がんの定義・診断の問題 | 風の日は 風の中を

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~職場や学校で不安感に悩んでいる方へ~
「不安とともに生きる」森田理論をお伝えしたいと思いブログを書きはじめました。
2011年9月からは、日々感じたこと、心身の健康などをテーマに日記を綴っています。

これまでの記事で、一口に「がん」と言っても、いろいろな性質のものが含まれていることについてふれた。


増大するもの、大きくならないもの、消失するもの、そして転移するもの、しないもの。

同じ「がん」でも、性質がそれほど違うのは、がんの定義・診断に問題があるからだ。


がんとは「異常増殖した細胞の塊で、人を死に至らしめるもの」と定義した場合。

亡くなった人の解剖所見で異常増殖した細胞の塊があれば、誤ることなく診断できる。

しかし死者にしか適用できない。


そこで「放置した場合、人を死に至らしめる可能性がある、異常増殖細胞の塊」と定義した場合。

がんの成長速度は人によって、まちまちなので、放置・観察によって各個人の、がんのスピードを知るしかないが、これまで、がんの可能性があることを知りつつ放置・観察する方針は不存在だった。


「異常増殖細胞の塊で、臓器転移を伴うもの」と定義した場合。

臓器転移があるかどうかは、初発病巣治療後、一定期間おかないとはっきりわからないことが多い。


どのように定義しても、実地に用いるには穴がある。

それで、専門家は、はっきり定義することを放棄。

他方で、顕微鏡で組織標本から診断する「病理医」とよばれる医者に診断を委ねた。

ここで「進行がんの範疇にあるものだけを、がんとする」もしくは「早期がんの中で、周囲の組織に侵入している病変だけを、がんとする」というように診断を厳格にする道もあったが…その道は選択されなかった。


将来、人を死にいたらしめる可能性が、少しでもあれば、がんと診断するのが基本。その結果、性質がまちまちな病変も、すべてがんと診断されるようになった。(言い換えると、がんの可能性をみおとしてはならない、疑わしきは罰する方針だったということか?)


近藤先生の著書を読むと、現代のがん医療で治ったとされる人達のなかには、医療の恩恵というより、もともと治る要素をもっていた人たちがふくまれているのだと思える。また、現在の医療で治しきれない病状の人を過剰診療によって苦しめている例も少なくないかもしれない…


近藤先生は、雑誌での連載や著書のかたちで、もう20年ちかく、このような問題を指摘し続けている方である。

「現役医師なのだから、学会で発表し、医学界から変革をおこすべき」という声もあった。

本を読んできて、思うことは…やはりこういうかたち(医療を受ける側に著書をとおしてよびかける)しかなかったんだろうなー


先生は、「がんは早期治療が重要」という社会通念に疑問を呈しつつ、がん医療産業化の構造が、医療サイドのための医療をおこなっている側面があることを浮かびあがらせてしまったので…。

医療サイドにとって、「がんは放置すると死に至る」という恐怖により、患者が早期治療のレールにのる図式は都合のよいものであったのだ。がんの場合、患者ひとり当たりの治療の売上高がかなり高額になる。

(一部の代替療法とよばれるものも)