「心」に出会うということ | 風の日は 風の中を

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~職場や学校で不安感に悩んでいる方へ~
「不安とともに生きる」森田理論をお伝えしたいと思いブログを書きはじめました。
2011年9月からは、日々感じたこと、心身の健康などをテーマに日記を綴っています。

昨年、仕事関係でお世話になった女性とのお別れがあった。

脳内出血で入院、数か月後に亡くなられてしまった。


倒れてから、意識不明の状態がしばらく続いたが、その後、彼女が目をさましたときがあった。

ぱっちりと目をひらいて、こっちを見ている様子に、思わず「○○さん!」とよびかけて手を握った。


でも返事はなく、一度も会話はできなかった。

彼女のダンナさんが、

「私たちが知っている以前の彼女は、もう、いなくなった、と思ってください」とおっしゃった。

「彼女の瞳は、たしかに私たちを見ているけれど、以前の生活の記憶はなくなっていると主治医が言いました」

「たぶん、いまの彼女には、私たちは初めて会う人なんですよ」と。


ダンナさん自身、何度話しかけても反応がないことを、くりかえして、だんだん主治医の説明を受け入れるようになったそうだ。


この出来事を思い出すと、記憶は「人そのもの」といわれるわけが、実感できる。


亡くなる前の○○さん。

ダンナさんのこと、ほかの人や私のことを、わすれて、みんな「知らない人」になっていたのかな。


でも、片方がおぼえていたら、また会ったとき、○○さんだ!と認識できる。


それは、「からだ」という意識の入れものが、あってのことかもしれないけれど。


では、生物学的な死によって、からだという入れものを失った場合、意識と意識は出会えるのだろうか?


↓これは、わたしが、こどもの時によんだ漫画。
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手塚治虫さんの「火の鳥」の一場面です。


ロボットの「チヒロ」と、一度死にかけて身体の一部を機械化することで生命維持している「レオナ」。

ふたりの意識と意識が再会するシーン。


レオナは、一部機械化することによって、生きながらえた自分を「作り物の命」だと感じてきた。

そして、ロボット「チヒロ」のなかに「心」を見出し、ふたりは恋人同士になるが、やがて、それぞれの精神の入れもの(=からだ)は壊れてしまう。


肉体の死が迫るレオナは医者に「僕の心を、チヒロの中にうつして」と頼み、ふたりの心はひとつになる。


手塚さんが、漫画という手法でみせてくださったイメージ。

わたしは信じてる。

言葉のやりとりができた日々のこと、わたしはわすれない。

ずっとおぼえている。また出会えたら、きっとみつけるからね