大っ嫌いだった主治医が作ってくれた、あーちゃんの初節句の「おひなさま」が今も私の宝物。 | ダウン症児のママはシンガーソングライター MIMOの「ギフト」な日々

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妊娠中に重症妊娠悪阻で入院、妊娠7ヶ月まで点滴をしていた。妊娠8ヶ月の検診で心拍が停止しており、緊急帝王切開で早産、1000g足らずの超未熟児の娘を出産。すぐに娘だけNICUのある小児病院に搬送。動脈管開存症、その他の病気がひとつずつ完治していった喜びもつかの間、生後3週間でダウン症の告知をされた。

 

 

医師からの告知は、ありきたりな説明が、淡々と語られただけだった。ゆっくりと成長し、合併症を発症するリスクが大きいこと。将来は特殊学級、養護学校という選択肢があること。後は何を語られていたかは覚えていない。ただ覚えているのは、その小さな身体中に繋がれた、たくさんのチューブを今すぐ引き抜いて、娘をこの胸に抱きしめて、窓から飛び降りようと思ったことだけだ。

 

 

悲嘆に暮れている暇もなく、小児病院のNICUでの子育てが始まる。娘の担当医は当初、愛想のない人に思えた。言葉のあまりの温かみの無さに「なぜこの人が小児科を志したのか?」と疑問になるほどだった。でも毎日病院に通っていると、いろんなことが見えて来るようになった。小児科の医師不足による過重労働。泊まり込みの日が続く先生の頭は、いつも寝癖が付いていた。

 

 

心身ともに限界の中、先生も次から次へと運ばれてくる新生児を、朝も夜も無く、全力で懸命に救命していた。そして紛れもなく、その中に私の娘もいたのだ。ありがたかった‥‥。そして元気に大きくなり、退院をしていく他の家の子供達を、愛おしそうに抱き上げて、記念写真を撮って送り出す、その先生の笑顔は本物だった。あぁ、やっぱりこの人も子供が好きで小児科を志したのだろうなぁと。

 

 

意を決した私は、赤裸々な想いを手紙にした。先生への感謝の気持ち、そして障がい児を産んでしまった私の苦悩、また、こんなことを先生にされると傷つくのだという気持ちを、正直に書いて渡した。封筒の中には「天国の特別な子供」の詩も入れた。「もしも悩めるご夫婦がいたなら、私が救われたこの詩を、先生から教えてあげてください。」と。

 

 

次の日、ドキドキしながら病院に行くと「お母さん、手紙ありがとね。」と、先生は少しフレンドリーになった。それから冗談と本音を言い合えるようになった。その後数回、私は先生に「意見書」という名のラブレターを渡した。そのたびに先生はドキドキしたという。笑

 

 

 

娘の初節句は病院で迎えた。病院に行くと寝不足の先生が、時間が無い中で一生懸命作ってくれた「折り紙のひな飾り」が、私と病院との「やり取りノート」に貼り付けてあった。

 

 

 

「Dr.◯◯が心をこめて作成しました。

 来年はおうちで楽しいひな祭りですね。」

 

看護師さんからのメッセージだった。温かくて涙が出た。この雛飾りを私は一生忘れられない。そしてこれからどんなに豪華な雛飾りに出会おうとも、これに勝るものなんてあるものか。あーちゃんの命を救ってくれた恩人の、手作りの初節句のお祝いだったのだから。

 

 

退院の日、先生はとびきりの笑顔で娘を抱き抱えてくれた。そして「お母さん、普通に育てればいいから。少しだけ、注意深く見ててあげてね。」それが先生からの贈る言葉だった。体温のある言葉だった。大っ嫌いだった主治医は、一生忘れられらない「大好きな人」に変わっていた。

 

 

今でもあの頃のことを思い出すと「救われた我が子の命」がありがたすぎて、涙が出ることがある。

 

先生、あの頃、どんな厳しい状況でも迷うことなく、あーちゃんを助け続けてくれて、本当にありがとう。あなたが救ってくれた命は、私たち家族にとって今では「なくてはならない宝物」になりました。先生が今でも、私のような母親の理解者であり、心に寄り添える医師であり続けてくれることを、私はいつも心から祈ってます‥‥。

 

そしてどうか、ご自分の身体も労って‥‥。いつまでも元気で「小さな命」を救い続けてくださいね。

 

このノートを開き、頂いた雛飾りを眺めながらそう願うのが、私のひな祭りの恒例行事となっているのだった。

 

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