昨年、仕事関係でお世話になった女性とのお別れがあった。
脳内出血で入院、数か月後に亡くなられてしまった。
倒れてから、意識不明の状態がしばらく続いたが、その後、彼女が目をさましたときがあった。
ぱっちりと目をひらいて、こっちを見ている様子に、思わず「○○さん!」とよびかけて手を握った。
でも返事はなく、一度も会話はできなかった。
彼女のダンナさんが、
「私たちが知っている以前の彼女は、もう、いなくなった、と思ってください」とおっしゃった。
「彼女の瞳は、たしかに私たちを見ているけれど、以前の生活の記憶はなくなっていると主治医が言いました」
「たぶん、いまの彼女には、私たちは初めて会う人なんですよ」と。
ダンナさん自身、何度話しかけても反応がないことを、くりかえして、だんだん主治医の説明を受け入れるようになったそうだ。
この出来事を思い出すと、記憶は「人そのもの」といわれるわけが、実感できる。
亡くなる前の○○さん。
ダンナさんのこと、ほかの人や私のことを、わすれて、みんな「知らない人」になっていたのかな。
でも、片方がおぼえていたら、また会ったとき、○○さんだ!と認識できる。
それは、「からだ」という意識の入れものが、あってのことかもしれないけれど。
では、生物学的な死によって、からだという入れものを失った場合、意識と意識は出会えるのだろうか?
↓これは、わたしが、こどもの時によんだ漫画。
手塚治虫さんの「火の鳥」の一場面です。
ロボットの「チヒロ」と、一度死にかけて身体の一部を機械化することで生命維持している「レオナ」。
ふたりの意識と意識が再会するシーン。
レオナは、一部機械化することによって、生きながらえた自分を「作り物の命」だと感じてきた。
そして、ロボット「チヒロ」のなかに「心」を見出し、ふたりは恋人同士になるが、やがて、それぞれの精神の入れもの(=からだ)は壊れてしまう。
肉体の死が迫るレオナは医者に「僕の心を、チヒロの中にうつして」と頼み、ふたりの心はひとつになる。
手塚さんが、漫画という手法でみせてくださったイメージ。
わたしは信じてる。
言葉のやりとりができた日々のこと、わたしはわすれない。
ずっとおぼえている。また出会えたら、きっとみつけるからね