PL処世訓第3条「自己は神の表現である」 | 御木白日のブログ

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学習院大学 仏文科卒業。大正大学大学院文学博士課程修了。
詩人活動をとおして世界の平和に貢献。

 ※文中〝 〟内は二代教祖のお言葉です。

1. 「神(大元霊〈みおやおおかみ〉)」

  〝神は無性格であると同時に所有(あらゆる)性格を包蔵している。
  神の無限性格は千差万別の個性を持った人間に依(よ)って、然も千種万様の個性を持った自然現象が素材となって顕現(ゲイジュツ)される。
  神を認識し、神を芸術するのは人である。
  ああ偉大なる哉人!
  人と生(あ)れたる嬉しさよ!
  人とし生きる楽しさよ!〟
 神と人についての二代教祖の感慨です。
(1)PL処世訓の神
 PLの教えでは「神」を「大元霊(みおやおおかみ)」といいます。その神は、「自己」つまり私たち一人一人として現れているのです。「自己は神の表現である」とはそういう意味です。
 余談になりますが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など一神教の神は、人格神で、私たち一人一人を創造した造物主であり、私たちは被造物、造られたものです。私たちが自分で作った机や茶碗を壊そうが、焼いてしまおうが自由なのと同じように、一神教の神は自分が創(つく)った人間をどのように扱おうが自由なのです。
 PLの教えの神はそれとは違います。人格神ではありません。私たち一人一人は神自身ですから、私たちには神の配慮が働いているのです。
(2)PL遂断詞(しきりことば)の神(「大元霊〈みおやおおかみ〉」)
 PL遂断詞(しきりことば)では、神について次のように説いています。
① 〝貴光(たかひかり)遍照(ます)大元霊(みおやおおかみ)は、現世(うつしよ)の万象(あらゆるもの)を創造(うま)せ給(たま)い芸術(つく)り給(たま)い、天地陰陽(あめつちかげひ)の約束(きめごと)により、日(ひ)に日(け)に育(そだ)て太(ふと)らせ給(たま)う、……〟 
 「遍照(ます)」は幽祖が唯一人の師匠とされた弘法大師(空海)の真言密教上の名前(金剛名号)の「遍照金剛(へんじょうこんごう)」に由来しています。「貴光(たかひかり)・遍照(ます)」は、「日の出の太陽が夜明けの空を光輝かせ始めるように、あまねく世界を照らし出す」という意味です。真言密教の教主である大日如来の別名「遍照如来」に由来するものです。
② 〝此(こ)の真理(ことわり)により成(な)り生(あ)れし、世界全人類(あらゆるひと)は、……〟
 PL遂断詞(しきりことば)では「人は神の表現」だけでなく、人は「成り生れし」もの、つまり自然に成り出たものであるとか、神が人を「創造(うま)せ」、「芸術(つく)り」とまでいっています。さらに「日(ひ)に日(け)に育(そだ)て太(ふと)らせ」と、常に好意をもって、私たちすべてを見守っておられるというのです。つまり、「大元霊」は人格神ではありませんが、人格神的に捉えられてもいます。
 「人は神の表現である」、つまり神が人と「なる」、神が人を「うむ」、神が人を「つくる」と、PL遂断詞(しきりことば)は神と人との関係を説明するのに、「なる」、「うむ」、「つくる」の3つの動詞を使っているのです。これをどう解釈し理解するかが大切なのです。
 「神とは?」、「神と人との関係は?」は人間にとって解答不能な問題だとも言えるのです。 この第3条とPL遂断詞(しきりことば)は、この難問に対して、限りなく神の真実に接近しようと、いろいろ表現すべく努めているのです。それが真理に対する人としてもっとも誠ある姿です。
(3)自己は「神の表現である」と感得する
 「表現である」は、かしこまったどちらかというと抽象的な言葉です。どういう意味なのかイメージしにくいものでしょう。
 そこで、「うむ」、「つくる」、「なる」という日常使われる、なじみ深い言葉によって、PL遂断詞(しきりことば)は、「表現である」の意味をなんとか感得(かんとく)してもらおうとしているのです。
 私たちが日常目にしているものは、①机やテレビのように誰かが「つくって」そこに在るもの ②イヌやネコのペットなどの動物のように親が「うんで」そこに在るもの ③柿の実が「なる」とか、カビが「はえる」、コケが「むす」など、 おのずから「なって」そこに在るものの3つに分けて考えることができます。
 「表現である」ことの意味に限りなく近づこうとするには、「つくる」、「うむ」、 「なる」という言葉の意味、ニュアンスをも含めたものとして、「表現である」、「あらわれである」という言葉の意味を捉える必要があります。

2.「神」についての表現

(1)「神とは何でしょうか?」
 神は目に見えませんし、あまりに偉大で人間にとって本来理解を超えた存在です。強いて言うなら、原子や素粒子などの極小の世界、日頃見慣れている人間や無数の動植物、山川草木の世界、さらには太陽、地球、火星といった太陽系の天体、さらに拡大して何億光年という彼方の宇宙の星々を含む極大の世界、 それらすべてとダークマター(暗黒物質)、ダークエネルギー(暗黒エネルギー)を含む大宇宙そのもの、それが神といえるかもしれません。方向性と一定の法則と調和を保ちながら轟音とともに運行する大宇宙全体、というのがよいかもしれません。
 人間は自分の存在の根源として、神をなんとか言葉で表現し、理解したいと思わざるを得ないのです。「人生は芸術である、楽しかるべきである」の真理を自分のものとするためにも、そうしないではいられないのです。
(2)神についての解説
 「神は全体であって、万象の根源である。すなわち世は神業(かんわざ)の実現である」がPLの教えの神観として分かりやすいものです。「世は神業(かんわざ)の実現である」とは人間も含めたすべてのもの、森羅万象は「神の現れである」、「世は神の表現である」ということです。そして、「神は一体である」なのです。
 少し詳しくなりますと、次のように解説されます。
① 神は「絶対一」、すべてを包含する「一」であると同時に、万象と現象する「多」である
② 神は「全体」であり、「すべて」(一切)である
③ 神は「無性格」であると同時に「あらゆる性格」を持っている
 これらの命題は論理学からいえば、矛盾しており、誤りということになりましょう。しかし、神の真実は、論理学を超えているのです。
(3)「一」にして「多」
 神が「一」である、「全体」である、「無性格」である、とは結局同じことを別の言い方で表現していることになるのです。
 そのことを「光」をたとえにしますと、次のようになります。
① 日光、つまり太陽の光は「白色」というか「無色」です。しかし、プリズムを当てるといろいろな色に分かれてきます。
② 「光の三原色」である赤、青、緑の三色を混ぜ合わせると「白色」になります。つまり、「白色」は「無色」ですが同時に「すべての色」を持ってもいるのです。
③ 日光そのものは「一」であり、「全体」で、「無性格」ですが、プリズムによっていろいろな色、つまり可視光線として、加えて赤外線、紫外線として、いろいろな性格を持った「多」として現れるのです。
(4)神のほかには何も存在しない
 神が「一である」、「全体」である、「無性格」であるとは、神のほかには何も存在しないということです。私たち人間を含むこの世に現れた形あるすべての個々の物、森羅万象すべては一定の仕方で表現された「神」の「現れ」であったのです。
 「自己」は全体である神の局所的な一表現なのです。

3.「たとえ」、「たとえ話」による「神」についての表現

 神そのものは人間にとって理解を超えた不可知なものです。そうであってもどうしても神を言葉で表現したい、説明したいとなると、「たとえ」や「たとえ話」によるほかありません。
(1)「光」としての神
 闇をあまねく照らす「光」に神をたとえるのは、もっとも分かりやすいものといえます。無知蒙昧の闇の中にいる私たちを理性の光によって光明へと導いてくれる神、というイメージです。
 ちなみに18世紀のヨーロッパは「理性の時代」、「啓蒙(けいもう)主義の時代」といわれますが、「啓蒙(けいもう)」は「enlightenment(エンライトメント)」、つまり「明るく照らすこと」という英語の翻訳語です。また、「啓蒙(けいもう)」という語は『易経(えききょう)』の「山水蒙(さんすいもう)」という「卦(け)」(「当たるも八卦、当たらぬも八卦」の卦〈け〉)にある「獰猛(どうもう)は啓(ひら)く」から来ています。「蒙(もう)」は「暗(くら)い」で、「獰猛(どうもう)は啓(ひら)く」は、子供が無知な闇の状態から知恵にあふれた光の中に導かれるというイメージです。
(2)「大海の水を神、その一滴が人」のたとえ
 「海と一滴の水とは量や形においては非常な差があるが、質においては同じ水である。これと同じように神(全体なるもの)と人(一部なるもの)とは、量や形に差はあれ質においては同質である」から「一滴の水の本質がいかなるものであるかが分かれば、大海の水はいかなるものであるかが分かるように、自分というものがいかなるものか、人間とはいかなるものかが悟れれば、神が悟れるのである。神が悟れたら神と交流(在り通うこと)ができるのである。神と交流できれば、神業(かんわざ)の種々相が感じられる。『みおしえ』というものはかかる境地において授かることができるのである」
 これは、PLの教えでの神と人についてのたとえ話の一つです。
(3)神業(かんわざ)
 神には「働き」があります。その根源は「力」です。神が持つ「力」が「働く」ことによって、すべてが始まるのです。すなわち自然現象、人為的現象(人間の思考・観念の変化を含む)のすべてです。これをPLの教えでは神業(かんわざ)といいます。
 「神は全体であって、万象の根源である。すなわち世は神業(かんわざ)の実現である」と表現されるのです。
 神業(かんわざ)とは、 神意、 神慮、神の音楽、神のタイミング、神のペース、お恵み、神のそろばん、神のお言葉、神のしらべ、神の怒り、神の微笑、みしらせ……等と神業(かんわざ)から受けるそのときどきの感じを分かりやすい言葉やたとえで表現されるのです。
(4)「神の働き」
 PLの教えは、どんな不都合なことが起こっても「すべての神業(かんわざ)は肯定するのみです」、そして「その神業(かんわざ)を素材として芸術せよ」と教えるのです。神業(かんわざ)とは、「神の働き」のことです。
① 「神の働き」を中世のキリスト教では「神の力(デュナミス)」の「働き(エネルゲイア)」と捉えました。「デュナミス」と「エネルゲイア」という古代ギリシャの哲学者アリストテレス(前384〜前322)由来の用語を使っているのです。「デュナミス」と「エネルゲイア」については、第1条「人生は芸術である」のところで触れましたのでご参照ください。
  宇宙にあまねく偏在している「神の力(デュナミス)」の「働き(エネルゲイア)」である神業(かんわざ)を凝視することによって、神を感得(かんとく)できる感性を磨くことが大切なのです。
② 神業(かんわざ)の一部は人間が五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)で捉えることができる形をもって現れますが、五感だけでなく、第六感に依(よ)らざるを得ない場合もあります。第六感は「直観と感情」ともいわれるもので、生得(せいとく)的(生まれつき)だけでなく、修練することによって身に付けることができます。
 人は五感を尽くし、さらに「直観と感情」を研ぎ澄まして、神業(かんわざ)を凝視しようとして、神そのものに限りなく近づきたいと念願するのです。
 二代教祖はこれを『第一感』といわれ、神の働きとして大切にすることを教えておられます。「みおしえの境地」は「第一感」そのものなのです。

4.「自己は」と「人は」

  〝人(ひと)は神(かみ)の表現(あらわれ)にして万物(よろずのもの)の長(おさ)にしあれば、人(ひと)より尊(とおと)きものは無(な)く、〟
 とPL遂断詞(しきりことば)にあります。
 「自己は」ではなく、「人は」になっているのです。
(1)「感覚的に受けとれ!」
 PL処世訓第3条「自己は神の表現である」と、PL遂断詞(しきりことば)「人は神の表現である」との関係について、二代教祖は次のように説いています。
  〝「人は……」ではなく、わざわざ「自己は……」と書いてあります。深い味わいのあるところであります。〟
  〝意味は同じですから、「人は……」でもよいはずでありますが、あえて「自己は……」と教えていただいているということは、この個条をもっと感覚的に受けとれという意味があるのです。〟
  〝第1条「人生は芸術である」、第2条「人の一生は自己表現である」とあって、第3条に「自己は神の表現である」となっており、うまく調子がとれているのであります。第1条、第2条に続いて、さらに「自己は神の表現である」と深く自覚させるために、「自己は……」となっているのであります。〟
 「感覚的に受けとれ」とは、頭で論理的に考え、理屈をこねるだけでなく、感覚的な力、情緒的な力をも加えて、この第3条を受け止めなさいということです。理屈や論理を無視せよとか、軽視せよというのではありません。まず理屈や論理を極めたうえで、さらに感覚的な力、情緒的な力をも生かさなければ、この第3条が「人は……」ではなく「自己は……」となっていることを感得(かんとく)できないのです。知性だけでは受けとることのできない真理を感性で受けとりなさいと二代教祖はいうのです。
 宗教では理屈や理論だけでは十分とはいえません。19世紀初めのプロテスタントの神学者シェライエルマッハー(1768〜1834)は「宗教の本質は直観と感情である」と言っています。
(2)神に依(よ)る「心身の合一」
 人間が持っている感覚的な力のもとは「神の力」にほかなりません。頭で論理的に考える力「知性」も、もちろん「神の力」に由来するものです。これらは人間の「心(精神)」に宿っている力です。
 神は「心(精神)」だけでなく「身体(物)」をも持った人間と現れています。身体によって発揮できる「人間の力」もまた「神の力」にその大本があります。
 「知性」を働かし、「身体」を正しく働かして、感情豊かに日常生活を生きるにはどうしたらよいかをPLの教えは明らかにしているのです。
 そのためには、「一切を神に依(よ)れ」(PL処世訓第11条)となるのです。
 神に祈り、神に依(よ)ることによって、あなたははじめて「心身の合一」を感得(かんとく)でき、「人生は芸術である、楽しかるべきである」を現実化できるのです。 
 二代教祖は、〝わしを拝んでも何にもならんよ。神を拝みなさい〟とよく言われました。いわゆる「宗教」、いわゆる「宗教家」を嫌った二代教祖にふさわしい言です。二代教祖は「宗教家らしくない宗教家」といわれていました。
(3)夏目漱石の広告文
 夏目漱石(1867〜1916)は自作の小説『こころ』が刊行されたとき、自ら次のような広告文を書いたそうです。「自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を奨(すす)む」と。「自己の心」と「人間の心」を対比させています。
 「自己は……」と「人は……」との関係について考えるのに参考になりそうです。

5.「いま」、「ここ」に生きている自己のかけがえのなさ

 PL遂断詞(しきりことば)が「自己」でなく「人」間一般が「万物(よろずのもの)の長(おさ)」であり、「人より尊きものは無く」という真理を説いているのに対して、PL処世訓第3条は、ほかの誰でもない、いま、ここに現実に存在し、生活しているあなた自身、「現実存在している、〝実存〟しているあなた」こそが「神の表現」であり、芸術する主体なのですよ、と教えているのです。そのために「人は……」ではなく「自己は……」となっています。あなた自身の身体的な現在の生活における「教え」であることをはっきりさせるために、二代教祖はあえて「教訓」でもなく、「人訓」でもなく、「〝処世〟訓」という名称を使われたのだと私は考えています。「名に因って道がある」のです。
 人間一般として、各個人はそれぞれ芸術の主体ですが、「実存する芸術の主体であるあなた」にとっては、あなた以外の人間は芸術の素材にすぎないという強烈なメッセージでもある「自己は……」なのです。
 近代までの西洋の哲学では、「人間とは何か?」が問題とされてきました。しかし、自分にとってほんとうに大切なのは、〝人間一般が何であるか?〟という普遍的、抽象的なことよりも、〝いま、ここに現実に存在している具体的なこの自分がいったい何ものであって、何をなすべきなのか?〟です。このような問題意識は「実存主義」といわれます。
 「自己は神の表現である」の教えは、この実存主義をその視野に収めています。普遍としての「人」と個物(個人)である「自己」の両方を視野に収めているのです。
 もっとも、 あなた以外の人も「自己は神の表現である」の「自己」であり、あなたと神を共感、共有しているといえるのです。ですから、その人々があなたの芸術の素材だとしても、人間以外の素材に対する心遣い、配慮よりもはるかにグレードの高い心遣い、配慮をしなければなりません。「あの人は、人を人とも思わない人だ」などと言われてはならないのです。

6.神の分霊(わけみたま)

 あなたは神の分霊(わけみたま:大宇宙のエネルギーの一部)をいただいています。だからと言って、あなたがすなわち神ということでないことは言うまでもありません。
 あなたは生まれた瞬間に神から分霊(わけみたま)をいただき、自己表現するべく独特の持ち味である個性と身体を授かっています。「オギャー」というあなたの産声(うぶごえ)は「分霊(わけみたま)をいただきました」というしるしでもあったのです。神がそのように現れているのです。あなたが自分自身の大本である神と常に心通(かよ)わせて暮らすことがいかに大切かお分かりいただけると思います。
(1)「生かされ生きている」
 あなたは神の分霊(わけみたま)をいただき、個性を持ち、身体を持ち、森羅万象、すべて神業(かんわざ)のを素材として個性豊かな芸術をする自由な主体です。そのように神が現れているのです。本能によって規定されている動物に自由はありませんし、芸術することもありません。
 神の分霊(わけみたま)をもつあなたは、 身体として両親から生まれ、神によって「生かされて」いるのです。そして、同時に自由に芸術する主体として、自ら「生きて」もいるのです。私たちは、「生かされて生きている」のです。この自覚が大切です。
 「生かされて生きている」との自覚は、そのまま「人生は芸術である。楽しかるべきである。楽しくないのは、なにかが間違っているのである」の自覚にほかなりません。
(2)神と在り通(かよ)う境地
 あなたも、 そしてあらゆる「もの」も「こと」も一切はことごとく「全体である神」、 「一である神」の現れであることに気付くならば、 万物(すべてのもの)、万象(あらゆる事象)はあなたにとってよそよそしいものではなく、親しく在り通(かよ)うことのできるものとなり、あなたはそれを素材として自由に楽しく芸術することができるのです。
 初代教祖は「世の中にあらはれたる一切のものは皆ひとをいかす為にうまれたるものと知れ」と悟られました。
 二代教祖は、「人生は芸術である」との悟りから、
  〝「ひとをいかす為」とは、人をして芸術せしめるという意味であり、同時に人が表現する動物であることを意味するものであります。〟
 と捉え直されるのです。
 「世の中にあらはれたる一切のもの」はあなたの「芸術の素材」であったのです。
 芸術としての生活をするうえで大切なことは、自己の大本である神に常に心通(かよ)わせながら、謙虚に祈り心を持って物事をさせていただくことです。それが神から分霊(わけみたま)をいただいている自己の表現を限りなく発展させていく「骨(コツ)」なのです。