週末ともなれば、ケーブルテレビでやっている「寅さん」を欠かさず観ているうちのダンナ。もう何回も観ているのに、何度も観てる……。この人、だいじょうぶなのだろうか?これじゃ真性ご隠居ではないか。
やることいっぱいのアタシ、つき合ってられません、と家の内外バタバタ行き来しながらも、つい、ウッカリ、足を止めて観てしまったりして。
今回はゲストに俵万智さんが出ていた。「ちょっとちょっとこれ見て」と、ダンナがわざわざ巻き戻して見せてくれた。俵万智さんが一首詠んでいる。
――自己責任 非正規雇用 生産性 寅さんだったらなんて言うかな――
「どう、寅さん、なんて言うと思う?」とダンナが聞くから、思わず、
「そりゃ、『それを言っちゃあ、おしめえよ』でしょ」
と言ったが、
どうなんだろう?
生産性上がって、それで幸せなのかい? あんた、心はつらくないのかい?
さくら、寅やの人たちも、なんて言うかな、と想像をめぐらせてしまった。
今回の寅さんは、秋吉久美子ヒロインの回。数ある寅さんシリーズの中でも、名作だと思う。最後のほう、寅さんが柴又を去るシーンを足を止めてついうっかりまた観てしまった。「お兄ちゃん、もう行っちゃうの?」 のいつものシーンだ。じゃあな、去っていく寅さん。さくらは、寅さんがサイフを忘れているのに気づく。ぜんぜんお金の入っていないサイフ。さくらはそっとお札を何枚かしのばせ、「お兄ちゃんお財布忘れてるわよ」と追いかけて持たせ、柴又の駅まで、みつおに見送りに行くように頼む。駅まで送ってくれた甥っ子に、寅さんは腹巻からさっとくだんの財布を取り出し、「アレッ」と言いながらもお札を一枚取り出して渡す。「これで参考書でも買えよ」
お金のない身内に、さっとお札を渡す。寅さんの中にはよく出てくるシーンだ。今の私たちは、お金なんかそうそう渡しちゃいけない。お金を渡したら甘やかしになる。そんなふうに思っている。「努力の足らない人に、情けをかけてはいけない」と思っている。
でもそれは、お金を渡したくないというケチくさい気持ちの言い訳でしかないんじゃないだろうか。
自分もかつかつで苦しいからではない、自分はたっぷりあるのに、人にはあげたくない。努力していない人(と断定してるだけ)にはあげる必要はない。人は、金持ちになればなるほど、ケチになるのだ。
沢村貞子さんのエッセイ『私の台所』に、「松の葉」という下町浅草の習慣のことが書いてある。
贈りものは難しい。だから、気持ちだけ、懐具合によってわずかに現金をわたす。その袋に小さく、「松の葉」と書いたそうだ。そのように、下町ではわずかな現金をやりとりする習慣があったという。
沢村さんのお母さんは、たしないへそくりをわずかずつでも、都合して、祝儀袋に入れて、出入りの人たちに渡していたそうだ。
「みんな苦しい人たちだからね、すこしずつでも余裕のあるものは、足りない方へ渡すんだよ、そうしないと、流れが悪くなるからね」
沢村さんは文章の中で、今では世間が「なんとなく豊かになり」「みんなが中流意識を持って」現金のやりとりには気まずさが残るようになってしまった、と書いている。
どうしてだろう?
いつから、だれが、お金を人に渡しちゃいけないと言い始めたんだろう? お金ではなく、商品を買って贈れと言い始めたんだろう? いつ、だれがお金を贈ったら、半分のお金で商品を買って返せと言い始めたんだろう?
寅さんの映画の中には、下町のお金のやり取りのようすがよく出てくる。寅さんが祝儀袋にお金を入れて(入っていないこともあるが)もったいぶって渡す。おいちゃんもおばちゃんも寅が一人前になったと喜ぶ。あんなシーンが日本の下町中には日常的にあって、沢村貞子さんのお母さんが言うように、お金がさらさらとうまく「流れ」ていたのかもしれない。
夏休み、遠方に出かける次男にガソリン代と小遣いを渡しながら、いいのかな、と微妙に不安になっていた。「大学生には定期代以外渡しちゃダメよ」「あんまり小遣いをあげると、某有名女優のバカ息子みたいになるよ」「若い人を甘やかしちゃダメ」そんなことを言われたりして、気になっていた。でも、さくらだって、お金をそっとわたしてる。いつもさくらに助けてもらっているから、寅さんもみつおに小遣いを渡そうとするのだ。考えてみたら、定職を持っていない学生がお金に困るのは当たり前だ。
「あのさ、小遣いとガソリン代、渡してよかったのかな、って気になってたけど、寅さん観て、渡してよかったんだって思ったよ」とダンナに言うと、
「あたりまえだろ? 子どもや若い人に金を渡さないで、いったいどこで使うんだ。そのために俺たち働いてるんだろ?」
って。
そうだ、そうだよね。それがあたりまえのことなんだ。
ご隠居、いいこと言うねぇ。
