PL処世訓第4条「表現せざれば悩(なやみ)がある」 | 御木白日のブログ

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学習院大学 仏文科卒業。大正大学大学院文学博士課程修了。
詩人活動をとおして世界の平和に貢献。

 ※文中〝 〟内は二代教祖のお言葉です。

1.さまざまな表現


(1)まず表現する
 人は生まれながらにして表現欲を与えられています。表現すべきことを表現することによって楽しい在り方ができるようになっているのです。
 「表現せざれば」とは「芸術しなければ」ということです。
 「人生は芸術である、楽しかるべきである」。表現すべきことを表現しないと、楽しくなく、幸せでもなく、「悩み」を抱えることになります。
 「人生は芸術である」は、まず表現することから始まると二代教祖は説きます。
  〝芸術するということは、表現するということであり、表現するということは行うということであり、実行するということです。
  人間のあらゆる悩みは表現しない——行わない——ところにおこるのです。表現すればいかなる悩みも一応は解決いたします。心に思いながら行わずにいるということは、すべて楽しくないし、面白くないものです。〟
(2)しらべ高き表現を
 表現すればいかなる悩みも「一応は解決いたします」と二代教祖は「一応は」と留保をつけています。「一応は解決」しても「最終的な解決」ではないのです。表現しないのは論外で、まず表現するのがよいのですが、どのような表現でもよいわけではないと念を押されるのです。
 表現にはしらべ高き表現(よい表現)も、そうでない表現もある。表現にもグレード(等級)があるのです。
 私たちは、まず表現する、そして、しらべ高き表現ができるように常に意欲し、自分を鍛え、努力し続けることが大切です。それによって「最終的な解決」、客観の境地、主客一致の境地に至る、すなわち「みおしえの境地」に至る道が開かれてくるのです。
(3)積極表現を心掛ける
 人は表現するからには、いやいや仕方なく表現するよりも喜んで表現するのがよいのです。楽しんで、積極的に表現する姿勢が自他祝福につながります。
 よい表現、人が「いい感じだな」と思える表現ができれば、それは素晴らしいことです。よい表現ができるかどうか分からない場合でも、迷っているばかりで表現しないのではなく、楽しく積極的に表現していくのがよいのです。たとえその表現がよくない表現であったとしても、表現しないよりはよいのです。そして、大切なのは、次はもっとよい表現をしようと常に意欲し努力し続けることです。
  〝表現しないのは怠けることである〟
  〝表現するなら、よろこんで表現しなさい〟
  〝世のため、人のためになるように表現しなさい〟
 と二代教祖は言われます。
 よくない表現だと気付いたときには、次からはもっとよい表現に切り替えていこう! これを機に自分自身を変えていこう! グレードアップしていこう! と人生に対し積極的な姿勢で臨むのです。
(4)「曇天芸術は芸術にあらず」
 表現せずに堪(こら)えていますと、それがストレスとなってより大きな悩み、苦しみのもととなり、暗い気分になってきます。
①曇天芸術
 表現しないのならば、あれこれ思い悩まないことです。いつまでも思い悩むのは、とらわれている、つきすぎているからです。
 そういう状態を〝曇天芸術〟と二代教祖は言いました。曇天(くもり空)のようにすっきりしない気持ち、どっちつかずの気持ち、欲しながら行わない、競争心を失った無気力な生活の姿が曇天芸術です。
 若い時はあれやこれや悩んでいても、とにかく動いているうちに悩みがどこかへいってしまうこともあります。しかし、年をとってからああでもないこうでもないと悩んだりしていますと、精神的にも肉体的にも疲れることになって、その人の命運を分けるほどのことにもなりかねません。
②「表現せざれば」
 面子(めんつ)、義理、人情、はては格式、旧習といった人律、社会的通念にこだわりすぎて、ついつい表現しないままになってしまうと、神律であるPL処世訓に反することになります〝表現せざれば悩(なやみ)がある〟ことになります。放っておくとそれがその人の癖にまでなってしまいます。そして、ますます大きな悩み、苦しみの原因となってきます。
 面子(めんつ)にこだわることが人にとっていかにやっかいかについて、二代教祖は短歌によって教えています。
  〝面子(メンツ)というものありて 人の世の 紛争(トラブル)遂に絶ゆることなし〟
 言いたくても言わないで我慢し続けますと、表現しないという罪ごと、鉄材に錆がついてはがれなくなるような心の状態になってきます。思いを内に持ち続け悩んでいます鬱(うつ)になったり、命取りにもなりかねません。
  〝いつも思いを内にためてしまうクセがある人は、自分で自分の寿命を縮めるようなことになる〟
 神は積極性を嘉(よみ)し給います。「嘉(よみ)する」は神が喜ばれることです。是(これ)と信じたことをまず表現するのがよいのです。右にしようか、左にしようか決めかねる、どうしようか迷っているときには、結局なにもしないで終わってしまうよりも「どちらでもよいが、とにかくこれでいこう」と決めて積極的に表現することです。表現する「動き」の中から、なにかが生まれてきます。それが、次の芸術の素材となり、思いもかけない道が開けてくるものです。「動き」のないところからはなにも生まれてきません。
③思ったことはあっさり表現する
 これを言ったらあの人に嫌われる、だけど言わないととんでもないことになりかねない、言おうか言うまいか?
 そのようなことを一人悩むより、あっさり表現するのがよいのです。
  〝思ったことはさっさと表現していくようにしますと、気分的にとても楽に暮らしていくことができるのです。〟
  〝あの人はあっさりしているとか、あの人はきさくであるとか、ざっくばらんで気持ちがよい、といわれるような人〟
がよいのです。難しいことですが、常にそのように心掛けていくことが大切です。必ずそのようになるものです。
 この「あっさり表現する」ということは、多くの人は簡単に考えていますが、生き方のうえで非常に大切なことです。なぜあっさりできないのか。それは大方のところ、周囲への影響を考えすぎるからです。心配が先に立って、こうなればこう、ああなればああと先回りして、先々のことをあれこれ気に掛けて心を使うからです。
 行動は決断です。決断は思考停止でもあるのです。思考が継続している限り、決断できず、行動もできません。
 思考と行動(思考の停止)の調和とバランスが大切です。

2.イメージを明確にもって

 表現するからにはイメージをしっかり持って、しらべ高き表現を心掛けたいものです。
(1)ビナイン・ネグレクト(benign neglect)
 「ビナイン・ネグレクト(優雅なる無視)」という言葉があります。
 どんな嫌がらせを人からされても腹を立てることなく、平然と、そんな嫌がらせなどなかったかのごとく、無視するが如く、たんたんと受け入れる、肯定する在り方です。だからといって、何もしないというのではなく、将来における時宜(じぎ)にかなった表現を射程に入れた姿、在り方です。
 そういう表現の在り方のできる人は、自分のやるべきことをしっかりイメージし、自覚しているのです。いざというとき、時宜(じぎ)にかなった思い切ったしらべ高き表現ができるのです。
 そのためにはしっかりしたイメージ、目的意識、見通しをもつことが大切です。そこにはほどよい緊張感がおのずと伴い、メリハリのある間合いのとれた表現ができるようになるのです。そういうリズム、間合いを心得ていますと、たんたんと、しかも積極的に自分のやるべきことを表現していくことができます。
(2)「時理至る」
 「時理至る」と二代教祖はよく言われます。「時理」という言葉は辞書を引いても出てきません。
 「時理」とは「神のタイミング」、あるいは物事の潮が満ちてくる時、ともいうべきもので、
 ①「無限に生み授けんとする神」
 ②「おのずからなる時期」
 ③「熾烈(しれつ)なる人間の意欲、欣求(ごんぐ)してやまぬ人間の至誠」
という3つの条件が満足されて「時理」至るのです。
 「時理」至ったときの芸術、自己表現は、イメージどおりのものになるのです。
 「ビナイン・ネグレクト」は「時理至る」のを待つ表現の在り方でもあります。
 「時理」と似た意味の言葉にカイロスがあります。古代ギリシャ語では「時」を表す言葉にクロノスとカイロスの2つがあります。クロノスは私たちが普通にイメージしている物理的な時間です。過去から未来へと一定速度、一定方向で機械的に流れる連続した時間です。客観的な時間ともいうべきものです。
 カイロスはクロノスの一様な流れを断つ運命的な時間で、「時機」と訳されることがあります。クロノスを量的な時間とすれば、カイロスは質的な時間です。その人にとっての好機、チャンスがカイロスで、いわば主観的な時間です。
 時機を捉えた表現は、時宜を得たものになりますが、時機を逸しますと、為さずもがなの有害無益なものになりかねません。
 ギリシャ神話にはカイロスを神格化した男性神としての「カイロス」が出てきます。「カイロス」は前髪は長いけれども後頭部は禿げた美少年という特異な容貌の神です。「チャンスの神は前髪しかない」、「好機(チャンス)はすぐにつかまえなければ、後からつかまえることはできない」(チャンスは逃すと2度とはやってこない)という格言、ことわざを表現する神さまです。

3.ピーターの法則

 物事をするにあたって一生懸命、目いっぱい表現してきた人が、一応の目標、目的に到達すると、とたんに安易な表現しかできない人に変わってしまうことがあります。そこで進歩発展が止まってしまい、それ以上伸びなくなってしまうのです。
(1)出世すると無能になる?
 たとえば、平社員として優秀だったのに、課長になった途端に無能になってしまう、優秀な課長だったのに部長になったら無能になってしまう、有能な取締役も社長になったら無能になってしまう。気がついてみると、上から下まで無能な人の集団・集まりになってしまう。皮肉でユーモラスな「ピーターの法則」といわれるものです。
 平社員には平社員の、課長には課長の、社長には社長の表現の在り方がそれぞれあるわけです。課長になったのに平社員のときと同じような思い、在り方、仕事ぶりではいけませんし、社長になったのに、取締役や部長のときと同じでは芸術になりません。
(2)「椅子に心境あり」
 「椅子に心境あり」といいます。課長とか、部長、社長とかの地位、つまり椅子には、それにふさわしい道、在り方が伴っているのです。「名に依(よ)って道がある」(PL処世訓第12条)のです。
 「椅子に心境あり」には2つの説明の仕方があります。
 第1は、その椅子にふさわしい能力、在り方、振る舞いの人がその椅子に座るべきだというもの。
 第2は、その椅子に座われば、誰であってもその椅子にふさわしい能力、在り方、振る舞いが身に付いてくるというもの。
 前者は客観的、実質的なもので後者は主観的、形式的なものです。本来は客観的、実質的であるべきなのでしょうが、その椅子にふさわしい人物がいつもいるとは限りませんし、いるとしても、その人以外の人物に座ってもらう事情がある場合もあります。そのときには、主観的、形式的な論理も必要になってきます。そして、椅子に座ることによって、その人物の隠されていた能力がはじめて引き出されることもあり得るのです。ここで、客観的な「椅子に心境あり」と主観的な「椅子に心境あり」が統一され、一致するのです。かく一致するように、人は常に努力していなければならないのです。しかし、主観的な椅子に座っているにすぎないのに、本人は客観的な椅子に座っていると錯覚する人がいるものです。注意しなければならないことです。
 1945年(昭和20年)の敗戦直後のわが国の政界でも経済界でも、上にいた人たちが公職追放などでいなくなったあとに、思いもかけず、若い人たちが抜擢され、力を発揮することになりましたが、それが戦後の高度経済成長の原動力になったともいわれるのです。
 「椅子に心境あり」が分かっていないと、その椅子に着いたとき、下の人に対し「私が右向けといったら右を向いていればいいのだ」と勘違いしたものの言い方をしてしまうようなことにもなります。「人に偉そうなこと言わぬ思わぬ」ことはとても大切なことです。そうでないと、ピーターの法則のように、その段階で無能になってしまいます。
 いずれにしても、その椅子に座る人がそれにふさわしい表現をするのでなければ、その椅子は生かされないことになります。
(3)本来の自己に生きる
 人は限りなく伸びていく可能性を本来もっています。
 その可能性を現実のものとするには、よき先輩、指導者と出会うこと。そして、よき指導、アドバイスを受けて、困難な問題、事件にも逃げることなくぶつかっていき、積極的に本来の自己を表現していくのです。本来の自己に気付き、本来の自己に生きるのです。そうしますと、仕事においても、私生活においても、どこまでも進歩発展すべくづけられてくるのです。神の祝福を授かり、人生がより楽しくなってきます。

4.悩みから解放してくれる自己表現

  〝芸術するとは、表現することである。表現するとは、実践することである。実践するとは、客観の自己に生きることである。そこに悩みはない。芸術せよ。芸術すれば一切の悩みは雲散霧消する〟
 二代教祖のこの言葉によって私たちは励まされます。
(1)執着心を芸術する
 物事に執着する(どうしてもこうしたい、こうなりたいと固執して、その考えを手離せないこと)と悩みが生ずるものです。執着心を「捨てる」ことが大切です。
 「人生は芸術である」の教えからは、執着心をも芸術の素材として芸術しようと決意し実践することが、「捨てる」と同じ意味になります。「捨てる」は「芸術する」ことなのです。
 執着心を芸術の素材にすると決意することは、自分自身の一部になっていた執着心を自分から切り離して、対象として客観的に捉え直すことです。そのとき、執着心は自分自身とは別のもの(客観、対象)となっています。そこに執着心を克服する道が開かれてきます。
(2)貧乏根性
 思うだけで表現せず、実践せず、「努力」(「努める力」、自己表現の源になる力のこと)を発動しない人、誠をしない人は悩みを抱えることになります。「努める力」を「働かす」(発動する)ことは「芸術する」ことです。
 本来、人は表現欲をもった動物、表現の動物ですから、自己の意志をためらうことなくさながらに表現するのが道であり、あるべき姿です。
 人から嫌われたくないとか、よく見てもらいたいとか、厚かましいと思われたくないとかで、さながらの自己を表現できないことがあります。PLではこれらの思いを「貧乏根性」といいます。無用の心遣いをして、人にへつらったり、控え目になったりするのは自分の心に不正直で、ストレスがたまり、悩みの原因となります。
 「貧乏根性」という言葉は、「人生は芸術である」というPLの教えでは独特の意味をもっています。「神に依(よ)り正々堂々と自己表現することのできない心」のことを「貧乏根性」というのです。物質欲をはじめ嫉妬心、人から嫌われたくない心、人から好かれたい心、メンツ、虚栄心、肉親愛が度を過ごしますと「貧乏根性」となり、その人らしい自己表現を妨げることになります。
 物質欲そのもの、嫉妬心そのもの、虚栄心そのもの……等々は誰でもが持っており、別に悪くないのです。ただ、度を過ごしてはいけないのです。
 「ぜいたくだといって他人を非難する者の心情は、たいてい貧乏根性である」、「他人の成功を好まない心」、「他人に功を取られたくない心」、「他人に任せた仕事に細かくケチをつけたがる心」、「何もかも人のやっていることを知りたがる心」これらも貧乏根性のなせるわざです。
 イソップ童話に『キツネとブドウ』の話があります。高い所にたわわに実っているブドウを取ろうとキツネが何回も何回もジャンプをするのですが、どうしてもとどかずブドウを取ることができません。キツネは、仕方なくあきらめるのですが、立ち去るときに「どうせ、あのブドウはすっぱいのだから、取れなくてもいい」と負け惜しみを言うお話です。このキツネも貧乏根性です。『子どものための哲学対話』、『なぜ人を殺してはいけないのか?』(共著)などの著書のある哲学者の永井均(ながいひとし・1951〜)さんは、「ブドウがすっぱいから、ではまだまだです。ブドウを食べるのは健康によくない。だからあんなブドウはいらない、と現代のキツネなら言うだろう」という趣旨のことを書いています。貧乏根性の極まった姿がここにあります。「ルサンチマン」(怨念)といわれるものです。
(3)匿名の表現
 氏名を明記せずに、募金をしたり多額の寄付をしたり、献金をしたりすることが時々ニュースとして新聞の記事になったりしますが、PLの教えでは「匿名」でする表現は「貧乏根性」によるもので、正しい表現とはいえないのです。そこには、何か後ろめたいものが隠されているのです。
 それは神に依(よ)らない、正々堂々としていない自己表現だからです。
 人はすべからく、よき芸術になった表現に終始したいものです。
 ただ、留意しなければならないのは、表現の自由や政治的自由のない社会や国家、あるいは寛容さを欠いた空間(たとえば、ネット空間)においては、匿名も已むを得ない方便として認められるだろうということです。
 「無記名投票、秘密投票」は、ときに無責任で卑劣な行為ともなりますが、同時にそれが言論の自由を最終的に保証することにもなると哲学者の柄谷行人(からたにこうじん・1941〜)さんは言っています。