星野洋品店(仮名)

星野洋品店(仮名)

とある洋品店(廃業済み)を継がなかった三代目のドラマ感想ブログ

今回は天正4年(1576年)1月から同5年の話。天正3年には従三位 権大納言 兼 右近衛大将に叙任され、信長は朝廷公認の天下人として「上様」と呼ばれる身になっています。冒頭で織田信長は嫡男 信忠に家督を譲ると宣言しました。集まっていたのは重臣と織田の一門衆、信長の三男 信孝と、甥に当たる信澄。信長がやむなく誅殺した信勝の息子です。おやおや、信長の次男 信雄がいませんねぇ。本能寺の変以降の重要人物なのに。

 

尾張・美濃は信忠に支配させ、信長は琵琶湖南東岸の安土に移ることにしました。築城の総奉行は丹羽長秀。手伝いに駆り出された藤堂高虎は石垣の積み方に一家言あるようですが、現場監督を怒らせ、つまみ出されてしまいました。

 

しかし、のちに小一郎のやり方から学んだのか、相手のやり方をいったん受け入れてから意見を言うようになりました。頭の固いジジイだって説得できる可能性はあるし、城はひとりでは建てられない。高虎の成長ぶりに、丹羽長秀も目を細めます。人が守る城ではなく、人を守る城を建てる。戦場で敵を倒すだけが武士の本分じゃないんだ。

 

安土城 現在

出典:地理院地図を一部改変

 

琵琶湖岸に点在する内湖が昭和までにほとんど干拓されてしまったため、現在の安土山は田んぼの中に浮かぶ丘、といった感じです。しかし、16世紀当時は内湖に突き出した半島でした。

 

かつて南近江を支配していた六角氏は、安土山のすぐ南東の観音寺山に城を築きました。麓からの比高が110mほどしかない安土山よりも200mほど高くて防衛的です。しかし信長は城下町を水運によって発展させることを重視して安土に築城しました。内湖が堀になるから、防御も弱くはないし。山城なんかただの飾りです。時代は平山城!

 

安土城 19世紀

出典:れきちず

 

小一郎のもとにお慶が嫁入りしたのがおそらく永禄12年(1569年)。その後8年間ほったらかされていた案件がやっと動きました。「子は嫌いだ」とか言っていたお慶には、稲葉山の合戦で戦死した夫との間に息子がいたのだそうです。なぜその存在を隠そうとしたのか、本作ではお慶の父という設定の安藤守就が知っていたのかいないのか、なんだかよくわからん話ですが、野暮なツッコミはやめておきます。

 

お慶の息子 与一郎は、北近江の宝久寺村で祖父 堀池頼昌と祖母 絹に育てられていました。すでに織田信長が天下人になった世で織田への憎悪を教え込まれ、仕官の当てもなく武士の心得を学ぶ日々。密かに宝久寺村を訪ねていたお慶も、義父母に気づかれぬように見守ることしかできない。

 

ひとりならなにかの拍子に我に返ることがあるけど、家族という狭い人間関係のなかでは、互いに牽制しあって身動きが取れなくなることがある。膠着状態を打ち破ったのは、お慶としばしば密会していた旅姿の男 村川竹之助でした。堀池家に仕える侍だったんですね。真相を知らされた小一郎は宝久寺村を訪ね、与一郎を養子にしたいと申し出ました。

 

直を亡くしたとき、小一郎は死にたかったけど死ねなかった。小一郎が万事円満の世を作るほうに賭けた直を勝たせるために。お慶が死ねない理由が息子なら、そばにいさせてやりたい。縁あって夫婦になったふたりだから、なんなりと力になろう。

 

与一郎の祖父母も苦しんでいました。真っ先に寝返り、斎藤家が滅びる原因になった安藤守就が憎い。守就の娘 お慶が与一郎を連れ出そうとしたことも許せない。息子の忘れ形見を取り返そうとお慶の肩に斬りかかった頼昌でしたが、そのせいで太刀を抜けなくなっていました。武芸を鍛えたのは女を斬るためではなかったはず。それも、息子の嫁を。

 

上座から堀池家の人々を見おろしつづけていたわが子 頼広の具足を、絹は払いのけました。こんなものは息子じゃない。息子はいつもやさしく笑っていた。身内が苦しむように望んだりしない。

 

いつまでも憎み続けるのは辛い。生きることは変わること。憎しみが薄れることだってある。変わってしまった自分を受け入れ、楽になっていいんだ。まして幼い与一郎には無限の未来がある。頼昌は与一郎に「お前はどうしたい?」と尋ねました。

 

与一郎の望みは矢で柿を射ち落とし、母と祖父母にあげること。織田の武者を射殺すために教わった弓の技を、皆を喜ばせるために使いたい。堀池家はようやく織田への報復の執念を手放し、与一郎を長浜へと送り出すことができました。

 

 

史実の話をするなら、羽柴秀長と正室のあいだに生まれたのが与一郎だったそうです。しかし仮名(けみょう。通称)だけで諱が伝わってないことから、元服直後に死去した可能性があります。秀長の嫡男なら、何らかの役職に就いたり朝廷から官位をもらったりして、諱が記録に残るはずだから。だとすると……史実なんか変えればいいんだよ!

 

与一郎役の高木波留くんは、12歳にしてすでに大河ドラマ4作目の出演。『青天を衝け』尾高平九郎役、『光る君へ』懐仁親王(一条天皇)役、『べらぼう』柯理(蔦屋重三郎)役だそうです。みんな、あんまり長生きしてないな。蔦重の数え48歳が最長か。

 

 

 

与一郎は長浜で羽柴家の身内として可愛がられるようになったし、お慶も笑ってくれるようになった。万事円満じゃ!……と言いたいところだけど、そこに加賀へ出征したはずの藤吉郎が帰ってきました。凱旋でも敗走でもない帰還。柴田勝家と口論になったって、どういうこと?

 

今回はアバンタイトルで天正元年から3年までの2年間がブッ飛ばされました。信長がはじめて大規模な鉄砲隊を運用した歴史的な合戦である長篠・設楽原合戦は、しょぼいCG1枚で処理。ここで小一郎を活躍させようとすると、小一郎の計算能力で効率的に馬防柵を立てて……って話になるけど、『おんな城主 直虎』の二番煎じになっちゃうんだよね。

小一郎が一隊を率いて活躍したとされる長島一向一揆もスルー。これはしゃあない。ほぼ丸腰で突撃する一向宗徒をなで斬りにする、というのが手柄の内容ですから。主人公を現代的な人道主義に沿った性格にしてしまった弊害ですな。ぼくもいちおう浄土真宗 本願寺派の門信徒なので、教団の黒歴史を描いてほしかった気もしておりますが。退けば地獄、進めば極楽!

 

 

 

 

天正元年(1573年)9月に浅井氏が滅亡すると、藤吉郎は北近江の一部を拝領し、小谷城に入りました。この少し前に藤吉郎は羽柴氏に改めています。丹羽長秀と柴田勝家の氏から一字ずつもらった、という通説を本作では採らなかったみたい。藤吉郎は既にこのふたりにそこまで媚びなきゃならないほど低い地位でもないしなぁ。

 

小谷城は北国街道を扼する名城ながら、城下町に発展性がない。そこで琵琶湖岸の今浜に新しく築城し、信長から一字をもらって長浜と名付けて居城としました。信長には媚びておいたほうがいい。

 

これが天正3年のこと。このころに小一郎も羽柴氏を名乗るようになったようです。義兄弟たちもそれぞれ弥助・甚助から、長尾弥兵衛・副田甚兵衛と苗字付きの名になりました。城持ち大名の身内だもんね。おめでと。

 

琵琶湖南西岸に明智日向守光秀の坂本城、北東岸に羽柴筑前守秀吉の長浜城を置き、琵琶湖の水運を支配するのが信長の構想です。両城ともに琵琶湖の水を引き入れた水城になっているのが、純軍事的な防御より経済力による物量戦を重視する信長らしい。山城の時代が終わりに近づいています。

 

長浜

出典:地理院地図を一部改変

 

秀吉は北国街道と琵琶湖岸に挟まれた土地に堀を切って排水し、琵琶湖から舟で直接入れる位置に長浜城を建て、堀に囲まれた土地を非課税の城下町にしました。するともくろみ通り商人や漁師、カブ食い大男らがわんさか集まり、収拾がつかなくなってしまいました。

 

身を粉にして働くと言ってくれた舅 浅野長勝も死んでしまったし、どうにも人手が足りない。竹中半兵衛が指摘する通り、子飼いの家臣を持たないのが成り上がりの羽柴家の弱点です。「半兵衛のような人材はなかなか見つからない」と言われて半兵衛はちょっとだけ嬉しそうでしたが、若い才を登用するように勧めました。そうだね、半兵衛ももう30を過ぎたもんね。過ぎたもんね……。

 

 

羽柴家はもともと百姓の出、出身階層を問わず採用しようと試験を行うことにしました。わー、少年漫画でよく見る「仲間集め回」だね。正直言って、試験の内容には失笑してしまいました。槍で刺されて斃れるところを見せることに何の意味があるのやら。茶番を見抜く眼力がなくても仕事はできるでしょ。面白かったからいいけど。

 

合格者はけっきょく武家出身の4人。ひとりは石田三成。秀吉に三献の茶を出し、利発さを認められた、という後世の作り話は採用しなかったのね。三成の学費を稼ぐために体を壊した兄のために仕官したいんだそうです。ええ子やな。そして男臭いタイプの男に毛嫌いされるタイプの子やな。

 

動くなと言われれば煙に巻かれても動かない頑固者。米を粥にして兵糧を倹約しようとするケチケチぶり。それをやると長期的にはカロリー不足で戦闘力が落ちるし、士気が下がって最悪暴動が起きるぞ~。こういう性格だから、合格者の残り3人と浅野長勝の弔問に来ていた福島正則・加藤清正が東軍についちゃうんだよ!

 

平野長泰は状況をよく見定めたうえで積極的に動くタイプ。藤堂高虎が槍の茶番で暴走しかけたときは、羽交い絞めにしてなだめました。意外と面倒見がいい。こういう人が細く長く生き残るのでしょう。

 

浅井家の旧臣だった片桐且元は視野が広いタイプです。万が一に備えて仏像と経典を救出するなど、目端が利くがゆえに深い信用を得られず、スパイ疑惑を掛けられちゃうんだね?

 

4人目はあの姉川合戦で大暴れしていた足軽 藤堂高虎でした。高虎は槍の試験は先に受けた者が不利だったと憤り、米俵の試験では中身が米ではないと見抜きました。煙の試験ではほかの受験者を逃がし、座禅を組んだままの石田三成を抱えて救出。聡明だし情も厚い男です。

 

 

合格定員は3人。秀吉は「相手を調略して3人に絞れ」と合格者たちに命じました。全員を仕官させてもよさそうなもんだけどね。

 

4人で話し合った末、「羽柴家の役に立つか否か」の観点から藤堂高虎を外すことに決まりかけましたが、石田三成には考えがありました。殿さまは「相手を調略しろ」と言ったのだから、殿さまを調略すればいい。勘違いとは言え、高虎には煙の中から救出してもらった恩義がある。高虎と三成の2人を合わせて一人分の禄で召し抱えていただけまいか。

 

しかし秀吉は当初の予定通り3人だけを召し抱え、高虎には小一郎の家臣になるように命じました。大名の直参ではなく大名の家老の家臣では、かなりの格落ちになる。それでも高虎は命令を受け入れました。

 

小一郎は長浜の街で見かけた高虎を評価していました。泥棒と間違われて追われていたとき、橋を渡ろうとして高虎は足を止めた。ひとりなら渡りきれるけど、追手が大勢で橋に乗れば、痛んだ橋脚が持たない。瞬時にそれを悟った高虎に、小一郎は気づいていました。いざというときには人を守るために動ける男だ。

 

士は己を知る者の為に死す。頭の回転が速すぎてほかの者はついて来られず、そのことに苛立って出奔をくりかえしていた高虎。ようやく理解者を得ることができました。羽柴家のためではなく、羽柴小一郎長秀殿のために。それが高虎の行動原理になるのでしょう。

 

 

4人の新入りを迎え入れて、長浜城では歓迎の宴が開かれました。踊りには加わらず、手酌で飲んでいた竹中半兵衛でしたが、もろ肌を脱いだ藤堂高虎に抱え上げられました。ネットでは「お姫様抱っこならぬ仏様抱っこ」と言われていましたね。同じように抱えられた三成はカチコチの仏像のようでしたが、半兵衛はびっくりして固まった猫みたいな顔をしていました。フニャー! いくら前世で弁慶と義経だったからって、無礼はいけないよ、高虎。

第17回は元亀3年(1572年)から元亀4年=天正元年(1573年)のお話。いろいろありましたねぇ。言いたいことも、言いたくないことも、ありすぎましたねぇ。

 

 

 

暴れん坊関白 近衛前久並みにアグレッシブな今年の義昭さま。みずから甲斐に乗りこみ、武田信玄の挙兵を促しました。信玄と織田信長は互いの子や養女を結婚させるなど、長年の同盟関係があるんですが。

「信長は得体の知れぬ新しき世を作ろうとしている。わしはまことの将軍となって民の安寧を守りたい」

意欲は買うけど、そもそも室町幕府にまともな将軍なんてほぼいなかったよね? ……あ、指摘しちゃいけないことだった? ゴメン。

 

武田信玄は誘いに乗り、三方ヶ原で徳川軍を蹴散らしました。徳川家康は、

「わしはこの負けを引きずっていられないから忘れる。お前は覚えていて、わしを諫めよ」

と石川数正に命じました。家康がすっかり忘れていた木下兄弟を覚えているなど、数正の方が記憶力がよさそうだけど、出奔しちゃう人だよ? 演者の迫田孝也さんが「今年は裏切らない!」と言ってたけどさ~。

 

 

武田信玄が同盟を破棄したのは将軍 義昭の差し金だと明智光秀に指摘された信長は、毒を用いて信玄を暗殺することにしました。天の助けで毒を回避した信玄でしたが、毒を恐れてみずから搗いた餅を喉に詰まらせて死にました。年寄りがひとりで餅を食っちゃダメですよ。北条義時がいたら、肩甲骨のあいだをバーンと叩いて助けてくれたのに。

 

ああ、だから山梨名物 信玄餅は、小さく切った餅に黒蜜を絡め、喉を通りやすくしてあるんですね? 信玄公は偉大なレガシーを山梨県にお残しになりました……。

 

 

 

 

信玄の死を知らぬまま、足利義昭は元亀4年7月に再度挙兵しました(3月の挙兵は信長に京を焼かれて和睦していた)。しかし信玄の死を秘すために帰国した武田軍はもちろん動かず、ほかの勢力の助けも得られませんでした。敗北した義昭は京から追放されるにあたって、「信長に取られちゃった光秀と仲良くしてくれ」と木下兄弟に言い残しました。藤吉郎の御伽衆になるまで、ぶざまでも元気に生きのびてね~。

 

信長は明智光秀に二条御所を破壊するように命じました。義昭と碁を打った碁盤をなげうち、明智光秀は庭に下りました。そこには、織田信長がお祭り騒ぎの中で二条御所に運びこんだ藤戸石。いくつも散らばる破片は、義昭が腹立ちまぎれに刀で斬りかかったときのもの。光秀も天下人の証たる藤戸石に斬りつけました。どうしてこうなったんだ!

 

 

ドラマではやらなかったけど、信長は足利義昭を追放してすぐ、朝廷に改元を求めています。元号を決めるのは天下人の証。義昭が決めた元号 元亀を新元号 天正に改めることで、おのれが天下人だと示したのです。

 

 

 

天下人の初仕事は浅井・朝倉の始末でした。天正元年(1573年)8月、信長は北近江に出陣、朝倉義景もみずから軍を率いて柳ヶ瀬に着陣し、柳ヶ瀬と小谷城のあいだで砦の建設・奪取が行われました。

 

しかし、要所である山本山城が織田方に寝返り、信長みずからが小谷城から尾根続きの支城 大嶽砦を攻略すると、戦況不利と見た朝倉義景は撤退を決意します。まっすぐ北上して一乗谷に帰るのではなく、いったん敦賀方面に出ようとした朝倉軍は、刀根坂で織田勢に追いつかれて壊滅しました。ここで朝倉の客将 斎藤龍興が戦死。美濃奪還の夢はかなわなかったけど、信長が率いる軍と戦って死ねたことだけは良かったんじゃない?

 

小谷城攻め

出典:地理院地図を一部改変

 

わずかな手勢とともに一乗谷まで逃げ帰った朝倉義景でしたが、越前に残っていた家臣にも見放され、朝倉景鏡の所領である大野へ落ちのびました。しかしそこでも当てにしていた平泉寺の援助を得られず、とうとう朝倉景鏡にまで裏切られて自害に追いこまれた、とされています。『麒麟がくる』では、景鏡役の手塚とおるさんが、ベーッとあかんべえをして、ほんとにヤな奴でした。

 

本作では、「織田軍に蹂躙される前に一乗谷を焼いてしまえ」と言う朝倉義景の首を、景鏡が背後からはねていました。えっとね、兜の鉢から下につけられたパーツは錏/錣(しころ)と言って、背後や横から首を落とされるのを防ぐためのものです。朝倉景鏡の太刀には錏をかいくぐる特殊能力があるのだなぁ。

 

ちなみに長年武士をやっていると、錏がこすれて首の後ろが黒ずむんだそうです。農民に化けたけど錏擦れ(しころずれ)で武士だとバレた、という歴史小説を読んだことがあるような気がします。手拭いを巻いて首筋を隠せばよかったかもしれませんね。どうでもいい豆知識でした。

 

錣/錏

 

信長はみずから朝倉軍を猛追して一乗谷を焼き払いました。けっきょく焼かれたんだ。その前に住人が逃げる時間を稼げたのはよかったけど。朝倉義景がさっさと将軍 義昭に謁見しておけば、麗しの一乗谷も無事だったろうに。その義昭さんもいまや流浪の身ですが。

 

越前の政治の中心が北ノ庄(現 福井市)に移り、一乗谷は速やかに田んぼの下に埋もれました。そのため20世紀に至って発掘された一乗谷遺跡は、「日本のポンペイ」と呼ばれるほど良好な保存状態でした。

 

 

 

8月下旬、信長は近江に取って返すと、小谷城を再度攻撃しました。すでに離反者が多く、天下の堅城 小谷城も維持できない。先代 久政が籠る小丸と本丸のあいだを分断されては、落城は必至。その前にお市と子どもたちだけは救出しなくては。柴田勝家は木下兄弟の弁舌に期待してふたりを小谷城へ送り出しました。いちおう認めてるのか。

 

 

……ここから先の描写についてはいろいろ言いたいことがある。お市の介錯については、べつにいいと思ってる。江戸時代の打刀(うちがたな)は約60cm。戦国時代の太刀は80~100cmあり、打刀よりも刃がずっと厚くて重い。重力と遠心力をじゅうぶんに使えば、剣術の稽古をしている描写があったお市ならできるんじゃない?

 

でもね、切腹はさ、「腹を切って死ぬこと」じゃないのよ。「死ぬ前に腹を切って侍の魂を見せること」なの。着物の前をはだけて腹をかっさばき、内臓を取り出して「腹黒ではない」と証明する。しかるのちに短刀を首の右から左へ突き通し、突き出した短刀の峰を左手で前に押し出して喉を掻き切る。

 

常人には無理なの。なので形ばかり腹を切った後、首の左側に短刀を押し当て、左手を峰に添えて頸動脈を引き切ってもいい。それもやっぱり難しいから、介錯人が首を落としてあげる。なのに木下兄弟とお市は、なにを長々とくっちゃべってるんだよ! 早く介錯しに行けってば! つか、浅井の家臣はひとりもおらんのか?

ぼくにとって直近の戦国ドラマは『信長協奏曲』です。最近Tverで見返しましたが、2回目の視聴でも面白かった。小栗旬演じる平成の高校生 サブローがタイムスリップし、メンタルを病んだ織田信長に頼まれて入れ替わる、というお話。

 

その中で大きく取り上げられているのがモリリンこと森可成です。史実では行政もできる猛将という感じですが、ドラマ版『信長協奏曲』のモリリンは気弱な文官タイプ。戦場での槍働きがないというので、息子の勝蔵(のちの長可)に軽蔑されています。ヒドイ。息子に尊敬される父になりたくて、モリリンは宇佐山城の守りを志願するんです。あああああ! もりりーん!

 

出典:地理院地図を一部改変

 

第16回は元亀元年(1570年)9月から翌年末までの話。信長は再々上陸した三好三人衆と本願寺勢に対応するため、摂津国に出陣。その隙を突いて浅井・朝倉勢が琵琶湖西岸を南下しました。宇佐山城を守る森可成は坂本へ出撃します。

 

宇佐山城に籠城しても、数で大きく優る浅井・朝倉勢なら分隊を宇佐山城に貼りつけ、本隊で信長の退路を断つことができる。信長が摂津から戻ってくるまで時間を稼ぐには、宇佐山城以北の地点で浅井・朝倉勢を食い止めるしかない。

 

浅井・朝倉勢に坂本にいた比叡山の僧兵まで加勢したため、森可成は戦死。モリリン! 冒頭の「信長さまを励ます会」では、あんなにはしゃいでたのに! 残された森家家臣が宇佐山城で持ちこたえている間に信長が帰還し、敵軍を比叡山に追い上げました。

 

信長は延暦寺に三つの条件を突きつけました。ひとつ、織田家に味方するなら延暦寺領を返還する。ふたつ、一方に肩入れしないのが仏の道だと言うなら、どちらにも味方するな。みっつ、あくまで浅井・朝倉をかばうなら、女こどもに至るまでなで斬り(皆殺し)にする。

 

比叡山側が返答しないまま事態が膠着したため、将軍 足利義昭の介入で停戦となり、信長がイラついてました。朝倉勢が雪で峠越えができなくなるまで粘れば、織田方に有利な和睦になったかもしれないのにね~。明智くぅん、もしかして将軍さまは浅井・朝倉の味方なのかな~?

 

 

 

翌元亀2年9月、信長は明智光秀に比叡山焼き討ちを命じました。踏み絵だ。真の織田家家臣としての証を見せろと言ってるんだ。藤吉郎も手を上げました。女こどもを殺すなんて、誰だってやりたくない。身を守るすべを持たない民を救うのが侍の本分じゃないのか。でも、どうやったら信長の命令に従いつつ、罪なき命を救うことができるんだろう?

 

その方法は思いつかないけど、とりあえず小一郎にやってほしいことがある。浅井家重臣 宮部継潤の調略。宮部は〈家康式 真心の説得〉で靡きかけたものの、藤吉郎か身内の子を養子として差し出すという条件をクリアできずに調略は頓挫しました。決戦を前に浅井家を弱体化させることが無駄な死者を減らすのに一番有効だから、 ぜひとも宮部を織田家に引きこんでおきたい。信長の命令に背いて死罪になるとしても、これだけは置き土産にしたい。

 

 

 

そもそも論として、なぜ〈比叡山〉に女こどもがいるかというと、延暦寺のほとんどの人員が比叡山にいなかったから、なんです。ちょっとなに言ってるかわかんないよね?

 

比叡山の修行道場があるのは標高600メートル以上の山の上で、冬はめちゃくちゃ寒くて雪もすっごく積もる。なので、本気で修行したい人以外は、比叡山東麓の坂本で俗人同様に暮らしていました。僧侶の多くが親に言われて出家しただけの人たちなので、戒律を守る気すらない。だから坂本には彼らの妻子がいるわけです。

 

こんな連中に、「仏敵 信長め! 仏罰が下るぞ!」とか言われましてもね。当の延暦寺側にも、「これほど堕落していては、焼き討ちされるのも仕方ない」という認識があったようです。信長は宗教が嫌いだったのではなく、えせ宗教者が大嫌いだっただけです。

 

 

最近の研究によると、「比叡山焼き討ち」で焼かれたのは主に坂本の町にある延暦寺関連の寺院だったようです。ただ森可成の遺骸をひそかに埋葬してくれた聖衆来迎寺(しょうじゅ らいこうじ)だけは、延暦寺とゆかりの深い寺ながら、焼き討ちを免れています。森可成の弔い合戦としての焼き討ちですから。

 

 

 

ここまでは史実ベース、ここからはドラマの話。明智光秀は信長の信用を得て埋伏の毒となるために延暦寺の大伽藍を焼き、比叡山に逃げこんだ女こどもをなで斬りにしました。しかし、足利義昭からは「外道」と言われてしまいました。うわぁ。「自分の判断で頑張れ」と命じておきながら、「やり方が違う」と怒るブラック上司だ。

 

義昭の命令で織田家を離れようとした明智光秀でしたが、驚いたことに信長は近江国 志賀郡、すなわち坂本の地を与えました。織田家初の城持ち! つーか、自分が焼いた坂本を自分で復興しろってことね? 命令通りに焼き討ちした光秀を信じたのか、ほかになにか思惑があるのか。本作の信長はぞんがい人がいいから、信じきっちゃっただけなのかも。

 

 

信長の命令に反して女こどもを逃がした藤吉郎(サルじゃなくて、藤吉郎)は、切腹を命じられました。バレてた。最初から命令に背く気だったこともバレてる。小一郎はここぞとばかりに宮部継潤を呼び入れました。姉 ともを説得して息子の万丸(のちの豊臣秀次)を宮部継潤の養子に入れていたのです。

 

ともは幼い息子を手放すことに大反対でしたが、夫の弥助は違いました。侍になって、日照りでも洪水でも死なない身分になれた。それは侍の都合と自然の猛威に振り回されるほかない民草を守る立場になったということ。我が子が人質になって多くの命が救われるなら、水争いに巻きこまれて死んだ直への供養にもなる。

 

織田と浅井の接点を治める宮部継潤を調略した功をもって比叡山での罪を償わせてほしいと言う小一郎に、信長は冷ややかでした。それとこれとは別だ。しかし宮部継潤が口を挟みました。まんざら別でもない。

 

宮部継潤の前身は比叡山の僧兵で、藤吉郎が逃がした者たちの中には知人もいました。藤吉郎のおかげで知人たちが死なずに済んだのなら、自分も藤吉郎と、織田家とともに生きたくなった。

「サルッ!」

一言も口を利かずに主君を見上げ続けた藤吉郎をいつもの呼び名で怒鳴りつけ、信長は藤吉郎を赦しました。でも、次はないからな!

 

命令に背いて赦される藤吉郎。命令通りにして主君に外道呼ばわりされた明智光秀。藤吉郎を見つめる光秀の目には涙が浮かんでいるようでした。光秀の感情はどこへ向かうんでしょうね? ちょっと失望したからって、生きる意味を教えてくれた将軍 義昭から心が離れることもないだろうし。本能寺まであと10年ほどですねぇ。

 

 

 

万丸が親元を離れて3か月。ともと弥助は、岐阜に来た宮部継潤に万丸への腹巻を託しました。おなかが弱くて、お歌を聞かないと眠れなくて、よく転んで、泣き虫な幼子。宮部継潤は笑って万丸の成長ぶりを語りました。母の教えを守り、ひとりでも泣くまいと頑張っている。万丸は幼くても侍の責務を知っている。

 

彼らの様子を雪降る庭から眺めていたのは、小一郎の妻 お慶。なにか薄くて四角い風呂敷包みを持っていました。子が嫌いだと言っていたけど、万丸に書物でも贈ろうとしたのでしょうか。結局あきらめて立ち去ってしまいました。あんだけツンケンしておいて、いまさらと思ったのかな。お慶の亡夫の両親にえらく大物が起用されたので、再来週以降に動きがありそうですね。その前に、来週は小谷城攻防戦です。

 

信長が金ヶ崎の退き口から無事に生還したのが元亀元年(1570年)4月30日のこと。5月下旬には岐阜に戻り、再び出陣したのが6月の中旬。約2か月の間に信長は口ひげを生やし、当世具足(西洋の板金鎧の要素を取り入れた鎧)に換装していました。おお、第六天魔王感が増してきたぞ。

 

陣羽織は南蛮渡来らしき柄物でした。ヨーロッパのお城とかで、ああいう模様の織物をよく壁に貼ってある。衣装担当によると、信長だけが陣羽織と当世具足を着ているのは、信長の先進性を表すため、だそうです。

 

 

 

浅井長政に裏切られた信長の復讐戦、姉川の合戦が始まりました。小一郎は兄 藤吉郎が療養中であり、お市を守りたいこともあり、火薬が手に入らないことを理由に決戦を先延ばしにしたかったのですが、竹中半兵衛はその考えに不賛成のようです。どれほど時間をかけて説得しても、浅井長政がいまさら織田に降るとは思えない。だよね。

 

そこに藤吉郎が帰還しました。前田利家と佐々成政のあいだを跳び越えて成政に嫌な顔をされていました。元気そうだけど、今回のラストシーンで足を引きずっていたことから見ても本調子には遠いのでしょう。それでも、お市の命と信長の心を救うために駆けつけたのです。

 

藤吉郎に促されて竹中半兵衛が献じた地図には、小谷城には猫、横山城に鼠の絵が添えられていました。かわいいな。天下の堅城 小谷城に籠られたら厄介なことになる。浅井方の各城を調略で落とし、唯一残した横山城をエサに小谷城の猫を釣り出して野戦で破る。決戦の地は姉川。

 

姉川合戦

出典:地理院地図を一部改変

 

姉川は関ヶ原から15km、小谷城からは5km。両軍の同盟者は微妙に遅参してきました。浅井方には朝倉一門の朝倉景建。朝倉家は当主が出陣することはまずないんです。あの辺は一向一揆の勢力が強くて、一乗谷をガラ空きにしたくないので。やる気がないわけじゃないんだ。たぶん。

 

信長に援軍を出すべき将軍 義昭はなんだかんだ言って兵を送ってくれませんでした。いやー、三好三人衆もまだ京を狙ってるわけだし。作中でも言ってたけど、南近江は六角の残党が復権を目指してあれこれやってくるし。京を手薄にしたくないじゃん?

 

腹黒タヌキ 徳川家康は意図的な遅参でした。信長しか得しない戦争であちこち引きずりまわされるのは迷惑だしぃ、背後の武田が気になるのも本当だしぃ。

 

ナメ腐った態度の家康を信長は締めあげました。日体大の集団行動よろしく赤母衣衆・黒母衣衆が家康を取り囲み、動揺した家康の口に信長は小魚の干物を突っこみました。裏切り者には地獄を見せるのが信長のやり方です。信長を恐れた家康は、本陣を石川数正に任せて姿を消しました。

 

 

合戦中、小一郎の人生を動かす出来事がふたつありました。ひとつは、藤吉郎を守るために人を斬ったこと。初陣だった1560年の桶狭間合戦から10年ものあいだ、小一郎は生き残るための闘いをある意味他者に押しつけていたけど、もう言い訳は利かない。小一郎は二刀を振るって敵をなぎ倒しました。

 

もうひとつは浅井家の足軽 藤堂高虎との出会いでした。見上げるほどの大男の高虎は、前世で武蔵坊弁慶として亀の前の屋敷をぶっ壊していました。短槍で暴れ狂う高虎は三人がかりでもあしらいかねるほどでしたが、「浅井長政、討ち死に」の報を聞くや(誤報だけど)、高虎は地に伏し、駄々っ子のようにのたうち回りました。手柄を立てても自軍が負けると褒賞がないからねぇ。

 

高虎はこのとき数え15歳。もうちょっと人間的に成長しなさいよ。そして同じく人間関係について学んでおいた方がいい石田佐吉くん(数え11歳)が、このころ横山城 南東麓の観音寺にいたりします。彼らが藤吉郎たちの配下になるのはまだ少し先のこと。

 

 

 

数で勝る浅井・朝倉勢に押しこまれていた織田・徳川勢を救ったのは、信長の命令で姿を消していた徳川家康でした。姉川を渡って徳川陣に大きく踏み込んでいた朝倉勢の横っ腹を不意打ちし、壊走させることに成功したのです。ふざけたタヌキだけど、野戦指揮官としては有能よね。でもタイミングがちょっと遅めだったんじゃない? 徳川本陣を守っていた石川数正の出奔ゲージが上がった気がする。

 

朝倉勢の混乱は浅井勢にも伝わり、もはやこれまでと見た遠藤直経は、浅井長政の首を信長の検分に供すると称して織田本陣に接近します。しかしミュージカル俳優 伊礼彼方の美声が藤吉郎の記憶を刺激してしまいました。金ヶ崎の退き口で浅井長政のとなりにいたアイツだ!

 

藤吉郎たちの知らせが間に合い、信長殺害計画は阻止されました。信長が小谷城にお市を訪ねてきたときに暗殺しておけばよかったと恨み言を言いながら死んでいった遠藤直経の死体に槍を突き立て、信長は勝利を宣言しました。

 

 

姉川を紅に染めるのは血か、夕日か。信長は裏切り者に地獄を見せてやると言うけど、地獄はここにある。これほど多数の死者を出しては、もはや和睦の道はない。浅井、そして朝倉を滅ぼさない限り、地獄は終わらない。終わらせなくちゃ。

 

そういえば、合戦中に信長本陣に射かけられた矢を森可成が槍で打ち払っていました。森家と言えば槍ですよね。次週サブタイトルは「覚悟の比叡山」。モリリン、琵琶湖の西岸にはね、行かないほうがいいと思うんだ。4人の息子たちはまだ小さいんだからさ。