とことん、毎日、眠い・・・zzz

 

今日は、二宮尊徳の偉業のお勉強なので、写真が少なく文章とリンクが多くて見にくいかもです。興味のない方は、スルーしてね♬

 

「二宮尊徳」って結局なにした人???真顔(←無知)

 

と、のえまろと同じような疑問をもっている人は、読んで損はないので、どぞ。

 

 

2024年9月22日(日)

 

にやり『地元パトロール!』

 

と、今度は、桜町陣屋の隣の隣、二宮尊徳資料館に行ってみる。

 

 

二宮金次郎と言えば、勤勉家の象徴で、各学校にも銅像があるけど、特に栃木県は、金次郎と縁が濃い。のえまろの知っている限り、ゆかりの地が県内に2か所ある。

 

 

①栃木県・旧二宮町(現・真岡市)

「道の駅にのみや」のシンボルであり、苺スイーツお供えブームの立役者?!

二宮町という名前の由来は、二宮尊徳から来ていると思っているが?

 

 

②栃木県・旧今市市(現・日光市)

金次郎のお墓参りをした報徳二宮神社。金次郎の終焉の地のはず。

 

 

ちなみに、金次郎は、神奈川県の旧・二宮町の生まれだと、てっきりそう思っていたが、二宮家の由来の土地ではあるが、生まれは小田原の旧栢山村だそう。

 

 

二宮尊徳資料館 

 

入館料無料。

資料室は撮影禁止(個人提供のものがあるため)ロビーは動画以外、撮影OK。

まずは動画を見るが、知らなかった二宮尊徳先生(←急にリスペクト)の苦労と偉業を存分に知る。この館の方の説明もあるよ!

 

 

 

 

服部家の財政立て直し 

 

 

二宮家を再興した金次郎は、小田原藩家老の服部家の破産状態の財政立て直しを依頼され、5年間で財政を再建。

 

 

桜町(現・真岡市)あたりは、小田原藩の配下だったそう。

藩主の命を受け、不退転の決意で向かった先が栃木県のこの地。当時は4千石と言われていたが、荒廃して1千石に満たない土地になっていた。

 

桜町(←真岡市)でのエピソード 

 

 

桜町での金次郎は、毎朝4時に起床し、廻村や開墾や改修を行い、陣屋へ帰って夕食後、また、事務をとり就寝は12時過ぎであり、毎日の睡眠時間は4時間位だった。

 

 

 

桜町の復興事業

 

 

インフラ整備、融資、民のモチベーションアップ。

現代でも通用する政策をひとりでやっていたのがすごい。エピソードでは、断食で民の心を鷲掴み!町の名前が二宮町になったのも納得。今の政治家も見習ってほしいわうーん

 

 

 

もてつスポットの五行川の堰も、金次郎のインフラ整備の一貫なんです。

 

 

金次郎はあの当時で、身長182cm、体重94kgだった。でかっ!

薪を背負った小さい金次郎の印象的だから、知らなかったうーん

 

 

スタッフの方にお礼をしての帰り際、絵葉書と手作りのしおりをいただきました。

この尊徳絵葉書で、のえまろからのお手紙がほしい方は住所を教えてください。(←怪しすぎる)

 

 

ご近所の方からいただいたばかりのトマト🍅もお裾分けしてもらったよ!

タダで勉強できて、お土産までもらって、トマトのお裾分けまで笑

 

このトマトも、二宮尊徳先生の功績のおかげで、肥沃な農地でおいしくできたものだ。(←ほんとにおいしかった!)

 

 

二宮金次郎墓域 

 

二宮尊徳資料館の向かいの奥に(←要は近く)「二宮金次郎墓域」にも行ってみた。墓地には、遺髪を納めた尊徳の墓、娘の文、領主の宇津釩之助夫妻、同僚の横山周平、弟子の吉良八郎夫妻の墓碑が並ぶ。

 

 

惜しまれながらも桜町を離れ、日光(今市)に赴任して、そこで人生を終えた尊徳だけど、娘のそばにという配慮でここに ”遺髪だけ” を納めたようだ。

やはり、尊徳先生の亡骸は、報徳二宮神社にあるのだ。


 

 

すごく頭の中が整理できて、勉強になったぞ!

これぞ、地元パトロールだ!

 

今度は「二宮尊徳記念館」に行ってみよっと。

 

 

 

最後にオマケ。資料館の入口にあった節穴?

 

「お前の目は節穴か?!」のぞくダンさん爆笑

 

 

 

じもパト@真岡市・二宮尊徳資料館で無知解消?!