前記事に、お名前をかいた乙武さんは、現在もお仕事を通し、その前向きな生きざまをみせてくださっています。
「障害は不便なところはあっても、不幸ではない」その言葉どおりであることを、実感させてくれる方です。
乙武さんの存在が世に知られるずっと以前、明治~昭和を、乙武さん同様、四肢切断という障害を持った女性が「人生に絶望なし」と朗らかに力強く生きぬいていかれました。
中村久子さんという方ですが、みなさんご存じでしょうか。
愛情深い両親に守られ育ちますが、7歳のとき父親を亡くします。
貧困のなか、母親は再婚。
11歳頃から、「身の回りのことを自分でできるように」という母親の厳しい愛情によって躾けられ、裁縫、編物、炊事、洗濯、掃除などができるようになっていきます。
18歳頃には、裁縫や編物は健常者を凌ぐ腕前になっていました。
20歳で見世物小屋の住込み芸人となります。
だるま娘の芸名で、裁縫や編物、口にくわえた筆で字を書く、切り紙細工などを披露、たいへんな人気を博しました。
この当時、生活困窮者、身体障害者に対する社会保障がありましたが、中村さんはそれを受けることなく、自立していくことに誇りを見出したかたでした。
見世物小屋の芸人をしながら、結婚、ふたりの娘さんを育て上げています。
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私は20歳頃に、中村さんの生涯について知る機会を得ました。
中村さんがヘレン・ケラーと出会ったときの話をおぼえているのですが、中村さんを抱きしめたヘレン・ケラーは、「かわいそうに、私より不幸なかた…」と言われたそうです。
ヘレン・ケラーのこの言葉は、「三重苦といわれた私より、もっと大きな困難を乗り越えてきたのですね」という意味であろう、と今は思います。
しかし、そのときの私は、まだ若く、単細胞だったので、ヘレン・ケラーの言葉を悪くとってしまいました。
誇り高い中村さんを「かわいそう」よばわり=ヘレン・ケラーは上から目線…というふうに。
乙武さんの姿をはじめてテレビでみたとき、このときのモヤモヤがふきとばされたようで、爽快感を感じたのです。
その人間的魅力もさることながら、若い女性たちから憧れの王子さまのように、熱い視線をあびていた乙武さん。
さすがのヘレン・ケラーも「かわいそう」発言はできないにちがいない、ザマーミロ、という気持ちでした。
発言も何も、ヘレン・ケラーは、とっくに亡くなっていたのですが(汗)
今日、中村さんについて記事をかこうとして、ヘレン・ケラーと中村さんの会談について調べてみたところ、ヘレン・ケラーは、中村さんの努力を「私より偉大」とまでおっしゃっており、けして上から目線などではなかったと思います。ヘレン女史、長きにわたり誤解しておりまして、申し訳ございません。
中村さんは、晩年、「良き師、良き友に導かれ、かけがえのない人生を送らせて頂きました。今思えば、私にとって一番の良き師、良き友は両手、両足のないこの体でした」と語っておられたそうです。
ご自分の、あるがままの姿、からだを大切に受け入れて、りっぱに生きぬかれた中村さん。
その生きざまにふれた周囲の方たちを愛し、愛される、ゆたかな心のかたであっただろうと思うのです。