「人は平等である」(PL処世訓第9条) | 御木白日のブログ

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学習院大学 仏文科卒業。大正大学大学院文学博士課程修了。
詩人活動をとおして世界の平和に貢献。

 「人は平等である」の教えにはいろいろな意味が込められています。

1.神の子としての平等

 すべての人は神から分霊をいただき、芸術すべく生かされ、生きていることにおいて平等です。
 人類ことごとく神の子ですから、すべての人は平等なのです。

 初代教祖は「わが子も他人の子も同じである、等しく神の子である」と教えておられます。

 二代教祖は言われます。

 “人は平等です。男性も女性も目上も目下も、学問のある人も無い人も、豊かな人も貧しい人も、人として全て平等なのです。人はそれぞれ独自の個性を与えられ、真の自由の機能を与えられた神の子としての存在なのです。己を虚しくして人を尊び、相手の人格を立て相手の表現を尊んでいくところに、初めて「人は平等である」の原理に適う事になるのです。またそうする事が自分でも気持が良いし、楽しいのであります。自分も人から尊ばれる事になるのです。「人は平等である」のにかかわらず、人を粗末にするような事をするから、自分もまた粗末にされるような神業になるのであり、人を無視するような事をするから、自分もまた人から無視されるような事になるのです”

2.「人生は芸術である」における「平等」

(1)すべての人は芸術することにおいて平等です。自己表現するときにおいて人はすべて平等です。
 その人の持ち味であるその人独特の個性を十分に発揮して芸術する、自己表現することにおいてすべての人は平等です。

(2)視点を変えますと、他の人の芸術を見るとき、その人独特の個性が十分に発揮された芸術となっているかどうかを相互に対等の立場で鑑賞し、評価することにおいてすべての人は平等です。それぞれの人がお互いに相手の人格を承認しあい、お互いの芸術を評価しあうことが人が平等であることの基本です。
 他人にへつらった芸術ではいけません。他人を見下した芸術もいけません。そのような芸術は芸術としてレベルの低いものですから、他人からひとかどの人物として承認してもらうことはできません。

(3)おたがいに自立した自由な立場においておたがいの芸術を承認し、承認されることによって、はじめて人は自分の芸術に、そして自分自身に自信と誇りを持つことができ、もっとすばらしい芸術をしよう、もっとすばらしい人間になろうという意欲がわいてくるものです。その積み重ね、繰り返しによって、人はグレードアップして行くのです。

(4)つねに神業を肯定して、それを芸術の素材として積極的に芸術する、自己表現していくのです。神業を「イヤだなあ、」と否定的に捉えて自己表現に消極的になるような生活をしていては楽しくありません。
 常に「yes,but…」と神業をまず肯定する、しかし受動的なままでいるのではなく、その神業を素材として積極的に芸術して行こうと意欲する能動的な人生のあり方が大切です。否定や受動だけでは、すばらしいものはなにも生まれてきません。
 自己表現の有無、程度によって、幸福になったり、不幸になったりすることではすべての人は平等です。
 「となりの芝生は青い」と他人を羨むばかりでは、いつも不平不満にとりつかれ、自己表現がおろそかになり、幸せにはなれないものです。「置かれた場所で花を咲かせなさい」と言われた方がいましたが、そういう心構え、心意気が大切です。

3.「法の下の平等」と「男性には男性の、女性には女性の道がある」

(1)人は法の下において平等です。
 国の法律はすべての国民に等しく、公正、公平に適用されます。「法の下の平等」といわれるものです。
 二代教祖が「PL処世訓」21ヶ条を「みおしえ」により神授かられたのは昭和22年9月29日でした。男女平等をはじめとする「法の下の平等」を国民に保障した日本国憲法が公布されたのは前年(昭和21年)11月3日、施行されたのはこの年(昭和22年)の5月3日だったのです。
 戦前は男女を差別した法律が少なくありませんでした。たとえば、結婚している女性はご主人の許可がないとできないことがいろいろありましたし(「妻の無能力」といったそうです)、結婚している女性にだけ適用された「姦通罪」がありました。また、女性には参政権が認められていませんでした。
 男女平等は敗戦直後の日本にとって最も大切な問題の一つでしたが、我が意を得たりとばかりに二代教祖は男女平等について力を込めた解説をいろいろされておられます。「時代の要請」に二代教祖は見事に対応しておられたのです。

(2)そのうえで、なお、「男性には男性の、女性には女性の道がある」(PL処世訓第13条)とも二代教祖は教えられるのです。
 「人生は芸術である」からには、男性と女性の自己表現には、平等な人間として共通したところがあるのは当然ですが、男性の自己表現と女性の自己表現には自ずと違いがあるのです。
 最近のフェミニストの方々は「それは男女差別につながる、けしからぬことだ」といわれるかもしれません。
 しかし、それはちがうのです。「差別」と「区別」とはちがうのです。人としての芸術、自己表現をグレードアップして行こうとするならば、自分が男性であること、女性であることを無視するのではなく、そのことをも素材として加味した芸術、自己表現をする方がよほど自然であることは明らかです。
 「人は平等である」(PL処世訓第9条)は第13条「男性には男性の、女性には女性の道がある」と対応しています。

4.機会の平等と結果の平等(格差社会の問題)

(1)機会の平等と結果の平等

 平等には「機会の平等」と「結果の平等」があります。「機会の平等」だけではどうにもならない、とくに格差社会ではそもそも「機会の平等」は「絵に描いた餅」にすぎないので、「機会の平等」を政策的に実現させることがまず大切になってきますし、さらに「結果の平等」を実現させる政策も必要になってきます。ですから、国民が最低限の生活だけはできるように国は社会福祉政策に力を入れることになってきます。

(2)格差社会と平等

 人には生まれながらに貧富の差があったり、社会的、経済的にさまざまな格差があるのが現実ですから、「生まれながらにしてあの人はお金持ちの息子であり、自分は貧乏な生まれです。人生の出発点において、そもそも人間は平等ではありません。世の中は不平等です」と考える人も多いかと思います。とくに最近はグローバル経済の拡大にともなって極端な「格差社会」をなんとかしなければいけないという世界的な風潮になって来ています。
 しかし、道の上から言えば、この世の中はこのままで平等なのです。世の中を一律一体にすることが平等なのではなく、種々さまざまな状態に置かれているそのままで平等なのです。どのような状態に置かれているとしても、だれもが、その立ち位置から最善の自己表現をし、芸術することにより幸福になれるので、その意味ですべての人は平等です。人生における目標は「楽しいこと」であり、「幸福になること」なのです。
 しかし、そうはいっても、すべて度を過ごしてはいけません。
 貧乏な人でもお金持ちになれるチャンスがあり、お金持ちでも貧乏になってしまうリスクの大きい社会は公正(フェア)で、平等といえるのですが、現在、世界的に問題となってきているのは「貧富の差」が極端になってきており、それが固定化して来ていることです。
 政治の問題として、度を過ごした格差は社会福祉政策、「同一労働同一賃金」の実現などによって解消させて行くようにしなければなりません。

5.「ゼロに立つ」

 道の上から言って、この世の中はこのままで平等である、少くとも平等の可能性があるということは、人はつねにゼロに立たされており、一瞬一瞬をいかに芸術していくかによって、ひとかどの人物として承認されるかどうか決定されるのです。現在このままの姿が平等であると同時に、次の芸術に対してはすべての人がゼロの立場にあり、ゼロとして平等の位置に立っているのです。
 「常に善悪の岐路に立つ」(PL処世訓第18条)はそのことを教えています。

6.平等と「ノブレス・オブリージュ」

(1)人は平等なのですから、自分の地位、椅子(いす)を自分の特権であるかのように錯覚して、えらそうに部下に接っするようなことがあってはなりません。
 「椅子に心境あり」です。それなりの椅子にある人にはそれなりの心境が必要とされます。そして、そのような心境を目指すことによってその人はグレード・アップすることができるのです。

(2)西欧社会では「ノブレス・オブリージュ」(高貴なる責任)の大切さが強調されます。高い地位にある人は一般の人よりも重い責任を負っていることを常に自覚していなければいけないのです。そのような自覚にもとづいて普通の人とは違った危険な役割に率先して挑戦することが高貴な地位に在る条件だと考えられているのです。

7.人生を楽しむことの平等

 「人は平等である」といっても、人にはそれぞれの立ち位置、立場があります。人はそれぞれの立場に立って、他の人にとらわれ過ぎることなく、今日から明日へとひたむきに努力を積み重ねて行くことによって他には代え難いその人独特の楽しい人生がひらけてくるものと信念することが大切です。