「ハムレットQ1」「さかさまのテミス」に続いての追記版です。
こちらについては予想してた方もいたかも、、、、
最後にバンドの「ベース」について、取って付けたような部分があったからなぁ(^^;)
開演早々のバンドのメンバー紹介で、バンドに付き物のベースがいない! って、普通違和感を感じたんだよね。
劇中でもそんな話題が出てたし、、「やっぱ変だと思うよね!!」って、思いっきり頷いていたんだよね。
確かに、キーボードは、設定でベースの音が出せて、「キーボードがベース兼任」と言われれば否定できないんだよね。
それでも、違和感は拭い切れないよねぇ。。。。
一方、史実として本能寺の焼け跡で信長の遺体は見付からなかった。。。というのは本当の話しらしい。
ってことは、物語としては「逃げ延びて姿を変えて、その後も生きていた」ってことにしても、別におかしくはないよね。
このお話の敵側である明智光秀は山崎の戦の後、生き延びて天海僧正になって家康を助けったって話は現にあるんだから、信長の方にもそんな話があっていい、、、かもしれない。
ただ、信長ほどの人物が、生き延びたとしたら、その後歴史に残るような活動を一切しなかったというのは考えにくい。。。
とすれば、、、全然他の場所で生き延びたってことは考えられないか。。。。。
その「別の場所」が、「空間的な」ではなく「時間的な」別の場所ってことも、お話としては面白い。
例えば、、、維新の偉人の一人として、、、、とか、、、ありそうじゃないか!?
それとも、もっと後の時代で、、、、とか。
このお芝居のカギになるのは、とあるロックバンド。
あるライブまではベース不在だったのが、ある日突然ベーシストが加わったとしても、普通に考えればあり得る話で、むしろそれまでいなかったのが不思議なぐらい。
開演直後に私が感じた、ベーシスト不在という違和感は、物語の終盤に入るころには、こうなるんだろうなぁ、という予感は確信に変わったよね。
バンドメンバーと何人かの観客は、本能寺でライブをし、そして帰る!
そして帰るとき、来た時と同じようにバンドメンバー以外もともに「飛ぶ」ことになるんだろう。
そして、ライブ演奏した場所に一緒にいるのは、来た時のメンバーと、他には、幻術士ともう一人だけ。。。。
・・・焼け跡の本能寺で遺体は見付からない訳だよね。
だけど、その一人は、一介のベーシストで満足できたのだろうか???
・・・もしかしたら、これから「一介」のから「世界を股にかけて活動する」ベーシストになるのかもしれないな。
あの男なら、そのぐらいはやってのけるだろう!
と、まぁ、、、信長について書いてきたけど、私が今日書きたいのは、、、ここまでが入口なんです。
ここからが本題!
一説によると元亀3年=1572年、出雲の産まれ。
天正10年=1582年には10歳の少女だったらしい。
出雲大社の巫女になり諸国をめぐり出雲大社の勧進のために舞ったようだが、、、
それは更に10年以上後のことらしく、10歳のころに巫女になっていたかは不明。
だが、記録上は天正9年(1581年)9月9日「ヤヤコ踊」というのを舞ったという記録がもっとも古い記録らしく、巫女になっていた可能性はあるように思える。
「ヤヤコ踊」とは阿国が歌舞伎舞を始めるまに舞っていた踊りらしい。
しかし、阿国の舞が話題になったのは勧進による諸国巡りの際らしいので、10歳のころ、舞が話題になって信長に召し出されていたとは考えにくい。
今と違って情報が伝わりにくい世の中だったからなぁ。。。。
阿国が信長と出会っていたかどうかは、ここで考察することでもないような気がするので。。。そこんとこは割愛!
阿国は慶長8年=1603年に今日で「かぶき踊」を舞って、後に「歌舞伎」となるものの原型を始めたということらしい。
「後に歌舞伎」になる、、、というところがポイントでしょう。
今の「歌舞伎」は男性のみによる芸能ですよね。
阿国は女性ですから、、、、「かぶき踊」は「歌舞伎」ではなく、「歌舞伎の原型」ではあっても、、、、ね。
江戸初期には「おんなかぶき」と呼ばれていたようです。
では、阿国が始めた「かぶき踊」とはどんなものだったのでしょうか?
「かぶき踊」は、女芸人が派手な衣装を着て大きな太刀をもって街を歩いていた男の姿を演じ、茶屋遊びなどの様子を踊ったもののようです。
当時の公演は、河原のような開けた場所とか、神社の境内とかに仮説の舞台をしつらえ出し物を演じたようです。
公演が終われば仮説の舞台は撤去されてしまったようですね。
阿国は「かぶき踊」が人気が出てくると常設の舞台をしつらえたりもしたようですが、これは特別な状況だったんでしょうね。
その後、江戸へも進出していったようです。
では、「かぶき踊」が成立する切っ掛けは何かあったのでしょうか?
阿国は、これまでに見たことのないような、強烈にインパクトのある経験をしたのでしょうか?
まぁ、、、ここで今回のお芝居と繋がるんですが。。。。
この経験が、このお芝居のようなことだったとしても面白いですよね。
当時の人々にとってはこの世のものではないというような経験ですよね。
まぁ、、、百歩譲ったとしても、電気が使えるとは思えませんけどね(^^;)
そんなことがあったら面白いな!という意味ではね(^^)/
もう一人書いておきたいんですが、、、、
正直なところよく分からない人なんですよね。
信長の正室、濃姫=歸蝶(この舞台では)です。
このお話のように本能寺で信長と共に亡くなったという説もありますが、、、
歸蝶に関する記録で分かるのは1568~9年ぐらいまでで、それ以降についてはほぼ記録はないそうです。
物語としては、本能寺で共に、、、、っていうほうが劇的ではありますが、私の想像では1570年前後に信長とは離縁していたのではないかと思います。
もちろん確証はないんですけど、、、、
元々は歸蝶の父である斎藤道三が織田家と結ぶために娘の歸蝶を信長に嫁がせて、斎藤道三も織田家も勢力的にメリットがあったが、道三が亡くなったことで、織田家の方にメリットがなくなったため、信長の方から離縁したのではないかと思います。
歸蝶は明智家との関係もあり、信長が家臣の明智の縁者と縁を結ぶことにメリットを感じなかったのではないかとの想像もできます。
実際はどうだったんでしょうかねぇ。。。。。
歸蝶がどういう女性だったのか良く分かっていないよね。
物語よっては道三に薫陶されて、忍びのようなこともやっていたというような話もあるし、、、、
それもあまりなさそうではあるけど、、、、
信長の片腕になるような才があれば、もっと記録に残ったかもしれないし、、、
実際にはいろいろ記録があったのに歴史の時の流れの中に消失してしまったのかもしれないし、、、
実際に普通の女性過ぎて信長にとって存在価値が無かったのかもしれない。。。
今ならいろいろなチャンスがあるけど、当時は特に若いころには親が使う駒でしかなかったりもするからなぁ。。。。
嫁いだ後に嫁ぎ先で才能を開花させることもないではなかったようですが、、、現実には周りの理解がないと難しかったでしょうね。
歴史上の人物としては、、、同じ時代を生きた「お市の方=信長の妹」のように波乱万丈の生涯をおくり記録も残ってる人もいたんですから、、濃姫はそういう意味では「普通の女性」だったのかもしれませんね。
・・・まぁ、、個人的には今日とり上げた3人の中では一番興味を惹かれる人なんですけどね。。。。
とりとめのないことを長々と書いてきましたが、、、
これだけ書いて、ちょっと満足した気がします!
本当に楽しく面白いお芝居でした!!
余談ですが。。。。。
歸蝶を主人公にお芝居できませんかね。
信長に嫁ぐところから初めて、父道三が亡くなった後に離縁され、明智側に返される物語。
返された後、実は政治的な才能を開花させ、信長の横暴(という訳ではないが)に対し疑問を感じるようになり、、、
信長の先見性・将来性と当時の社会の常識を大きく外れてしまうところに悩み、やむを得ず光秀に信長を討つことを勧めるようになる。
光秀も当時の時代の状況から信長を討つことを決心し、本能寺の変が起きる。
その後、光秀と朝廷・公家社会との折り合いが付かず、また山崎の戦で光秀が秀吉に敗れたこともあって、歸蝶は絶望し出家する(本当にしたかは分からんけど)
後に同じように出家した天海僧正(光秀か??)とコンタクトをとり、江戸の太平の世造りに貢献し、生涯を終える。。。
みたいな感じ。。。。面白そうだと思うんだけどなぁ。。。。