フェルナンデス物語 “少年時代〜モロゾフ師事” | みみゆんの羽生結弦選手全力応援ブログ♡オタ活 羽生くんの素晴らしさを伝えたい⭐︎

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時々ハビエル・フェルナンデス元スペイン代表の情報も書いてましたww
翻訳、オタ活雑多ブログです



Spanish Player GO ♯20  2015年3月号 

“Bóreas asalta el Olimpo del hielo.”
(ボレアス、リンクのオリンポス神を襲撃)

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エピローグ編からの続き


少年“神”の困難なプロジェクト


この新しい神の伝説は長年前に誕生していた。
しかし伝説が最初の書き物を始めてからまだ6年程度しか経っていない。

彼の道中に置かれた、未開の資質が詰まったビンのふたを開ける手掛かりは姉のラウラだった。
彼の資質はゆっくりと、少しずつ磨かれていった。

ハビエルのなかにはスケートの能力の源泉があった。
これを超える能力はおそらく如何なるものも存在しなかった。

最初のコーチはカロリーナ・サンスとイバン・サエス。
怠け者で手に負えない“半神のプロジェクト”を練るのは生半可なことではなかった。

悪ふざけ好きで落ち着きがない。
当時のあだ名は“ラガルティハ(小さいトカゲ)”
その振る舞いにはさまざまな罰が与えられた。

とどまるところを知らない能弁ぶりと抑えきれないほどのエネルギー。
だがトレーニングが身を結びはじめると、いつもの悪ふざけも鳴りを潜めた。

マドリッドのエル・クルブ・イグルーとエル・クルブ・シルクスで最初の“プロジェクト”が画策される。
彼のジャンプ力はまるで“仔馬”のようだった。マドリッド時代はこの偉大な特技へ磨きをかけた。

一方学業の方は遅れをとっていた。猛勉強は得意な方ではなかった。
その激しい情熱を傾ける対象。
彼は努力を一点に集中させることを選んだ。

この時現れたのがニコライ・モロゾフだ。
後進へオリンピックや世界選手権の優勝をもたらした人物。
ハビエルの才能に驚き指導を申し出たのだった。
紛れもなくハビエルのスケーター人生の方向をきめた転換点であり、決断だった。

彼の人生は複雑な光とめまぐるしい起伏に富んだものになる。
夢の実現へは急速に近づいていったが、故郷の家と家族からは遠く引き離された。

他に選択の余地は無かった。
スケート上達の為にもスペインを出る必要があったからだ。
リンクが15にも満たない国。能力の開発には不十分だった。

ハビエルはモロゾフと共にニュージャージーへ転居した。
当時17歳。英語は一言も分からないまま、無縁の異国と異文化の地で将来の基盤をゼロから作りあげていった。

新生活への順応は易しいものではなかった。
郷愁と不安が彼を苦しませた。
だが成功への強い意思で危機を乗り越えていった。

スペインのミケル・ガルシアコーチも一緒だったが、フェルナンデスは孤独を選びアパートを借りた。


アメリカ生活の孤独


突然、この冷たい空間の中で母親が発揮する快適さへの慣れに気づいた。
空虚感とガランとした部屋。
故国の家族を思い出さずにはいられなかった。
真夜中に電気のない部屋で、やった事もない家具の組み立て。
全ての事を少しづつ1人で始めていった。

幾つかの疑問で彼は悩んでいた。
トレーニングが自己練習中心であること。
初めてのこの日常を生き延びていくことが出来るのかどうか。

その当時、頭の中ではスケートテクニックの新たな分野への真剣な挑戦を思い描いていた。
それは表彰台へのぼり、祖国の国歌を聞くためだった。

アメリカ行きは成功へ連なるハイウェイの通行パスだった。
自分に相応しい場所であり適切な指導を得られるところだと、少なくとも当初はそう信じていた。

モロゾフの振る“タクト”により、彼の技術は洗練され安定感を得られた。
彼の実験を行う特別な“ラボ”。
ハッケンサックのリンクがハビエルの進化の目撃者だった。

2010年はそのポテンシャルを世界へ提示した年となった。
それは他でもないカナダのバンクーバーオリンピックだった。
最終的に14位だったが、その順位以上に彼の存在自体がスペインにとって歴史的かつ画期的なものだった。

冬季オリンピックで男子シングルスケート代表は半世紀以上いなかった。
最後の前例は1956年に行われたイタリア・コルティナダンペッツォのダリオ・ビジャルバまでの遡らなければならない。

しかしハビエルの野望は遥かそれ以上だった。そして向上の余地は多岐に渡っていた。

2011年のモスクワ世界選手権では10位。
我が国のフィギュアスケート史にその名を刻んだ。
これまで世界選手権に参加したスペイン選手の中で最高の記録だった。
彼の“獲物を入れる革袋”の中では他と異なる結果のはずだった。


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