PL処世訓第5条「感情に走れば自己を失う」 | 御木白日のブログ

御木白日のブログ

学習院大学 仏文科卒業。大正大学大学院文学博士課程修了。
詩人活動をとおして世界の平和に貢献。

 ※文中〝 〟内は二代教祖のお言葉です。

1.感情を芸術する

(1)芸術と感情
  〝人生は芸術であり、人の一生は自己表現であります。感情も芸術——自己表現——のために使われるべきであり、りっぱな自己表現になるような感情の使い方にならなくてはいけないのです〟
  〝人間は感情の動物です。感情のない人間はいないのですから、感情を芸術することが大切です〟
  〝人間に感情があるからこそ世の中の美しさもある〟
  〝ほどよく感情を出した人の姿は実に美しく感じがよく、人の心を楽しくするものです〟
  〝私は今おしえおやとしてPLの教えを説きPL教団を主宰しておりますが、このおしえおやのいろいろな姿や教団のいろいろな在り方は、すべてこれ私の宗教的な感情を造型している姿といってよい〟
 いずれも感情についての二代教祖の言葉です。
 「感情の使い方」、「感情を芸術する」、「美しさ」の根源としての感情、人を「楽しくする」感情、「宗教的な感情を造型する」が二代教祖の教えを理解するためのキーワードになります。
 感情自体は悪いものではなく、豊かであるほど素晴らしいものであること、しかし感情に「走る」、度が過ぎる、と途端に悪いものになってしまうのです。
 人は生まれながらに神から感情を授かっています。ですから、人はイメージ豊かに神業(かんわざ)と関わりつつ、感情をも素材として楽しく芸術することになるのです。
 ところが、感情を芸術の素材として客観化(対象化)しきれませんと、生のままの感情がそのまま残ってしまいます。客観化された感情と生のままの感情が同時に存在しているのが人間の姿です。
(2)感情と理性
 理性は物事を合理的、論理的に考え、究明する能力、つまり「推理能力」です。他の動物にはみられない人間のみのものです。
 「理性は感情の奴隷である」と言ったのは、イギリス経験論哲学の完成者ヒューム(1711〜1776)です。ヨーロッパの哲学の伝統では人間の倫理性は理性からくるものと考えられていますが、ヒュームは、倫理(人として踏み行うべき道)は情念から生まれると考えたのです。感情のうち、一過性の情緒に対して、愛着・嫉妬(しっと)・憎悪・野心など、持続的な感情が情念です。イギリス経験論哲学に対するヨーロッパの大陸合理論哲学を代表する哲学者ドイツのカント(1724〜1804)はヒュームから大きな影響を受けました。カントはヒュームによって自分の哲学が独断的であることに気付かされ、「独断のまどろみ」から醒(さ)めることができたと語っているのです。
 人間にとって感情は理性を支配するほどに強力なものです。それだからこそ、それを上手に使うことができれば素晴らしい芸術となりますし、逆に使い方を間違えるとその人の芸術を台無しにしてしまうのです。

2.芸術の素材としての感情

(1)感情は芸術の素材であることを「知る」
 感情に「走る」とは、度を過ごすことです。感情に溺れることです。感情も人を生かすための神慮であり神業(かんわざ)ですから、これが芸術の素材であることを「知る」ことによって、素材である自分の感情を生かしきろうと意欲し、大いに創意工夫して芸術する = 自己表現することができるようになります。自分の感情を自分自身から切り離して対象化(客観化)して芸術の素材としてしまうのです。そうなれば、感情に「走る」ことはなくなるでしょう。
 そして、「自己を失う」とは、本来の自分ではなくなり、本来の自分であればできるはずの芸術ができなくなることです。
 〝初代教祖は強情を善用された方であった〟二代教祖の言です。
 初代教祖はご自分の強情を理性で捉えて、これをコントロールし見事に芸術の素材とされたのです。
(2)「我(が)」となる感情
 感情そのものはその人の個性となっている大切なものです。個性である感情も度を過ごすと相転移(そうてんい:同じ水でも温度の変化で気体=水蒸気、液体=水、固体=氷、と状態が変わるような現象)がおき、我(が)になるのです。それが習慣づけられると癖になります。癖もよい癖、よくない癖、さまざまです。また、きれい好きであるとか、物をきちんと整えておくのが好きといったよい癖であっても、きれいにしない人や物をきちんと整えない人を見ると、不足に思い腹が立つというふうに度を過ごすと我(が)になるのです。
 〝我(が)は癖である〟と初代教祖はいわれましたが、が高ずると癖となって現れ、癖が高ずると我(が)がより激しくなるのです。我(が)と癖は双子の兄弟です。「感情に走る」のは「我(が)」の現れです。
 初代教祖は、〝誠なる心を誠にせぬものは 己が癖ある我(が)とぞこそ知れ〟と詠(よ)まれています。
 そこに「自我無きところに汝(なんじ)がある」(PL処世訓第6条)の教えの神髄もあります。
(3)「みしらせ」はピンチでなくチャンス
 感情に走っていることに気が付いて直せる場合はよいのですが、自分で気が付いても制御できない場合、自分で気が付かないままの場合が問題です。我(が)にとらわれ、自己を失った状態にあるとき、人は病気になったり、怪我をしたり、災難にあったりと「みしらせ」を受けやすくなりがちです。自分で気が付いている場合のほうが我(が)を去り、本来の自己を取り戻すのが容易でしょう。
 「みしらせ」はピンチでなくチャンスなのです。「みおしえ」を守らせていただき、我(が)のない状態、「みしらせ」以前の状態に戻すだけで満足することなく、自分自身をさらにグレードアップさせる神から授かったチャンスとすることができるのです。
 そのためには、自分の感情を芸術の素材であると、とりあえず肯定するのです。そして、その感情をストレートに言動に現すことなく、それを「素材である」と客観的に捉え、対象化して、人から見て「気持ちがいいな」と思われるような言動に芸術して表現するように心掛けるのです。「yes, but…」(そのとおりです、しかし…)の心構えです。

3.「怒る、急ぐ、憂うる、悲しむ」

 私たちはいろいろな「感情を持つ」、「感情に襲われる」、あるいは「感情に支配される」という実感を日常的にもっています。
 中でも、「怒る、急ぐ、憂うる、悲しむ」の感情に悩まされることの多いのが私たちです。
① PL遂断詞(しきりことば)は「怒る事なく 急ぐ事なく 憂うる事なく 悲しむ事なく」と教えています。感情は怒る、急ぐ、憂うる、悲しむの4つに限られるわけではありません。ねたみ、憎しみ、うらみ、等々いろいろあります。その中で、この4つはどんな人にとってももっとも身近で、しかも心身に悪い影響を及ぼすものです。
② 悲しむことよりも憂うることが、憂うることよりも急ぐことが、急ぐことよりも怒ることが神にとがめられ、その人らしさが失われ、自己表現の妨(さまた)げになると二代教祖はいいます。激怒する、激高すること、腹立て、癇癪(かんしゃく)はとくに芸術の妨(さまた)げになり、人生をゆがめることになります。
③ 怒ること自体が悪いのではありません。人間、怒る必要のあるときもあります。そのようなときには怒らなければならないのです。
 しかし、度を過ごしてはいけないのです。怒っている最中に「これは過ぎているな」と心が感じる時があるはずです。そう思えた時に抑えると神はとがめません。度が過ぎて腹立て、癇癪(かんしゃく)をおこした姿は見苦しいものです。

4.「感情に走れば」

(1)「感情に走るな」と「感情に走れば」
 「感情に走るな」でなく「感情に走れば自己を失う」とされていることに心しなければならないと思います。
 「人生は芸術である」と悟得された二代教祖は、芸術する主体であるあなたが感情に走るとどうなってしまうか、自己を失い、良い芸術ができませんよと教えるのです。そのため、たんに「感情に走るな」ではなく、「感情に走れば自己を失う」なのです。走るな、の後に一拍あって、良き芸術を心掛けなさい、と続くのです。「人生は芸術である」の教えが常に中心にあるのです。
 感情を持ったり出すこと自体がいけないのではなく、感情に「走る」のがいけないのです。
 「感情に走る」その出発点は不足心です。不足心をコントロールできずに高じてしまうと感情に走ることになるのです。
(2)度を過ごす
 「走る」とは、溺れる、つき過ぎる、とらわれる、激発すること、つまり「度を過ごす」ことです。
 人が感情に走るのは、自分の思うとおりにならないからで、物質欲、名誉欲、自尊心、見栄、肉親愛などの欲望をコントロールできないことがその原因となります。
(3)虚(うろ)が廻(まわ)る
 「虚(うろ)が廻(まわ)る」という言葉を二代教祖はよく使われました。「虚(うろ)」とは「うつろ」、中がからっぽということです。激昂して感情に走ると、自分がすべてうつろになって物事が見えなくなり、実践においても誠がおろそかになります。それは自己を失った姿です。
 感情に走ると人は本来の自己を失ってしまいます。
 「自己を失う」と自分自身を客観的に見ることができなくなり、物事を理性をもって冷静に見ることもできなくなります。「我(われ)を忘れる」という言葉がありますが、自分が何をしようとしているのか分からなくなる状態です。そのような状態での自己表現(芸術)には、その人独特の持ち味、個性が十分には現れてきませんから当然楽しくありません。「人生は芸術である、楽しかるべきである」からして、「感情に走ってはいけない」度を過ごしてはいけないと神はいましめ給(たま)うのです。

5.自己を失う

(1)感情に走れば理性を失う
  〝感情に走れば理性を失います。理性を失うどころか自己を失った行為をするわけです〟
  〝感情に走るときは自分でもよく分かっている…。ここで腹を立てたりかんしゃくを起こしたりすればこういう結果になるだろうというくらいはちゃんと分かっているものです。神さまはちゃんと気をつかしてくださるのです。だからそこで用心すればよいのですが、それを敢えてふみこえてしまうのです。…
  信仰をしておりますと、そういう場合でも、ぐっとふみこたえて感情に走らずにすむのです〟
(2)自己を失わない感情の出し方
 自己を失うとは、芸術する主体である自己がどこかにいってしまい、自分本来の芸術をすることができなくなることです。
 初代教祖は決して自己を失うような感情の出し方をされませんでした。
 ひとのみち教団時代の教師の次のような述懐があります。
 「こっちがちぢみ上がるほど叱り飛ばしたかと思うと、そこへ他の問題で、別の人が入って来ますと、途端に、にこにこしながら、『おお、そうかそうか』と言って、話しておられるのです。そして、こっちを向いては、『大体お前は、』と怒鳴られる、つまり右を向いては笑えるし、左を向いては怒れる、かように、己の感情を自在に、器用に使い分けができる処までいけば、腹をたてても一向にみしらせにはならぬというわけです」

6.「怒(おこ)る」と「叱(しか)る」

 ある方が、自分が孫をしつけのつもりで𠮟ったら、奥さんから「孫にそんなに怒ってどうするの、やめなさい」と言われ、奥さんに「自分は怒ったのではない、いけないことをしたので、しつけのために𠮟ったのだ」と言われたそうです。この「怒る」と「しつけ」の関係は、世間でもよく話題になり、テレビのトーク番組などでもよく取り上げられる問題です。
(1)「感情」としての怒(いか)りと「理性の情」としての怒(いか)り
 西欧人は怒りでも「感覚の情」である「感情」としての怒りだけでなく、「理性の情」としての怒りを区別する文化と伝統があるそうです。「理性の情」は理性によってよく抑制(コントロール)された状態の感情といってよいかもしれません。「強情を善用された」初代教祖の「強情」は「理性の情」といえるかもしれません。
 私たち日本人は「怒り」を純粋に感情としてのみ捉えがちです。しつけとして孫を叱った方は「理性の情」をしっかり正確に区別されていたのでしょう。「怒る」が「感情」としてのものとすると、「𠮟る」は「理性の情」です。
 「理性の情」を「知る」ことが大切です。それによって感情の爆発、感情に走ることをコントロールできる道が開かれてきます。
(2)「主観的=感情的」と「主観的=理性的」
 私たち日本人は「あなたは主観的ですね」と言われると、自分がいかにも感情的な人間であると否定的に評価されたと捉えてしまいます。「主観的=理性的でない=感情的」となってしまうからです。
 私たちは、明治の文明開化以来、西欧の学問的伝統を受け入れるにあたって、「理性」とは「科学」を支える「客観性」そのものと考え、「主観性」は「理性」と矛盾するもの、否定しなければならないものと捉えてしまったようです。
 明治以降、西洋の学問・知識(「洋才」)は学び取るが、日本固有の精神(「和魂」)は捨てないという「和魂洋才」というやり方が基本でした。「洋才」を生み出してきた西欧固有の精神であるキリスト教には目をつぶったのです。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教という一神教の神は、人格神で、「神の怒り」とか「神のねたみ」などの理性の情を発揮する神です。
 ですから、そのような文化的な伝統のない私たち日本人にとっては、一神教の神に由来する理性の主観性とか理性の情といわれてもなかなかピンとこないのです。
 日本の伝統的な考え方では、仏教の影響もあって、自我は主観的で「感覚的、身体的」ですから本来捨て去るのがよく、客観的であるとは、自我(主観)から離れた状態なのです。
 ところが、西欧の人々にとって、主観は理性的・精神的なものです。その主観には外から何かを受け止めて、それに対して反応する受動的な「情」(パトス)があって、理性が受け止める「情」があると考えるのです。それが「理性の情」です。それは感覚が受け止め生ずる「情」(「感情」)とは別のものだというのです。したがって、「感覚的、身体的」な「感情」は人間にふさわしくない動物的なものになります。
 西欧の人々は人間の自我(理性的・精神的なもの)は、神に由来する「理性の欲求」をもち、それを「自由意志」と考えます。「理性的自我」は「欲求の主体」なのです。その「理性の欲求」が思いどおりに実現できるか、できないかによって一定の「情」が起きることになります。「理性的自我」に「悲しみ」、「喜び」、「ねたみ」などの「情」が湧いてくるのです。
 欲求をもつ自我は己の利を求めるのが普通ですから、「理性的な利己的自我」もあり得ることになります。ところが、私たち日本人は利己的で主観的であることは「理性」とは矛盾すると考えてしまいます。
 ですから、西欧の人たちと付き合うとき、とくに議論をするときにはそのことを頭に入れておく必要があります。議論は主観と主観のぶつかり合いですから、それは西欧人にとって理性と理性のぶつかり合いです。議論が終われば、日本人のように感情的なしこりが残ることはないといわれます。日本人は議論が苦手です。日本人の場合、主観と主観のぶつかり合いである議論は、感情と感情のぶつかり合いですから、議論が終わっても、感情的なしこりが残ってしまうのです。そのため、私たちはなるべく人との議論を避けようとしてしまうのです。
(3)「個性」の感情的側面と理性的側面
 理性が客観的なものであるとすると、Aさんの理性もBさんの理性も同じものですから、Aさんなりの、Bさんなりの、独持の理性の在り方、理性の個別的な性格(個性)の区別がつかないことになります。感情の個別的な性格(個性)だけで個人は区別されることになって、理性の個別的な性格(個性)は感情の個別的な性格(個性)に吸収されてしまうことになりかねないのです。
 他方、理性は客観的でなく、個別性(個性)があり、それぞれの人の理性の「主観的欲求」や「主観的情動」の違い(個性)によって区別できるのであり、そのように理性は主観的であると西欧の人々は考えるのです。
 多くの日本人にとって、自我は感覚的で身体的ですから、一人一人違う身体をもち、感覚をもつからこそ自我、人格は個別的であって個性的であると考えられます。理性の個別的、個性的な側面は感情的な側面に覆われてしまうことになりかねないのです。
 私たち日本人は、ある人の「個性」をいうとき、怒りっぽいとか気が短かいとか、その人の感情的な側面だけを考えがちで、理性的な側面からの「個性」ということには無関心です。「理性的か理性的でないか」だけで、「どのように理性的か」までには目がいかないのです。

7.感情についての教え

(1)幽祖の教え
 幽祖(ゆうそ、かくりおや)は人が病いとなる主たる4つの原因、「怒り、急ぎ、憂い、悲しむ」を忘れてしまうことを修行によって会得されたそうです。
 しかし、そのような修行、「忘れる境地」は特別な能力をもっている人、「達人」だけにできることです。普通の人々にとってはむずかしいことです。通常の意味で能力のある人、その道を極めた人を「名人」といいます。ある一定以上の能力をもっている人であれば、努力次第で「名人」となることができます。ところが、「達人」は違います。その人のもっている能力はありきたりのものではなく、特異なものなのです。「類例のない」能力ということになります。
(2)初代教祖の教え
 初代教祖は「怒り急ぐ憂へ悲しむは物事を崩す」(ひとのみち教団の人訓第17条)と教えられました。
 「怒り、急ぎ、憂い、悲しむ」という感情が「物事を崩す」、つまり、あなたがやろうとすることや、あなたと周りの人との関係などを台無しにしてしまうのです。
 初代教祖は、度を越した感情の向かう対象、客体がどうなってしまうか、という視点に立たれ、怒り急ぐ憂へ悲しむは「物事を崩す」と教えられました。芸術する人(主体)が感情に走っていると、その人の行う芸術の対象はどうなってしまうかという視点に立たれるのです。
(3)二代教祖の教え
 「人生は芸術である」と悟得された二代教祖は、「怒り、急ぎ、憂い、悲しむ」という感情が「芸術する」=「自己表現する」主体にどのような影響を与えるかという視点から、「感情に走れば自己を失う」と説くのです。感情にとらわれ過ぎると、芸術する主体であるあなたの個性が台無しにされてしまい、あなた本来の自己表現、芸術ができなくなりますよと教えるのです。
 初代教祖と二代教祖は同じことを別の側面から、つまり「物事を崩す」、「自己を失う」と表現しています。
 同じ悟りの境地(みおしえの境地)を初代教祖は「客観の境地」、二代教祖は「主客一致の境地」と表現されたことに通ずるものです。
  〝人間としての生活の目的は真実に生きることです。自己の真実に生きるところに生存の意義もあるのです。自己の真実に生きるにはまず神にるべきであります〟
  〝日夜神を礼拝し、神の道を守るべく努力する、そういう信仰生活に生きてこそ、ようやく感情に走らずにすましていただくことができるのです。すなわち神にる以外にあなたの真実を顕現する道はないということです〟
 感情に走らないとは自分の真実に生きることであり、それは神に依(よ)る生活です。物事をするにあたり、これでいいのかな、これでいいのかなと常に自分を見ているもう一人の自分という視点を持ちつつ(「two in one」の在り方)、神に祈り、神を心に入れて臨むのです。
 一切の神業は芸術の素材であると気付くこと。それには、まず神業はすべて肯定することです。そして、その神業を芸術の素材として、創意工夫し誠をつくして芸術していくのが、人の踏むべき道です。それによって、人は感情をコントロールすることができ、楽しく芸術することができるのです。