前記事にかいた中村さんは、わたしが心くじけそうな時、思い出す存在。
中村さんのことを蓮の花にたとえている文章をみたことがあったのだが、うなずける例えである。
どんなに泥をかぶろうと、清らかな花をひらくさまは、中村さんの生きざまを思い出させる。
中村さんの生涯を知って、もっとも印象にのこるのは、『見世物小屋』という場所。
20歳で住込み芸人となり、その後興行主という立場にもなった。
長年、働いたあと、興行から遠ざかった時期は、夫や娘におぶわれて全国で講演活動を行っていたという。
中村さんのお話は、聞く人の胸をうち、励ましをあたえ、有意義なものだったと思われるのだが、いつしか彼女は、「慢心に気づいた」という。そして再び見世物小屋に戻っている。
中村さんにとって、見世物小屋は、まぎれもなく職場だった。
突発性脱疽により、3歳で四肢切断。
「手足のない娘さん」という噂をきいた、見世物小屋からのスカウトに、父親は「娘は人間。売り買いなどできるはずもない」と激怒する。
その父を7歳で亡くし、母の再婚によって義父となった人は「障害者の存在は恥」という考えであった。
そのため、学校に行くこともゆるされなかった。
当時、自活をめざすのなら見世物小屋に行く以外、選択肢はなかった。
実の父が嫌っていた見世物小屋。
通常なら「ある」はずの手足が「ない」ことを見世物に…。好奇な視線や、障害蔑視のなかに娘を投げ入れることなどできない、それが、お父様の心情だったであろう。
命を守るためやむなく行われた四肢切断。それによって、指や手のひらさえも失っていた中村さんは、どのようにして、裁縫や編物を、こなしていたのか?
切断端である短い、まるい腕、あご、口、歯、舌、たしかに「ある」ものを最大にはたらかせて、健常者以上のみごとな技術を身につけていた。
その芸には野卑なところはいっさいなく、彼女の姿からは品格と教養が感じられたという。
「最後までやりぬく」厳しさを母から、たたきこまれていた。
また、祖母からは、お客さまをおもてなしするときの行儀作法を躾けられていた。
「いかなる場合でも、いかなる職業に携わっても、魂を磨くことを忘れてはならない。自分を卑しめることがいちばんの罪悪」
そんな言葉で彼女を励ました人がいた。
その励ましの言葉どおり、魂を磨き続ける人生だったのだと思う。
中村さんについての前記事を投稿したところ、メッセージをくださった方がいて「サリドマイド薬禍による障害の方が、やはり明るく力強く生きていらっしゃった姿を思い出した」とかいてあった。
それで、私も以前、読んだ本を思い出したのだが、たしか幼いときから義手をつけるための訓練など、努力されている方だった。
そのかたが、幼心に義手を「高度なおもちゃ」のように感じたといわれていたように記憶している。
義手は「ない」ものを補うためのもの、といえるだろう。
でも、その人は、中村さんと同様、実生活のなかで「ある」ものを最大につかって、身の回りをととのえる術を身につけておられた。義手があれば、義手を活用するけれども、義手がなくても困らないだけの動きをもっている方だった。
こうしてみると、「ない」は健常者側からの見方であり、「ある」を最大に働かせている人々というのは、「ない」と思われているがゆえに、実に多くの「ある」を発見し、特性を活かし、その人間性を輝かせて生きている方々なのである。