人間は誰しも「自由」でいたい。
何よりも自由を尊重してあげることが、人間としてこの世に生まれた甲斐のある、大事な要素だと思う。
髪型をそろそろ考えないと生え際が不自然に見えることに愕然。
その思いを、禅僧である南直哉(みなみ じきさい)師の文章でコテンパンにつぶされた。
「自分のしたいこと」をすることがイイことであり、それがいわゆる「自由」という意味だと早合点してもらっては困るのだという。
特に、子どもに対する親の多くはこの罠にはまってしまい、ある種の教育の放棄をしてしまうのだと。
自分に納得のいく理由があり、他人を承知させるだけの背景があって初めて「自由」は行使されるわけで、間違っても「本人の自由意志」がその世界に入れるわけではないのだ。
「したいことをする」。
したいことをさせてほしい、というのは「欲望」でしかない。
したいことをするのではなく
「自分が信じることに従い、まさにそれをなす」
それこそが本当の自由ではないか、と。
戦後民主主義が浸透されたのはいいことだが、それが行き過ぎて
学校教育の現場は人権尊重が、いつの間にか「無条件な自由」になり、
平和ボケした僕たちは、(親の世代がしたいことも出来なかったという後悔と時代背景もあり)、自由を認める設定がどんどん下っていった。
それを南師は、
「自由の切り下げ」と呼ぶ。
好きに生きて自己責任だから、といって無責任な教育をする「自由」。
儲ける手段も人格も結果こそすべてという「成功の自由」。
べき論はどこかに風化してしまい、「選択の自由」だけが一人歩きしたようだ。
もちろん、「したいことをする」ことが良質な自由でないことが分かっている人も多いが、
「何をしたいのか分からない」という若者(私もそうだったのかもしれない)を大量に生産してしまった学校教育と、親の生き様。
だから声を高らかに「べき」を主張する人間に安易に引っ張られていく。最後にはエリートが尊師についていくような世になってしまった。
親を持つ年になって、自由の価値観を考えてこなかったのは、重要な犯罪かも知れないとこの南師の文章を読んでいまさらながら自分の生き方の思い返しと、教育の反省を考えるのだ。
「これは何も若者だけでない、大人も同じだ。
切り下げられた「自由」の前で思考を停止して、
自ら「べき」を考える手間を省き
子どもの前で「逃げ」を打ち
「会社人間」へと「洗脳」されたのだ。」 (南 直哉)
それでは、我われは今まさにどうしたらいいのだろうか。
「べき」を真剣に考える大人になるといい。
その大人の生き方は、かならずや子どもの印象に残る。
ひいてはそれが、「べき」を見つけられる子どもの力を育てる。
そう締めくくってあった。
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