ポーランドとの実話『ワルシャワの秋』
関西テレビ放送開局45周年記念ドラマ。

2003年12月23日放送

(前回記事)

日本の心(15) 大和心とポーランド魂(その1)
2020-06-01 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12601113614.html

 

(続編)

■7.日本大使館が庇護したレジスタンス活動■

1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運動参加を決定した。イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ部隊と愛称された。
    
そして本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤児たち、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加し、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがった。
    
ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、イエジキ部隊にもナチス当局の監視の目が光り始めた。

 

イエジキ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、多数のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。

 

急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院は日本帝国大使館が保護していることを強調し、孤児院院長を兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たちこのドイツ人たちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼んだ。
    
イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱すると、ドイツ兵たちは呆気にとられ、「大変失礼しました」といって直ちに引き上げた。
    
当時日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日本大使館には一目も二目も置かざるを得ない。日本大使館は、この三国同盟を最大限に活用して、イエジキ部隊を幾度となく庇護したのである。

■8.長年の感謝の気持ちをお伝えできれば■

 

1995年10月、兵藤長雄ポーランド大使は、8名の孤児を公邸に招待した。皆80歳以上の高齢で、一人のご婦人は体の衰弱が激しく、お孫さんに付き添われてやっとのことで公邸にたどりついた。
    
私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢でした。そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。しかしもうそれは叶えられません。
        
しかし、大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、這ってでも、伺いたいと思いました。

 

何故って、ここは小さな日本の領土だって聞きましたもの。今日、日本の方に私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残すことはありません。
        
と、その老婦人は感涙に咽んだ。孤児たちは70年前以上の日本での出来事をよく覚えていて、別の一人は、日本の絵はがきを貼ったアルバムと、見知らぬ日本人から送られた扇を、今まで肌身離さずに持っていた、と大使に見せた。

 

同様に離日時に送られた布地の帽子、聖母マリア像の描かれたお守り札など、それぞれが大切な宝物としているものを見せあった。

■9.われわれは何時までも恩を忘れない国民である■

シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が届けられている。

 

そのひとつ、極東委員会の当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」と題した礼状の中で次のように述べている。
    
日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。

 

しかも、わが不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない。・・・

 

われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとってポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一度や二度ではない。しばしばあった。・・・       

ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわれは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。

 

日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られている。・・・
        
ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることを伝えしたい。
        
■10.大和心とポーランド魂■

 

「何時までも恩を忘れない国民である」との言葉は、阪神大震災の後に、実証された。96年夏に被災児30名がポーランドに招かれ、3週間、各地で歓待を受けた。

 

   ☆

 

【資料1】サムライの国・ヤポンスカ ■□■□■□■■□■□■□■

平成7(1995)年、両国の間を奔走してポーランドのワルシャワに日本の小中学生の被災児を招待したのは、日本のポーランド大使館に勤務していたフィリペック博士である。

フィリペックさんの父親は、第2次世界大戦中、彼が3歳の時にドイツ占領下のポーランドでゲシュタポ(秘密警察)に捕まって強制収容所に送られ、還らぬ人となった。


その後、彼はおばあさんに育てられたが、よくこう聞かされた。

「お父さんのように強くなりたかったら、ジジュツ(柔術)をやりなさい。ヤポンスカ(日本)に伝わるレスリングよ。

ヨーロッパの果て、そのまた果てのシベリアの向こうにね、ヤポンスカ(日本)という東洋の小さな島国があるの。


その小さな国が、大きくて強いロシアと戦争をして、やっつけたんだもの。

ジジュツ(柔術)のせいかどうかはしらないけど、ヤポンスカ(日本)はサムライの国でね。サムライ魂を持っているんだ」


これがきっかけとなってフィリペックさんは日本語を学び、両国の友好のために働こうと決意したのである。


   ☆    


世話をした一人のポーランド夫人が語った所では、一人の男の子が片時もリュックを背から離さないのを見て理由を聞くと、震災で一瞬の内に親も兄弟も亡くし、家も丸焼けになってしまったという。

 

焼け跡から見つかった家族の遺品をリュックにつめ、片時も手放さないのだと知った時には、この婦人は不憫(ふびん)で涙が止まらなかった、という。
 

震災孤児が帰国するお別れパーティには、4名のシベリア孤児が出席した。

 

 

歩行もままならない高齢者ばかりであるが、「75年前の自分たちを思い出させる可哀想な日本の子どもたちがポーランドに来たからには、是非、彼らにシベリア孤児救済の話を聞かせたい」と無理をおしてやってこられた。
    
4名のシベリア孤児が涙ながらに薔薇の花を、震災孤児一人一人に手渡した時には、会場は万雷の拍手に包まれた。

 

75年前の我々の父祖が「地球の反対側」から来たシベリア孤児たちを慈しんだ大和心に、恩を決して忘れないポーランド魂がお返しをしたのである。

 

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(引用並びに画像借用先)
○ 道徳「大和心とポーランド魂」2-(6)感謝の心
「大和心とポーランド魂~恩を忘れない」国際社会の友情

http://jdjapany.blog.fc2.com/blog-entry-16.html?sp
『平成23年の夏休み、岩手県と宮城県の中・高校生30名がポーランドに招かれ、約1ヶ月滞在しました。
「絆の架け橋プログラム」と言います。

 

○ 日本はどんなによい国か7 

ポーランドとの秘められた関係7

https://blog.goo.ne.jp/arashigeru3/e/c251494e76736312a777bfd0d9b09df8

 

(本記事 拙稿元文)

拙稿『GHQが恐れた大和心』 2015/05/15

 

日本の心(32) 
駐日仏大使クローデルの讃える日本
2023-11-03 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12826730895.html

 

(恩を仇で返す民族)

韓国(8)ユキヒョウ(雪豹)にみる日本人の過ち
2020-05-15 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12597236523.html