日本政府も韓国政府も、学校で児童や生徒に自国の嘘の歴史を教えている。

 

日本は自虐史観を、韓国はキムチ史観をである。

故に、自己の民族として持つDNAを知らない。

 

例えば、朝鮮民族は、日常では全く日本人(大和民族)と変わらないように見えても、嘘八百はいつものことであり、恩などの感情はなく、常に強きに従い、弱きには残虐極まりなく、それに精神異常が国民の過半数を占め、時には突然何の前触れもなく喚きだす世界でも固有の火病(ひびょう)遺伝子を持つ。

 

性善説の日本人女性は、朝鮮民族である韓国人男性がそのようなDNAを持っていることを知るのは、結婚した韓国人男性に殴られ蹴られたりした場合や、出来た子が発達障害と診断された時である。

 

だが、そのような症状が無い場合もある。私の知るある日本人女性Aは、日本人男性と結婚し、二人の子(男子と女子)を産んだ。更にこの二人の子は、それぞれ二人の子を持った。つまり計4人の孫である。

 

処が、この孫四人とも明らかに発達障害である。

医師にかかると特別学級に入らなければならない。

それじゃ、その子の未来に傷がつくと言って、普通の小学校に通わせた。受け持ちの教師の苦労は並大抵のことではなかったそうだ。

 

そこで、不思議に思った子の相方が、知人の勧めで、密かに戸籍謄本をとって驚いたという。

 

この御婆さんである日本人女性Aの祖先は、普通に戸籍謄本をとっても分からず。三世代前の戸籍謄本を入手し、初めて分かったそうだ。


女性Aの三世代前に日本に帰化していた。

典型的な隔世遺伝である。

 

(前回記事)

韓国(36) 知らない歴史・消せない歴史
2022-10-11 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12768704559.html

 

さて、本題 「日韓併合(1910年(明治43年))以前の李氏朝鮮時代の歴史を正しく知ろう」2012/10/17著
 
モンゴル人が建てた元朝(1271~1368)は、高麗を支配下において、あれこれと干渉してきた。

司令官を駐屯させて、王家の世子(世継ぎの王子)を人質として、元に差し出させた。この世子がのちの忠烈王(ちゅうれつおう)である。

 

忠烈王の帰国にあたって元の世祖フビライは娘と結婚させた。つまり、高麗王は、元の大汗(皇帝)の婿となったわけである。


以後、歴代の王は、元の支配のもとに、有名無実となり、その後の王は、モンゴル名を名乗ることとなった。
 
忠宣王はイジリブカ、忠肅王はアラトトシリ、忠惠王はプダシリというふうに、改名させられてしまった。

また、モンゴル風に、弁髪を強いられ、衣服も蒙古風にさせられたという。こういう強制は、のちの清朝の時にも行なわれている。

韓半島の歴代王朝が、臣属している中国そのものが、異民族に蹂躙(じゅうりん)されてしまう。


そうなると、これまで、中国の王朝の意を迎えるため、すぺてに中国式に徹底してやってきたことが、無に帰してしまうのである。

朝鮮民族は、パニックに陥ってしまう。胡服(註)弁髪(註)を強制されることになり、中国に義理立てしてきた価値観が、モンゴルになり、満州になり、そして日本になりという、これまで、朝鮮民族が蔑視してきた民族のものに、切り換えられてしまう歴史である。

 

(註)胡服(こふく)
胡人の着る服の意。胡人とは,中国の戦国時代に北方辺境で活躍していた匈奴や鮮卑などの遊牧騎馬民族を指し,彼らの着用した筒袖,左衽(さじん)(左前)の上衣にズボンという二部式の衣服を胡服と称した。胡服は騎兵戦に適した服装であった。(中略)日本でも古墳時代の埴輪の服装にその様式がみられる。胡服は広くユーラシア大陸の内陸部から北方全域に広がり,今日の西洋式服装も源流は胡服に発している。※平凡社世界大百科事典 

 

(註) 弁髪(辮髪、べんぱつ)


北方アジア諸民族の間で行われた男子の髪形。清国を建てた満州族の場合、頭の周囲の髪をそり、中央に残した髪を編んで後ろへ長く垂らしたもの。清朝は漢民族にこれを強制した。中華民国になって廃止。
 
創氏改名は、日本人の専売特許ではなかった。歴史上、何度も、そういう目に遭ってきた民族なのである。
「韓国へ、怒りと悲しみ」豊田有恒 1996年 文藝春秋社 
 
★★★
 
明(1368~1644)から清(1644~1912)に主人を替えた後の朝鮮人は実におとなしく、清の軍隊召集に馳せ参じ、2回の羅禅(ロシア)遠征と明の征伐に従軍した。
 
父として明を敬っていたはずなのに、新しい父を迎えた途端、明に対して残酷無情な態度を取った。
 
3回にわたる明征伐では、朝鮮軍は満州人を驚嘆させるほど明人を虐殺した。満州八旗軍はかなり軍紀正しい軍隊であったが、盟友のモンゴル八旗軍の朝鮮蹂躙には、かなり悩まされていた。
 
しかし、朝鮮軍が満州人の軍門に下り清軍に召集されると、今度は朝鮮軍が旧宗主国の明征伐を通して漢人への凄まじい虐殺と略奪を行ったのだ。
 
清の将軍である龍骨大が率いた、明征伐についての朝鮮兵行状の記録には次のようなものがある。
 
「韓兵ことに虐殺を極めたり。漢民号呼して曰く、天朝、朝鮮において何の仇があろうか。その恩に背いて、ここに至るかと…」
 (恒屋益服著「朝鮮開化史」博文館、明治34年) 

★★★

明は300年近く朝鮮を保護し、李氏朝鮮は宗主国である明から国号を下賜(かし)された。

しかし、いざ明が弱勢になると、朝鮮はすぐさま清に乗り換えて逆に明を逆襲し、明人を虐殺した。

日韓合邦後、満州でもっとも暴れたのは朝鮮人である。万宝山事件は、朝鮮人と中国人の水をめぐる争いから起こり、朝鮮半島におけるシナ人虐殺にまで発展した。満州では、朝鮮人は「二鬼子」(註)としてシナ人から恐れられ嫌われていた。 

(註)二鬼子(アーグイズ、中: èr guǐzi、朝: 얼구이쯔)
中国大陸が日本の支配下に置かれていた時期に、満州に住んでいた中国人が朝鮮人に対して用いた中国語の蔑称。

(参考)ウィキペディア 万宝山事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E5%AE%9D%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

                    
外国を侵略したことが一度もないという自慢話も大嘘である。

北方諸民族は、たいてい一度は長城を越えて京師(けいし)(註)を占領、あるいは中国を征服して王朝をつくったことがあった。

(註)京師(けいし)
 (「京」は大、「師」は衆。大衆の居住する所の意) 東アジアなど漢字文化圏で帝王の都のこと。帝都。


唯一それをしなかったのが韓人である。韓人にとってはくやしい史実かもしれないが、カが及ばなかったというのが本当のところだろう。それでも、外国への侵略をまったく行わなかったわけではない。

 

★★★

 

新羅(しらぎ)時代に新羅人はよく日本列島を侵寇していた。もしそれが侵略ではないとしても、 韓国の教科書では、元寇を日本「征伐」として教えている。

そのとき日本を侵略したのは高麗(こうらい)軍だった。 高麗軍が壱岐対馬を襲ったときは、島民を虐殺して200人の童男童女を強制連行し、忠烈王と公主に献上した。

高麗軍への評価には尾ヒレがつき、モンゴル軍に抵抗したことで日本が征伐されるのを救った。日本が無事だったのは、高麗軍の働きがあったからだと嘘の歴史を教えている。
 
高麗朝にはユンクアンの女真征伐や李朝時代の「応永の外寇」(1419年)のように対外侵略もあったが、李朝では朝鮮人の満州人いじめから起こった満州人とモンゴル人の逆襲や復仇(ふっきゅう)のための戦争である「丙子胡乱」(へいしのらん)で、朝鮮は清の属国になった。
 
しかしその後も、満州人とともに2回の羅禅(ロシア)遠征や三回の明への侵略を行った。後述するが、明人を大量虐殺したのは、朝鮮軍だったのだ。
 1999 黄文雄 徳間書店

 

★★★ 

「どこまでいっても禿山と赤土ばかりで、草も全て撚料のために刈り取られている」

「山地が痩せていて、昨年も沢山の餓死者が出た」、


「ここは退屈極まりない土地で、山は禿山、植生は殆ど見られない」

「朝鮮人たちは土地が痩せていると不満を訴えている。樹木は殆ど皆無で、燃料には藁と草が使われる」

「朝鮮旅行記」ペ・エム・ジェロトケヴィイチ 1885年 
 
 ★★★ 
 
「韓国内地を旅行すれば、路傍や街路中に累々たる黄金の花(糞)が場所も嫌わず狼藉(ろうぜき)(註)と咲き乱れて居て、足の踏み場もなく、潔癖者は一見其不潔と臭気に驚くのだ。

(註)狼藉(ろうぜき)
乱暴なふるまい。物が乱雑に散らかっている様子。
中国の通史『史記 滑稽列伝』に由来する漢語である。「藉」には「敷く」や「踏む」「雑」などの意味があり、狼藉はオオカミが寝るために敷いた草の乱れた様子から、物が散らかっている様子を意味した。


 現にこの国の中央都会の地たる京城(現在のソウル)の如き、一名を真の帝都と綽名(あだな)されて居る程で、至る所人糞あるいは牛馬糞を見ざる無で、粉々たる臭気は鼻を襲い眼を顰める者とてない。

 そこで京城市内を流れて居る川の如き各戸より、排泄する糞尿を混じ、この水は一種の黄色を帯び、ドロドロになって居るなど、実に眼もあてられぬ光景で洗濯などに使って居る。なんと鼻持ちならぬ話ではないか。

 毎年夏になると伝染病が流行し、その伝染病に罹る患者の多くは韓人で、非常なる大流行を極め何千人を驚かすは珍しくない」
        細井肇 「漢城の風雪と名士」
 
★★★ 

朝鮮では、飢饉が頻繁にみられる。最も貧しい階級の人びとにとって、それは年に2度、定期的に訪れる。まず、大麦の収穫を待つあいだの春窮(しゅんきゅう)期(註)6、7月、次いで粟類の取り入れ前の9、10月である。

(註)春窮(しゅんきゅう)
前年に収穫した主食品が欠乏してくることで食料不足になりがちだった4月から5月にかけての春の端境期(晩春)期間。 朝鮮半島では草根樹皮を食べて延命しているような、より深刻な状態を意味する。


金銭は、法外な利子付きでしか借りられず、わずかばかりの貯えも使い果たした不幸な人びとは、米やその他の穀物を買うことすらできない。
彼らに残された生きる糧といえば、ただ塩水で煮つめたわずかばかりの草木である。
       「朝鮮事情」 シャルル・ダレ
★★★
 
 私は、十分に耕せそうな土地をほったらかしにしていながらも、飢えに苦しむ農民のさまが理解できなかった。「どうしてそれらの土地を耕さないのか?」と聞いたところ、「耕せば耕すほど、税をとられるだけのことだ」という返事があった。

「朝鮮の悲劇」カナダ人ジャーナリスト マッケンジー 
 
★★★ 

 

(釜山にて)僕の目に映じたる韓人(朝鮮人)の労働者はすこぶるのん気至極なるものにして餒ゆれば(うゆれば=食糧がなくなって腹がへる)すなわち起って労働に従事し、わずか一日の口腹を肥やせばすなわち家に帰って眠らんことを思う。

物を蓄うるの念もなく、自己の情欲を改良するの希望もなく、ほとんど豚小屋にひとしき汚穢(おわい)なる家に蟄居(ちっきょ)し、その固陋(ころう)の風習を守りて少しも改むることを知らずという。
 
僕ひとたび釜山の地を踏んで実にただちに韓国経営の容易の業にあらざるを知るなり。(明治37(1904)年5月5日)

 

「韓山紀行」 山路愛山 

「近現代史のなかの日本と朝鮮」東京書籍より 
                  
 ★★★
 
「両斑」は「人の目に労働と映るなら、出来る限りそれから遠ざかろうとする。自分の手で衣服を着てはいけないし、煙草の火も自分で点けてはならない。そばに手伝ってくれる場合は別として、馬の鞍に自分でのぼるべきでない」    
    アーソン・グレブスト「悲劇の朝鮮」

 

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以下は、同じく外国人が見たコリアン記事。


韓国(12) 日韓併合前の李氏朝鮮時代:バード旅行記①
2020-07-09

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12609705233.html

韓国(13) 朝鮮人は人種の滓(カス):バード旅行記
2020-07-09 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12609629770.html

韓国(17) 日韓併合前後:世界の日本評価
2020-09-23 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12626845876.html

 

韓国(15) 「たかり」と「騙し」:東亜日報
2020-07-30 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12609894150.html

 

韓国(8)ユキヒョウ(雪豹)にみる日本人の過ち
2020-05-15 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12597236523.html
 

韓国(4)あゝ, 震撼の韓国軍!(아, 진감 한국군!)
2020-01-24 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12569331993.html

 

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