縄文時代の海岸線を走る京浜東北線  -本郷台地と奥東京湾 | プロムナード

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東京都内というと、ビルが立ち並んでいて凸凹しているが土地は平坦なところと云うイメージを持つ人は多いだろう。そもそも東京都は関東平野という日本最大の平野にあるのだから平坦なところだと思うのがアタリマエだが、実のところ東京は数メートルから十メートル規模で相当に凸凹しているのだ。山の手とか下町という言い方も、人々のライフスタイル以外に「台地の上と下」という意味から来ていたとしてもおかしくはない。

さて、東京を南北に縦断するJRの京浜東北線に乗って北区の東十条駅~王子駅辺りから東京駅方面へ南下し、王子、上中里、田端、西日暮里、日暮里、鶯谷、そして上野までの電車進行方向の右側(線路の西側)を見ていると、ずっと小高い台地が形成されていることに気付く。途中、切通の道路や駅などで途切れるところもあるが、長距離に渡ってずっと石垣が続き、京浜東北線の線路はその石垣の縁に沿ってひたすら南下していることがわかる。一体何個の石が積まれているのか、とにかくおびただしい量の石垣が壁になっているのだ。

 

 

 

 

 

 

東十条駅付近の坂。 この辺りが台地の北端で、ここより北は荒川河川敷となる


王子駅付近では高崎線や宇都宮線が一番壁側を走っているのだが、駅を出て南へ向かうと高崎線や宇都宮線は京浜東北線の下に潜ってクロスし、そこから先は京浜東北線が一番壁側となるので京浜東北線が一番壁際となる。

 

 

 

 

 

田端駅。
京浜東北線下り線路は
台地の石垣となっている


この壁、即ち石垣は、そこから延々と8kmぐらい先の上野駅まで続き、線路が上野駅から高架になると、それまで寄り添っていた石垣の壁は駅の西側にある不忍池方面へと向きを変えて去っていく。

 

 

 

 

 

上野駅。 線路はここで本郷台地と別れ、高架となる


この台地は、王子付近から上野に向かって飛鳥山、道灌山、諏訪台地、そして上野台地などと土地によって名称があるが、これはすべて武蔵野台地の東縁の分脈、総称して本郷台地となる。厳密に分けると、現在の東京メトロ千代田線などが下を走る谷田川(藍染川)を挟んで本郷台地と上野台地と名前が異なるが、台地としては同じ「塊」だ。

さてこの壁は、横断する切通以外はひたすら石垣で出来た壁なのだが、壁の反対側を見るとその景観は全く異なり、南に向かう進行方向の右(西側)が延々と続く石垣であることに対し、左(東側)はビルさえなければ海岸線が見えてもおかしくないほどの平坦な景観となっていることに気付く。

この景観の差は、京浜東北線の線路を境として西側は武蔵野台地が山地から流出する川の扇状地で洪積台地と呼ばれる台地であることに対し、東側は河川の堆積物によって生じた沖積平地となっているということに起因する。というか、逆に台地と平地の境目に線路が敷かれたというべきなのだが。実はこの本郷台地の東側、つまり現在の京浜東北線の線路の東側は、かつて東京湾だったのだそうだ。

つまり京浜東北線は、王子駅~上野駅辺りでは有史以前の東京湾の海岸線に沿って走っているということになるのだ。

そこが海岸線だったということは、その付近に多くの貝塚が発見されていることから間違いないだろう。因みにこの付近にある中里貝塚は、ほかの貝塚の場合がせいぜい数10cm程度、高くても2mぐらいであるのに対し、最大4.5mと日本最大規模だそうだ。

この海岸線を、古地理では奥東京湾と呼ぶ。時は第四期の間氷期、即ち地球が温暖状態であった約6000年前の縄文時代のことだ。

この台地の東縁の景観は、日暮里駅の上を東西にまたぐ跨線橋である下御隠殿橋陸橋の上に立つとよくわかる。橋の中央から田端に向かって右を見ると、ずっと平坦な土地となっており、左側は台地が連なっていることがわかる。

 

 

 

 

 

日暮里駅。下御隠殿橋陸橋からの眺め


また、日暮里駅のもうひとつの橋である紅葉坂橋から上野方面を見ると、線路がこの台地と平地の境目に沿ってずっと上野方面まで伸びていることがわかる。日暮里駅と鶯谷の間にある、徳川慶喜や著名な文化人の墓で有名な谷中霊園や、寛永寺などもこの台地の上にあるのだ。

この台地は先に述べた様に武蔵野台地の東縁でもあるのだが、中にはその層が極めて薄い箇所もあり、例えば西日暮里にある道灌山通りの切通の幅は僅か数十メートルしかない。東京全体という規模で見ると、地図に表わされるその厚みは髪の毛の太さほども無いだろう。実際、西日暮里駅を降りて道灌山通りに出て左に歩くと直ぐにこの台地の切通しとなるが、それを歩いてみると僅か数秒程度で通過してしまうのだ。つまり、それだけ台地の厚みがここでは薄いということだ。

 

 

 

 

 

 

 

西日暮里駅。 付近にある道潅山通りの切通し


これは即ち、武蔵野台地の東縁である上野台地が西日暮里辺りに於いてはその厚みが数十メートルしかないということであり、武蔵野台地の様な規模の台地では稀な場所かもしれない。現在の様に人工的に固められていなければ、さほどの年月もかけずに風化してしまい、台地の一部はとっくに消失してしまったかもしれないのだ。

そういう狭い台地が河川と海岸線を挟んでいる場合、この様な台地の薄さは地理学的に大きな意味を持つことがある。王子付近で発生した石神井川の河川争奪がそのひとつだ。

小平市の花小金井の現ゴルフ場や石神井公園、豊島園などの湧き水などが合わさり、東へと流れていた石神井川は、縄文時代には王子付近の本郷台地に阻まれて東から南東へと流路をとり、谷田川、藍染川と名称を変えながら上野にある不忍池へと注ぎ込んでいたのだが、約6000年前頃になると、奥東京湾の海蝕が進むに連れて台地で作られていた自然の堤防が決壊し、石神井川はある日を境に流路を東へと突然変えてしまったのだ。

その結果、谷田川は殆ど枯渇してしまい、谷田川には巣鴨付近にある染井霊園の長池などからの湧水だけが流れ、それまで持っていた広い河川敷を持て余す川へと変貌してしまった。その後、氷期を向かえ東京湾が後退した後も、石神井川は元に戻ることなくそのまま流路を東にとり、荒川(現在の隅田川)へ合流する。つまり川の流れが「ある日突然の如く」流路が変ってしまったのだ。

自然変遷に於けるこの様な現象を河川争奪という。

この河川争奪が周辺の動植物に対する影響は、甚だしく大きいことは想像に難くない。天変地異というのは大袈裟としても、生活範囲の狭い生物にとってはそれに匹敵する死活問題だっただろうと思う。

 

 

 

 

 

王子駅。 飛鳥山とそれにかかる短いモノレール


王子駅近くにある飛鳥山を始め、多くの散策路があるこの本郷台地。その上に立って東側を見てみよう。眼下には京浜東北線や高崎線、宇都宮線の線路が見え、正面には高架を走る新幹線が見える。しかし、かつてそこは海だったのだ。時は地球温暖の時期。多くの動植物が台地に棲息していたことだろう。

 

 

 

 

 

飛鳥山から見える新幹線。その奥にはビルが立ち並ぶ。このビルがなかったら、関東平野の地平線が見えることだろう。しかし「僅か」6000年前は、この直下まで海だったのだ。

我々の祖先たちは、打ち寄せる波の音と鳥のさえずりだけが聴こえるこの地で、何を見て何を考え、そして何を夢見ていたのだろう。

一方、著しく平和なはずこの地に於いて、何某かのきっかけで川の流れが大きく変わってしまい、そこに住んでいた縄文人たちは急いで居住地を変えざるを得なかった、などという「大事件」もあったに違いない。

高台の上に立ち、行き来する新幹線を見ながらそういうことに思いを馳せるのも、また楽しい。