を送るんだよ。ヲタたるもの、読む用・保存用・布教用の3部を作らせとけ!

 

曽我祭を見物に出た治済は、長谷川平蔵の手下を利用して定信くんの配下に毒饅頭を配らせ、大崎にも毒饅頭を食わせて殺害しました。大崎はこれを予想していたのか、浮世絵の代金を払うふりをして蔦重に何か書きつけのようなものを渡していたようです。

 

毒饅頭配りの魔の手は耕書堂の臨時支店に及びました。蔦重はすんでのところで長谷川平蔵が止めに入りましたが、次回予告によると みの吉が毒饅頭を食べてしまったようです。写楽騒ぎが命の危険を招くほどのことだと予想もしていなかった蔦重は、定信くんに抗議するため浄瑠璃小屋に向かいましたが、そこにいたのは、なんと一橋治済! いや、ただのそっくりさん???

 

 

 

そういえば、幕府お抱えの儒学者 柴野栗山先生は、初対面の一橋治済の顔をまじまじと見つめていました。同じ顔の人間をもうひとり知っていたんですかね。そのそっくりさんが例の浄瑠璃小屋の奥の間に隠れていて、栗山先生が饅頭を持って行ってあげた、ということだったのかしらん。あやうく毒入り饅頭で死ぬところだったね。

 

これはちなみに、の話なんですが、栗山先生の前職は阿波徳島藩お抱えの儒学者。徳島藩には斎藤十郎兵衛という能役者さんがいましてね。『写楽のスマホ』によると、歌舞伎が大好きで絵がうまかったらしいです。これもちなみに、の話ですが、『写楽のスマホ』での写楽の正体は、複数人説などをデジタルリミックスしたものでした。意外と『べらぼう』版写楽に近い。