PL処世訓第2条「人の一生は自己表現である」 | 御木白日のブログ

御木白日のブログ

学習院大学 仏文科卒業。大正大学大学院文学博士課程修了。
詩人活動をとおして世界の平和に貢献。

 ※文中〝 〟内は二代教祖のお言葉です。

1.「自己」の尊さ、「自己表現」の素晴らしさ

 「人の一生は自己表現である」は、第1条「人生は芸術である」の「人生」を分かりやすく「人の一生」と言い換えています。また、「自己表現」は「芸術」という抽象的な言葉が「自己」、「表現」という、より具体的な言葉で言い直されたものです。
 古今東西、多くの人が、特に若い人が「人は何のために生きるのか」という疑問を持ってきました。AI(Artificial Intelligence:人工知能)が発達するであろう未来において、その疑問はさらに強くなるかもしれません。しかし、「人の一生は自己表現である」と端的に明示されたことによって、その疑問は氷解し、人生の意味は明確に顕示されたのです。そうです。人は皆、自己表現するために生きているのです。たとえ名人がAIに敗れたとしても、芸術する人としての囲碁や将棋のプロがいなくなるとは思えません。汽車や自動車ができたからといって、100メートル競走やマラソン競走がなくならなかったのと同じです。
 「人の一生は自己表現である」は意味からしますと「人生は芸術である」とほとんど同じといえます。とはいえ、「人生は芸術である、人の一生は自己表現である」と重ねて表現することによって独特の「しらべ」がそこには生まれ、具体的なイメージを伴った力強い表現となっているのです。
(1)「自分ほど尊いものはない」
  〝自己というものは他に類のない独特なものであり、この独特な自己・個性は、人世(ひとよ)のためにひたすら表現することによって、無限に顕現発揚(けんげんはつよう)せられ進歩発展さすことができるのであります。そこに人は限りなき愉悦(ゆえつ)をおぼえるようになっているのであります。
  思えば自己が独特の自己であるということほど、楽しくもまた尊いことはないのであります。昔も今も将来も同じ人間というものは絶対にあり得ないことを思えば、一人一人の生存の意義がいかに大切であるかが分かるはずであります。
  しかも自己が他人と違った独特の自己であるということは、実に「芸術せよ」とのみ心であることに思いいたるとき、人という神業(かんわざ)の素晴らしさをしみじみと味わわしめられるのであります。
  人生はなんと楽しく、人というものはなんと尊い存在であろうか、と思います。世の中に自分ほど尊いものはない、自分がこうして世の中に生きているということほど、いみじくも味わい深いものはないのです。〟
 人間は大勢いますが、「この私」は一人しかいないのです。なぜ、「この私」は一人しかいないのでしょうか。なぜならば、「世界に同じものは存在しないからである」と答えたのは、ライプニッツ(1646〜1716/ドイツの哲学者)でした。
 世界に70億余の人々がいるそうですが、同じ人はひとりとして存在していないのです。
(2)「自他祝福」の幸福感
 二代教祖はなぜ「自己表現」が大切なのか、次のように説いています。
① 〝人はすべて独特の存在であっても、その独特の自己を表現しなければ意味がないのです。自己が独特な自己であるということは、実に「表現せよ」とのみ心なのであり、表現するところに人としての愉悦があるのであり、自他祝福の幸福感が得られるのであります。
  一人一人が社会人として自己表現していくところに、世の中に限りなき幸福の花が開くのであります。〟 
② 〝人生が芸術であり、人の一生が自己表現であるということが分かってさえおれば、人はどういう境遇におかれても、困るとかつまらないというようなことには、決してならないのです。いつでも充実した時間を持つことができるはずであります。〟
(3)自己表現とイメージの造型
①イメージ

 人がなにかを表現しようとするときには、漠然と心の中にこうしたい、こう言いたいという思いがまずいろいろ出ているものです。それをイメージ(心象)といいます。
 日々の生活をより自分らしい楽しいものにしたいと思うのは人として自然であり、それに沿ってイメージを持ち、大いに創意工夫していく、それが自己表現です。そしてその連続が人生です。
 自分がしたいこと、しなければならないこと……等々、日常の仕事の上でも家庭での料理や掃除でも何でも、その人が心に描く独自の目には見えないイメージを目に見えるように現実のものにするように努力する。それが芸術であり、自己表現であり、人生です。
 自己表現はイメージの造型です。
②イメージの中のポエジー
 芸術はイメージの造型ですが、イメージにはその人の情感、感傷であるポエジー(詩情)がひそんでいます。そのポエジーのゆらめきがイメージを作りあげていくのです。 

 
〝人生にポエジー(詩情)がなかったら、この世の中は無味乾燥である。ポエジーとは人間生活の朝から晩までの上に次から次へと湧いてやまない心の音楽……、リズム(韻律)、ハーモニー(調和)である。
  それは時として爆発し、何ものをも焼きつくす灼熱のるつぼと化す不協和音でもある。ポエジーなき世界は人間の世界ではあらぬ。〟
 「爆発」、「不協和音」は二代教祖の芸術論において、とても重要な言葉(キーワード)です。
(4)わがまま勝手な自己表現と「みしらせ」
  〝人の一生は自己表現であるということをはきちがえて、わがまま勝手な自己表現をいたしますと、みしらせをいただき肉体の故障をおこしたり病気になったりいたします。物事はかえってうまくいかないようになり失敗に終わるようなことになります。それでは結局、自己表現にはならないというわけであります。 

 
 すなわち、自己表現にはおのずからなるルール——神がきめ給うた道——というものがあるということなのです。このルールに反しますと、先ほども申しましたようにみしらせがあらわれ病気・不幸・災難をまねくようなことになるのです。神の道に反する自己表現は自己表現ではあっても、物事をこわし自己をほろぼすような自己表現になるのであります。〟

2.「人の一生」=「ゆりかごから墓場まで」

(1)赤ちゃんの自己表現
 人は生まれた瞬間に神から分霊(わけみたま:いわば、大宇宙のエネルギーの一部)をいただき、自己表現するべくその人独特の持ち味である個性を授かっています。「オギャー」という産声(うぶごえ)は「分霊(わけみたま)をいただきました」というしるしでもあるのです。自分自身の大本である神と常に心通わせて暮らすことの大切さが分かります。
 赤ちゃんは赤ちゃんなりに、泣く、笑う、むずかる、という方法で自己を表現しています。怒ったとき、寂しいとき……等々、赤ちゃんの泣き声はそれぞれ違うそうです。
 幼少期 → 青年期 → 壮年期 → 老年期と、人は次第に経験、知識を増し、複雑な表現方法を身につけながら、死ぬまで自己を表現し続けてやむことがありません。それが神業(かんわざ)としての人間の姿です。一瞬一瞬、自己表現する連続が人生です。
(2)「ゆりかごから墓場まで」
 「人の一生」を現すとき「ゆりかごから墓場まで」という表現がよく使われます。
 第2次世界大戦終結後すぐの総選挙で、イギリスの労働党は「ゆりかごから墓場まで」(from the cradle to the grave)というスローガンを掲げました。「戦争は終わった。これからは新しい時代が始まる」という新鮮なアピールでした。
 ゆりかごに入れられている赤ちゃんのときから、老人になって亡くなり、お墓に入るまで、生まれたときから死ぬまで、国民に充実した社会保障制度を実現しますという労働党のスローガンでした。

3.第一感による自己表現

(1)第一感は誠
 初代教祖は「第一感は誠であり、真理であり、神慮である」、「人は第一感に生きるべきである」と説きました。
 第一感とは、最初の気付き、直観のことです。将棋の用語で、「ある局面で初めに思いつく手のこと」とされているとのことです。
(2)迷わず第一感に従う
 二代教祖も第一感による「自己表現」の大切さを説いています。
  〝処世訓第2条の「人の一生は自己表現である」の自己表現は、第4条「表現せざれば悩(なやみ)がある」、第19条「悟る即(すなわち)立つ」からしても、気付いたことは直ちに表現する、そういう自己表現でなくてはならない。悩んでいる状態、考え込んでいる状態、第一感をのがした表現ではなく、第一感による自己表現によって日常生活に臨むのがよいのです。〟
  〝簡単なことにでも、いちいち迷ったりこだわったりする人がいます。朝の出がけに、「今日は傘を持っていこう」と思ったら、持っていったほうがよいのですが、それを「待てよ、傘を持っていくのはいいが、もしも電車の中に忘れたら困るぞ」、「降るかなあ、降らないかなあ」というふうに迷うのがいけないのです。たとえ傘を持っていって無駄になったとしても、持っていこうと思ったら持っていったほうがよいのです。〟

4.誠の表現と我(が)の表現

 自己表現には、誠の表現もあり、我(が)の表現もあります。自己表現にグレード、段階があるのです。
 誠の表現は神の方向性に沿った表現、品位ある表現です。「自他祝福」となる表現です。そうでない表現が我(が)の表現です。わがまま勝手な自己表現のことです。
 神の方向性とは「世界平和の為の一切である」(PL処世訓第14条)という方向性です。二代教祖は「世界平和」に「よのためひとのため」とルビをふられることがしばしばでした。
 「平和」とは調和であり、バランスです。世界に戦争がないことは、世界が平和であることのある在り方の表現です。たんに「戦争がないこと=世界平和」というだけではなく、世界平和とはもっと大きな意味を含んだ言葉です。

5.自己と自我

 PL処世訓にはこの第2条の「人の一生は自己表現である」のほかに、自己の在り方を分析した「自己は神の表現である」(第3条)、「感情に走れば自己を失う」(第5条)、「自他を祝福せよ」(第10条)の教えがあります。
 「自己」(第2条、第3条、第5条)、「自」(第10条)は肯定的な意味、良いものとイメージされます。
 ところが、「自我無きところに汝(なんじ)がある」(第6条)の「自我」は無い方がよいもの、つまり否定的な意味、良くないものというイメージです。
 「自我」はこの世のしがらみ(物質欲、嫉妬、自尊心など)にからめ捕られ、我欲にまみれた自分、自分のための自分、自分にとらわれた自分です。
 「自我無き」とは「我(われ)なし」のことです。我欲を滅却した心境です。我欲にまみれ、執着した自分など、実は「無い」のだ、と気付く心境です。あるのは「神だけ」、「神の表現である」自分があるだけで、「自分のための自分」(自我、我〈が〉)など無いと気付いた心境のことです。
 欲望そのものが悪いのではありません。我欲がいけないのです。欲望そのものは生命体である人間の本性です。食欲、生存したいという欲望などがなければその生命体は滅びるほかなくなります。大切なのは欲望の方向性です。また、度を過ごさない、欲望にとらわれすぎないことです。
 二代教祖は次のように説いています。
  〝自分にとらわれると、芸術が小さくなります。同時に、怒り、急ぎ、憂え、悲しむ、といった感情もおこりがちになります。自分の考えにとらわれるために、ああでなくてはいけない、こうでなくてはいけないと、物事を決めてしまうのです。物事を決めてかかれば、当然、あちらこちらに抵触することになり、抵抗が生じてくるようになります。自己表現の調子が狂うようなことになるのです。
  PLを信仰する人はすべて、常に、何事にもとらわれない自分を養っていくように、信仰し、修養していただきたいと思います。
  人間がとらわれるのは、たいていの場合、物質欲であり、肉親愛であり、男女関係といったようなものが、大部分のようであります。そういうものにとらわれては、第5条にもありますように感情に走り、自己を失うようなことになるのです。〟

6.自己表現するときの心構え

(1)「誠は表現して成る」
 何事によらず気(誠意)ばかりでは何にもなりません。目に見えない内面の気(誠意)が外に目に見える形に表現されることが大切です。人は自分の誠意を表現して、形に表して、はじめて誠の人となります。自己表現する、芸術することによって誠が誠となるのです。
 「芸術とは物事に誠をこめることである」と二代教祖は言われました。誠をこめるとは、表現することに創意工夫し努力することです。
〝誠は表現して成るということであります。いくら心に誠とか親切心があっても、自己表現というたてまえからいえば、それだけでは無意義だということであります。自分独特の誠・誠意・親切心というようなものも、表現されてこそはじめて意義を生ずるのであります。〟
(2)「謙虚な境地」と自己表現
 二代教祖は「謙虚な境地をもっていてこそ、真の自己表現ができる」ことをひとのみち教団時代における初代教祖との対話を引用し、教示しています。
  〝かつて私は教祖さまに「おしえおやさんは、神さまなど拝む必要はないでしょう」と言ったことがありますが、教祖さまは「とんでもない、俺は神さまが一番こわい、神さまを拝まずにはおれない」と申されました。
  「天人合一の境地にあり、神に依(よ)りきっておられるおしえおやさんとしては、神さまなど拝む必要はないと思われますが……」と申しますと、「いやいや、自分では神に依(よ)っているつもりでも、神の目から見たら依(よ)っていないかも分からない、その点なんの自信もない、そう思えば神さまを拝まずにはおれない」というようなことを申されました。
  こういう謙虚な境地をもっていてこそ、真の自己表現ができるのです。それはまた「一切は進歩発展する」「世界平和の為の一切である」という境地を持した姿でもあります。物事に対する場合この謙虚さがありませんと、知らぬまに事務的な機械的な自己表現になっていく恐れがあります。自己不在というか、心なき説明の歌のようなことになりかねないのであります。〟
 説明の歌とは、詠われている対象と使われている言葉がチグハグで、美し過ぎたり、強過ぎたりして、浮いてしまって、よそよそしいものになっている歌のことです。「芸術(モノ)になっていない」のだと二代教祖は端的に表現しています。
 〝吾の中にバランス保つ現代詩と短歌 このたぬしさは人知らざらん〟  −−二代教祖旧作

7.表現は積極的に

 自己表現の幅は広ければ広いほどよいものです。その人の目的とするところ、イメージに従ってのびやかに、ゆったりと、そして積極的に表現していくところに喜びや楽しさがあり、道は限りなく開けていくのです。
 二代教祖は次のように教えています。
① 〝人間は、生きている限りは常に自己表現をしてやまない。目がさめている間はいっときもじっとしていない、というくらいの決意をして、暮らしていく必要があるのであります。そういう人は、人生において非常にとくをすることになります。〟
② 〝自己表現を遠慮する人があります。表現すべきことを差し控えては、ついに無表現になり、無表現の時間を送る人が多いようです。これは非常な間違いであり、ひとつの不徳ともなるのであります。
  自己表現は、あくまで積極性を意味するものであり、神は、人間に積極的な自己表現を要求されるのである。ところが、積極的どころか優柔不断といわれるような人があって、表現すべきことをもちながら、表現をちゅうちょしたり怠ったりしますが、それは不安、怠惰、妥協の心からであり、いちばんつまらない態度というべきであります。
  せっかく人間として生まれ、尊い個性を与えられながら表現しないということは、宝のもちぐされも同じことであります。〟
③ 〝自己表現には、狭く深くいくという方法もあれば、範囲広くいろいろな面にわたって、自己表現をしていくといういき方もあり、それはその人の性格にもよることでしょうし、その人の自由でよいわけであります。
  私自身、自己表現の場は広いほどよい、と思っておりますし、生きている限りは数多くの自己表現をし、できるだけたくさんのことをしたいと思っております。そうなれば、自己表現は、奥の浅いものになるのがふつうですが、私は広くしかも深い自己表現をしてみたいと思います。後世に残るような、世界的な自己表現をしたい、という夢をいつももっておるのであります。
  この燃ゆる 焔絶えなん 時知らに 己が一生(ひとよ)は 夢と過ぎてん
  これは私の歌でありますが、自分の一生は夢のように終わるかもしれないが、それでも、いい気持ちであり幸福だと思う。空想だけの夢物語に終わったとしても、そういう夢をもっていることはうれしいではないか、という意味であり、そういう気持ちをもち続けて、今日に至っているのであります。もちろん、私はたんに空想しておるだけではありません。自分の夢はきっと実現してみせると思っております。〟

8.すべての神業(かんわざ)を肯定する

(1)癖も芸術の素材です
 人には癖があります。「無くて七癖」といわれるように、人にはいい癖も悪い癖もありますが、たんに「癖」と言う場合には、悪い癖を言っている場合が多いようです。
 癖には「行い癖」と「心の癖」があります。行い癖はちょっとミスがあると頭をかくとか額をたたくとか、人を見る時に上目遣いで見るとか、扉をいつも乱暴に閉めるとか……いろいろです。心の癖はこれまた千人千様で、さまざまです。自分の思いを変えたくない、自分の思いを物差しにして判断するといった「強情」。小さな不都合が起きただけでも先のことを不必要に心配する心配性。嫌いな人はどこまでも嫌いという排斥性。すぐ楽をしたがるという怠惰……など、キリがありません。
 癖も広い意味で芸術の素材です。癖を捨てようと思っても、かんたんに捨てきれるものではありません。私たちは謙虚に神に向かい、常に神に心通わせながら、癖すらも神から授かった素材として芸術できるよう神に祈るのです。いつも自分の悪い癖を横目に見ながら、自覚して、つまり自分にはこういう悪い癖があると冷静に自分を観察(凝視)しながら自己表現する、芸術するのです。
(2)「yes, but…」
 癖も含めて、すべての神業(かんわざ)を肯定して、芸術の素材と捉え直していくのです。芸術は素材である神業を肯定することから始まります。「芸術する」とは、神業を肯定し、芸術の素材として受け入れることができるということです。
 そうしますと、「みしらせ」も自分をグレードアップさせるチャンスであると思えるようになります。ピンチがチャンスとなってくるのです。世界が変わって見えてくるようになります。すべての神業(かんわざ)をいったんは肯定し、受け入れ、一転、これを素材として自己表現、芸術していくのです。「yes, but…」(そのとおりです。しかし…)の心構えです。

9.〝芸術は「今」を生きる爆発なのである〟

 自分が失敗したときに、「本当の自分はもっとちゃんとできるはずだ」、「こんな自分は本当の自分ではない」などと思うのは間違いです。失敗した「今」、「ここ」にいる自分自身以外に別の自分などないのです。人は常にその時その時の自己を表現しているのですから、その時表現された自己以外の自己が別に存在しているはずはないのです。
  〝人が生きているのは現在すなわち「今」であって、過去でも未来でもない。過去を断ち切り、未来を遮断し「今」に全力投球する、その連続が人の一生である〟
  〝芸術は「今」を生きる爆発なのである〟