PL教団は、ひとのみち教団の教えを包含しています。ひとのみち教団は徳光教の教えを引き継ぎました。徳光教の立教者で初代教祖の金田徳光日知が修得された「みしらせ、みおしえ」の教えがずっと引き継がれてきているのです。徳光教の二代教祖である徳光日知の嗣子には、「みしらせ、みおしえ」の教えが不完全にしか引き継がれませんでした。他方、御木徳一日知は、徳光日知の遺言どおり「ひもろぎ」を守り続け、教訓「3ヶ条」をみおしえによって授かって、徳光日知の正統な後継者として顕れたのです。「みしらせ、みおしえ」の教えを完全に引き継がれた徳一日知は、ひとのみち教団を立教し、その初代教祖となりました。
御木徳近日知は、1936(昭和11)年9月27日、ひとのみち教団の二代教祖となりましたが、翌日から当局の宗教弾圧が始まり翌年4月28日にはひとのみち教団は解散させられ消滅してしまいました。
徳一日知は1938(昭和13)年7月6日に亡くなりました。徳近日知は不敬罪で刑事被告人とされましたが、保釈されていましたので、歌会を開くなどして教えを説き続けておられました。私も当時、歌会に参加したことがありました。
1945(昭和20)年2月8日に身柄を拘束され、そのまま10月9日まで徳近日知は入獄していました。ひとのみち教団消滅後、徳近日知は、その教えを極め尽さんと修行を重ね、ついに「人生は芸術である、楽しかるべきである」と悟得されたのです。「世の中にあらはれたる一切のものは皆ひとをいかす為にうまれたるものと知れ」とのひとのみち教団の教えは「一切の神業は、ひとのなす芸術の素材である」と捉え直されたのです。ひとのみち教団消滅後も私どもは徳近日知を「二代さま」とお呼びしていました。
1946(昭和21)年9月29日徳近日知はPL教団を立教され、その初代教主となられたのです。1947(昭和22)年9月29日にPL処世訓を神授かり、1958(昭和33)年5月29日には「祖遂断(おやしきり)」神事を造型されました。
1955(昭和30)年3月13日、富田林に教団本部神霊を遷座(せんざ)する祭典の折、徳近日知は「徳光教、ひとのみち教団、PL教団」という時代を異にするが、ともに「みしらせ、みおしえ」の教えを基盤とする3つの宗教団体をあたかも1つのものの如く捉えて「本教」あるいは「この教え」とし、本教(この教え)においては「代々教祖が顕れる必要がある」との教義を説かれました。「顕れる」ではなく「顕れる必要がある」のです。顕れることが期待されているのです。しかし期待されていても事実としては顕れないかも知れません。
この教義の萌芽はすでにひとのみち教団時代にあったのです。徳光教の初代教祖金田徳光日知が亡くなって二代教祖を「継承」した方には「みしらせ、みおしえ」の教えが完全には引き継がれず、徳光教からすでに離れていた御木徳一日知にこそ「みしらせ、みおしえ」の教えが完全な姿で顕れていたことを、徳一日知は教義として世に示さんとされたのです。徳一日知は、徳光日知の教えを極めるとともに、その教えを超えられたのです。
徳近日知は、さらにその徳一日知の説かれた教えを極めて超えたと自覚され、「私はPL教団の初代教主であるが、本教(この教え)における二代教祖である」そして「徳一日知が初代教祖であり、徳光日知は幽祖(かくりおや)である」と宣明されたのです。ひとのみち教団時代すでに徳光日知が幽祖と位置付けられていたのを「本教(この教え)」の教義の中に包摂されたのです。そして「代々教祖が顕れる必要がある」と言われたのです。
徳近日知は、二代教祖という教義上の地位に基づいて、1959(昭和34)年12月8日三代教祖と期待される地位としての「嗣祖(つぎおや)」に御木徳日止師を置かれ、1979(昭和54)年9月2日には四代教祖と期待される地位としての「攝事祖(せつじおや)に御木貴日止師を置かれました。これらの地位は「教祖」の地位と同じく宗教団体の組織上のものではなく教義上のものです。PL教団の組織に教祖はなく、あるのはPL教団の教憲で定められている「教主」だけです。「嗣祖」「攝事祖」についても、教憲などの規則にその地位についての定めは何もありません。「教祖」「嗣祖」「攝事祖」はPL教団の組織を超えた信仰上の尊い称号、尊号だったのです。
