だれか私に値段をつけて | 風の日は 風の中を

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~職場や学校で不安感に悩んでいる方へ~
「不安とともに生きる」森田理論をお伝えしたいと思いブログを書きはじめました。
2011年9月からは、日々感じたこと、心身の健康などをテーマに日記を綴っています。

(前記事のつづきです)

「東電OL殺人事件」に関心をよせるようになったのは、ジャーナリストの佐野眞一さんのルポを読んだことがきっかけです。

新聞報道で事件を知ったときは、あまりくわしく知りたいニュースじゃないな、と思いました。

しかし、佐野さんが冤罪の可能性を指摘されているということを知り、この方が書かれたものを読むようになってから関心が高まりました。


それまでノンフィクションという分野と、新聞などの記事の違いはよくわかっていませんでした。

どちらも事実を取材して記事をかく点で同じようなものだと思っていました。

しかし、佐野眞一さんの本を読んでからは、ノンフィクションは、小説と同じように物語を構築していくところがあるように感じました。事実取材に基づいたものであっても、書き手が紡ぐ世界にひきこまれていき、小説を読んでいるのに近い感覚はありました。

私は佐野さんをすぐれた書き手だと感じ、この事件に対するとらえ方も、佐野さんの影響を大きく受けました。


事件の犯人とされ服役中のゴビンダさんについては、冤罪の可能性があり、本当にお気の毒だと思います。

再審の扉が開きますよう、かげながらお祈りしております。


そして事件の被害者となったWさん。

この女性について最初、新聞で読んだ時は「事件にまきこまれた、直接は知らない人」にすぎませんでした。でも佐野さんの文章を読むうち次第に遠い人ではなくなっていきました。

そう感じたのは私だけでなく、佐野さんのルポの反響はたいへん大きいものでした。

たくさんの読者(多くは女性)から手紙が寄せられたそうです。

人ごととは思えない、心情的にはWさんと重なるところがある、といった声です。


事件発生から14年以上経過しておりますので、事件じたいを知らない人、関心がすくなく忘れかけていた人、覚えているが不可解な事件だった…という方々も相当数いらっしゃることでしょう。

そういう方にとっては、売春行為のはてに殺されるようなケースになぜ共感などできるのか?という気持ちがあるだろうと思います。


佐野さんは、雑誌に連載されていた当時、『堕落論』という言葉をタイトルの中に入れておられました。

堕落論。坂口安吾からの引用です。

「人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない」

「堕落自体は悪いことにきまっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない」

「堕落すべき時には、まっとうにまっさかさまに堕ちねばならぬ」

安吾のいう人間が生きるということを、「潔くまっさかさまに堕ちる」形でWさんは、われわれに示した、と佐野さんは書かれています。

小賢しさ、偽善にあふれ堕落することすらできない現代の世にあって、堕落することのすごみをみせつけたと。

彼女の徹底した堕落に、佐野さんは「神々しさ」さえ感じておられたようです。


入社同期の女性社員の中からただ一人、管理職に昇進していたエリートのWさんの年収はけして少なくなかったといいます。金銭が主たる目的で売春行為におよんだとは考えられず、そこが謎でした。

絵に描いたようなエリートだったからこそ、女性としての自分を押し殺していた部分が大きく、それが破綻をまねいた、という解釈が、複数の人によりなされていました。

佐野さんは、精神科医との対話をとおして、以下のように考察されています。


Wさんは20歳のとき父親を亡くしている。(父親も東電社員だった)

Wさんは過剰なまでに父を理想化していた。

尊敬する父の死がトリガーとなって拒食症を発症。

東電でのさらなる昇進をめざしていたが壁は厚く、『父親に比べ見下げ果てた自分』への処罰衝動が高まる。

拒食症から自己処罰の方向に向かったケース。売春は自己処罰の手段。


上記のお話は正直よくわかりません。

私は心療内科の領域に勤務した経験があります。精神医学上の読み解きが上記のようになるということには納得がありますが、私個人には「エリート」、「父親を理想化」という要素がないもので…。

それでも、佐野さんが書かれたノンフィクションの世界から、たしかに彼女のすごみを感じとりました。

現実の世界で出会っていたら、その「病んでいた」部分から痛々しさのほうを感じたかもしれませんが。

彼女の潔い堕落に聖性を見い出す佐野さんの視点をとおしてみると、彼女はやはり最後の瞬間まで生きようとしていた人に思えます。

極端な二重生活。でも、それぞれが「彼女」に間違いなく、とくに娼婦の彼女が、エリートの彼女を支えながら自己同一化しようとしていたのではないかと…。


娼婦の彼女は裕福な顧客からは万単位を受けとり、プアーな客は三千円でも受け入れたということです。

ここがまた謎の深いところで、なぜ三千円という価格を許せたのか?

これについては、値段をつけられることに意味を見い出していたのでは、という解釈があるようです。

(値段がつくことで異性から女性としての価値をしめされる)


ここまでくると、佐野さんのいう「堕落するならここまで堕落してごらん」という域に達していると思います。

そこに「凄み」を感じるのは、私自身は「値段をつけられる」ことをおそれ、考えないようにしてきたからです。

そう、自分の存在価値が数値化されるなど、こわいことです。

ましてや自分の「価格」が大暴落していることを、薄々知っていても直視することなどできません…


エリートという立場になったことがないので(;^_^A エリートゆえの苦しみは経験がないです。

私の職業は、ずっと看護職ですが、職業選択したとき、父からはイヤ~な顔をされました。父にとって看護職は「危険」「きつい」「きたない?」の3Kだったようで…。

(そういえば売春も…3Kかもしれません)

でも、自分にとっては、看護職は女性性を生かせる職域であり、また「年齢を重ねること」について、それほど不利に扱われないように思えたのです。

しかしこの職業においても「自分は価値があるのだろうか」という問いから逃げることはできず…でもそこをきちんと考えるとやっていけないので、深追いしないようにしてきたのです。

Wさんは、几帳面にその問いに対峙し続けた人だと感じます。


渋谷区円山町の中心に道玄坂地蔵とよばれるお堂があるそうです。

この場所でWさんが客引きをしていたということから、今でも、ここで彼女を思い手をあわせる方もいるそうです。

私は、まだ行ったことはありませんが、もし通ることがあれば手をあわせたい気持ちです。