近藤誠先生は、これまで、たくさんの著書を出されたが、一貫して「がんと、闘うな」とよびかけられている。
がん治療は、切除(手術)、放射線照射、抗がん剤投与など、がん細胞殲滅にむけ闘うもの。
がんは異物であり、身体の内部にいる敵であるという考え方から、「がんと闘う」姿勢が生まれた。
近年になって、闘う姿勢とは、やや距離をおいた「がんとの共生」という言葉が、少しずつ広まっている。
医学は一部では成功をおさめたけれど、がんに関しては、うまくいっていないところがある。
それどころか、治療の後遺症や毒性で苦しむ患者も少なくない。
「がんと闘う」という考え方に無理があるのではないか?との反省にたって、生まれた概念が「がんとの共生」である。
この概念は治療を放棄しようと言っているのではない。
こどもの急性白血病のように治る可能性が高い場合は治療するのが妥当。
しかし、同じ病名でも、高齢者の場合、治しきれないのに治療の副作用や毒性が強くあらわれ、生活の質がきわめて悪くなってしまうケースがある。
このようなケースは、がんと闘っているように見えても、じつは「治療の副作用や毒性と闘う」ことを強いられているといえる。
治療と称して、人生の最後に患者を悲惨な目に遭わせてはいけない・・・近藤先生は、そうおっしゃっているのだと思う。
わたしは、きのう、ある方のブログで、釈尊に関する記述をみた。
こうかいてあった
釈尊は、「老・病・死」を自分を超えて起こる自然現象であると素朴に捉えた
すごいね、釈尊。
上記の高齢者の急性白血病の例は、「老・病・死」すべてを含む。こどものがんと高齢者のがんは違う。
がんは「病」とされているけれど、その本質は加齢現象のひとつといえる。
がん医療が発達していなかった頃、穏やかな「老衰」とされたものには、「自然に迎えるがん死」がふくまれていた。
人のからだは太古以来、がんと付き合ってきているので、どうがんと付き合ったらいいかを知っている。それが、自然に迎えるがん死が苦しくない理由。
これに対し手術や抗がん剤は、最近登場した方法なので、からだが慣れておらず、付き合い方がわからないので、苦しさを生んでしまう。
とすると、がんは人が安らかに死をむかえるための装置であり、天の配剤である、との見方もできる。
近藤先生がおっしゃる「がんとの共生」概念とは、がんによって苦痛を伴う症状がある場合や人の命が危険にさらされているケースにおいて、苦痛・危険を回避する治療を行う、しかし治療のマイナス面がプラス面をうわまわることがない範囲にとどめるべき…ということのようだ。
苦痛を伴わない、症状のないがんは、がんとうまく共生、共存している関係という見方ができる。
共生関係を無理にこわさず、がんとともに生き、がんとともに滅ぶ…自然に逆らわない生き方といえるのかもしれない。