かつて、実家にはダイちゃんと呼ばれた野良ネコがいた。
彼はもと飼い猫であり、室内での作法をわきまえていたため、
着実に実家の人々の心をつかみ、
最後は居間で夕ご飯がもらえるほどにかわいがられた。
よくできた野良ネコだった。
そのダイちゃんが世を去ってしばらく実家にはネコがいなくなったが、
またいつのころからか、どこからともなくネコが現れ、
現在、毎日のように餌をもらっている。
そんなのが、二匹もいる。
そのうちの一匹は、わが家の車庫をねぐらとしており、
寒い日には電気あんかを入れてもらってぬくぬくと暮らしている。
ちなみにもう一匹のほうは、寒空の下、
となりの家の車の下で丸くなっているのを見かけた。
こちらのほうが力が弱いのである。
力のあるなしはともかく、実家の家族はどちらのネコもかわいがっている。
鳴き声が聞こえれば、すぐに出ていって餌を与える。
ネコは餌をもらい、人はその様子を見て楽しむ。
これほど見事なウィンウィンの関係は、めったにない。
ネコとは不思議な生き物である。
野生の勘で、こうも見事に人との関係を築いてしまうのだから。
このネコたちがもらっているのは餌だけではない。
名前ももらっている。
車庫で暮らしている強いほうは「トラちゃん」と呼ばれ、
車の影で丸くなっているほうは「ポンタ」と呼ばれている。
先代の野良ネコ、ダイちゃんはもと飼い猫なので、
うちに来る前から名前があった。
トラちゃんとポンタは生粋の野良なので、
かれらの名前はうちの家族がつけたものと思われる。
おそらく名前をつけたというより、
いつのころからかそう呼ぶようになった、という感じだろう。
ちなみに、トラちゃんはとら猫なので名前の由来がわかりやすいが、
ポンタのほうはとくに狸に似ているわけではないので、
由来がよくわからない。
いずれにせよ、呼びやすい名前である。
そして、どちらにもわりとあっていると思うのである。
年賀状を見ると、知人の子どもの名前が書かれている。
どの名前も、なにか考えがあってつけたのだろうと思わせる。
たとえ漢字一文字であったとしても、凝っているなあと思う。
間違っても、「トラちゃん」とか「ポンタ」みたいな名前はないのである。
いまのご時世そんな名前がついたら、子どもはグレてしまうかもしれない。
なぜ人間の子どもには「ポンタ」のような名前がつかないのか。
人間の場合は、名前に思いを込めるからと思う。
親の思いが、ぎゅっと濃縮されて子どもの名前になる。
なにかを凝縮しても「ポンタ」にはならないので、
これは子どもの名前になりにくい。
名前は一生ものである。
だからわが子にはいい名前をつけたいし、思いも込めたい。
でもそのことと、名前がその人に合っているかはまた別の話である。
あまり親の思いばかり込めすぎると、子どもが名前に負けてしまう。
ステージ衣装を着せられたような名前をたまに目にするが、
見ているこっちがどきりとする。
思いを込めた名前もいいけれど、
何日か見ているうちになんとなくついた名前も悪くないのかなと思う。
トラちゃんとポンタはかわいがられ、
実家の家族の毎日を確実にしあわせにしている。
名前とは自分が気に入るよりも人から愛されてなんぼのものなのだと、
二匹のネコは語るのである。