「自他を祝福せよ」(PL処世訓第10条) | 御木白日のブログ

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学習院大学 仏文科卒業。大正大学大学院文学博士課程修了。
詩人活動をとおして世界の平和に貢献。

1.「自他」と「祝福」


(1)「自他」
 「自」とはもちろん自分のことです。「他」は常識的にはとりあえず他人のことでしょうが、人間以外の動植物、鉱物なども含めた地球の環境そのもの、「自」分がそこに存在している場所、宇宙をも視野に入れた世界全体を「他」と捉えることができます。


(2)「祝福」
 「祝福」は「(他人の)幸福を祝い、また祈ること」です。祝福の対象は本来他人なのですが、世の中には他人はそっちのけで自分自身だけを祝福したがる人がいるものです。
 そこで、二代教祖はそのような自分を祝福する人を排除することなく、それはそれとして、自分自身を祝福することの本質は何か?といえば、それは「他」を祝福することにある、それを「知る」ことが大切であると教えているのです。


 (3)「自他を祝福」
 そこで「自他を祝福」ですが、「他」を自分以外の世界全体と捉えるならば、「自他を祝福せよ」とは「世界平和の為の一切である」(PL処世訓第14条)にほかならないことがわかります。

2.「自分で自分をほめたい」


(1)有森選手の名言
 バルセロナオリンピック(1992年)で女子マラソンで銀メダルを獲得した有森裕子さんは、既に29歳と全盛期を過ぎた次のアトランタオリンピックで見事銅メダルを取りました。前回の銀メダルには及ばなかったのですが、有森さんがゴール後のインタビューで「初めて自分で自分をほめたいと思います」と感極まって涙ながらに語った姿に私たちも感動しました。「自分で自分をほめたい」はその年の流行語大賞になりました。「初めて」がポイントです。今まで自分で自分をほめることなどなかったが……という含意があるからこそ、有森さんの言葉に重みがあり、私たちを感動させたのです。


(2)「他」だけでよい
   “処世訓には、「自他を祝福せよ」と書いてありますが、実際は自(自分)の方は考えなくてもよいのです。他を祝福することによって、自他を祝福することになるのです。自(自分)を祝福しようとするのが道を知らない多くの人たちの生き方になっているようですが、これは一つの貧乏根性(心のまずしさ)ともいうべきで、そういう考えはしないほうがよいのであります。”
   “「自」は祝福しなくてもよい、「他」を祝福するだけでよいのであります。「自」を祝福しようとする(自分の都合だけを考えたり自分がよくなることだけをする)ようなつまらない考えはしないことです。ひたすら「他」を祝福するようにすることです。「他」を祝福することに専念したらよいのであります。そこに限りなく自らを祝福する結果のおかげをいただくことができるのです。”
 「他」だけでよいのに「自他」と「自」が入っているのはなぜでしょうか。「自」を祝福することと「他」を祝福することは、一見別のようですが実は同じことであると「知りなさい」、それは「世界平和の為の一切である」(PL処世訓第14条)という神の方向性を具体的に示す言葉であることを二代教祖は教えているのです。

 

(3)「情けは人の為ならず」
 「情けは人の為ならず」ということわざがあります。「人に情けをかけるのはその人の自立の妨げになり、その人のためにならない」という意味でこのことわざを使う人がいますが、誤りです。その意味は「情けを人にかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いが来る。人に親切にしておけば、必ずよい報いが自分に帰ってくる」、人に情けをかけるのは人のためではなく自分のためだ、という功利的なものです。
 「自」を祝福することの本質は、「他」を祝福することにあると知らなければならないという教えである「自他を祝福せよ」は、「情けは人の為ならず」のことわざと似ていますが非なるものです。自分によい報いが帰ってくるかどうかは、主観の問題ではなく、客観の問題なのです。人に情けをかけたのに、その人に裏切られてしまって、自分によい報いがちっとも帰ってきていないとたとえあなたには思われたとしても、実はちゃんと自分に帰ってきているのです。そのことに気付かなければならない。なぜならばその神業を素材としてあなたはさらに芸術することができるからです。すべての神業を肯定する。そしてそれを素材に芸術する積極的な人生こそあなたの人生であると二代教祖は教えているのです。
 「情けは人の為ならず」は、人に情けをかけることはあなたにとって利益になるのですよ、という利益誘導的な生活の知恵ともいうべきものです。しかし「自他を祝福せよ」は単なる生活の知恵や処世術ではありません。PL処世訓は真理そのもの、神律です。
 「他」を祝福することが同時に「自」を祝福することを知ることによって、よりよい自己表現ができるようになり、人生が楽しくなるのです。

3.「特定の個人」への祝福では不十分


(1)「我」の生き方と「誠」の生き方
 人は1人で生活をしているのではなく、家族と、そして友人、知人、同僚と社会生活をしているのですから、そこから逃げることなく、常に自分も他人もともに最も気分のよい状態にしようと努めることが大切です。
   “自分のためのみを考えての生き方を我というのであり、我はたやすく、他を計った生き方、これを誠といい、誠はむずかしいようになっているのです。”
 たやすい我の生き方からむずかしい誠の生き方へとカジを切り替える、方向転換することを人は常に心掛けなければなりません(「常に善悪の岐路に立つ」(PL処世訓第18条))。
 

(2)「特定の個人」への祝福
 専門芸術において、表現は至難なほど価値があり尊ばれますが、芸術生活(人生芸術)における人間表現でも同じです。自他を祝福する誠の表現(真実表現)はなまやさしいものでないだけに、それだけその表現は高く評価されます。
 むずかしい誠の表現となる「自他祝福」の表現であっても、それが「特定の個人」を祝福するのではいけないと二代教祖は言っておられます。
   “たんに特定の個人を祝福したからといって、それでよいというものではありません。そのことが第三者から見た場合、社会的立場から見た場合、ともに喜べるような穏当妥当なものでなくてはならないのです。”
   “特定の人を喜ばしただけで、得々として、いかにもよいことをしたような気持ちでいる人を見受けたりいたしますが、それが他を不快ならしめたり、他を損ねたりしたのでは、それはむしろ小主観的表現、わがまま芸術というべきであり、あまり価値のあることではありません。”
 「特定の個人」とはたとえばどんな人のことなのか、また「それが他を不快ならしめたり、他を損ねたり」とは具体的にどんな場面が想定されているのかよくわかりません。「“賢に会って問わざれば、去ってのち悔ゆ”になってはいけない。何でもワシにききなさい」と二代教祖からよく言われたことを思い出します。なぜおききしておかなかったか、悔ゆるばかりです。

4.「祝福の神事」


 「万人への祝福」を神事として二代教祖がみおしえによってこの世に顕わされたのが「祝福の神事」です。「祝福の神事」は「自他祝福」の極致、究極のものです。二代教祖はブラジル布教において「ベンソン」(ポルトガル語で「祝福」の意味)をされましたが、そのイメージが「祝福の神事」の精神造型へと結実しました。
 

(1)日訓第8821信(昭和46年10月8日)
   “きょうは、午後2時半に自動車でサンパウロを発って、550キロのパラナ州ロンドリーナ教会にきて一泊した。途中、オウリンニョス教会とアプカラーナ教会に立ち寄り、集まった会員百数十名にベンソン(祝福)をしてやり、ケーキに遂断っただけで、教話もせずにアテローゴ(さようなら)したのであった。自分にはそれだけでは何か物足りない気持ちがしたので、何か話しをしようとしたのだったが、高浪指導係長が、ベンソンだけのほうがみんなが満足する方法だというので、そのようにした次第である。
   純粋信仰の境地からいえば、要するに“説教などというものは説明に過ぎず、信仰の要諦ではないんだな”ということをあらためて思わせられたことであった。
   因みに、どの教会も会員のほとんどはブラジレイロで、日系人は一割もいない状態だから、日本語は全然通じないのである。”

 

(2)日訓第8822信(昭和46年10月9日)
   “ロンドリーナを午前に発って、アプカラーナ教会に寄り、型どおりケーキを前にしてベンソンをし、次に『ここでは教育者が多いから何か簡単に話をしてほしい』とのことなので、試みに十数分しゃべってみたのであるが、今一つぴんと来ず、あまり効果はなかったと思われた。(以下略)”

 

(3)「ベンソン」がどのように「祝福の神事」へとイメージが造型されたか、二代教祖の精神造型、芸術のプロセスが二代教祖自身によってその一端が示されているところにこれらの日訓の意義があります。二代教祖は師匠として弟子たちに自分の心境、そのプロセスを隠すことなく開示しておられました。ブッダの「教師の握り拳」の逸話と同じです。良き師匠は弟子たちに対して教えのすべてを握り拳の中に隠してしまうようなことはせずに伝えようとするのです。

5.「自他祝福」表現の方法


(1)自他祝福は身近なことから
 自他祝福は自分が日常、身近に接している人々を喜ばすところから始まります。
   “はじめから世のため人のためとか、世界平和のためというような、大きな目標をかかげて努力するような人は少ないのです。たいていの人が身近なところからはじめるわけですが、それはそれで結構だと思います。結果としては立派な自他祝福になっており、そういう身近なことのほうが、かえって積極的に実行しやすいし、その方が能率も上がるようであります。”
 最初から「世界平和のため」というような大きな言い方をしたのでは、直接心にひびかないかもしれません。たしかにそうかもしれないけれど、自分はそういう気分にはなれない、というようなことにもなりますので、まず身近なところから始めるのがよいのです。
 

(2)神に祈り、遂断って
 身近なところから自他祝福の芸術をはじめることが大切ですが、同時に大切なことは、神に依りつつ、遂断って自他祝福の表現方法になるよう念願することなのです。
   “「私は自他祝福の芸術がしたいのです。何か世の中のお役に立つ仕事をしたいのです。どうか私に自他祝福の表現方法を授け給え」と神に祈り遂断っていくことであります。その誠、その熱意に応じて、次々とどこまでも自他祝福の表現方法を授かるでありましょう。”
  “大切なことは、さらに神に依りつつ実行するように教えていくことであります。「おかあさんのために一生懸命に勉強なさい。そしていつも神さまに遂断って勉強するのです」というふうに教えていくことです。そこから世界平和のためとか人類永遠の福祉のためというような問題にもつながっていくのであります。”
   “自他祝福-われもよし人もよし-ということが、人としていちばん正しい在り方ではありますが、そのわれもよし人もよしという表現を神に祈りつつ神を拝みつつ実行することによって、そこにこよなき自己表現が展開されるのであります。”
 掃除一つをするにしても、「ただ今からお掃除をさせていただきます。神はよろしく恵み給え」という気持ち、そのことによって何か教えていただこうという祈り心をもってするところに意義があること、自分では自他を祝福する行為と思っていても、はたしてそうなっているかどうか自信はない、というのが本当のはずであること、だからこそ神に依るのであり、「どうかこのことが自他祝福になりますように・・・」という謙虚な気持ちでひたすら神に依り、神に祈りつつ言動さしていただくことが大切であると二代教祖は説いておられます。「われもよし人もよし」という表現を神に祈りつつ神を拝みつつ実行することによって、こよなき自己表現が展開されるのです。
 

(3)自他祝福の境地は無限です
 自他を祝福する境地にも段階、グレードがあります。自他祝福の芸術はどこまでも深めていくことができるのです。物事に誠をこめるところに自他は祝福されることになりますが、その自他祝福の方法や境地は無限です。どのようにもより深くより高くより広くしていくことができるのです。
   “世のため人のため、世界平和のために何かお役に立つことはないか、何か人に喜んでもらえることはないかと考えていけば、どのようなことでも考えつくことができるものです。そして、人が考えついたことは必ず具現し実現するのです。”
   “「私は自他祝福の芸術がしたいのです。何か世の中のお役にたつ仕事がしたいのです。どうか私に自他祝福の方法をおさずけください、独特な自他祝福の表現方法を授け給え」と神に祈り遂断っていくことであります。その誠、その熱意に応じて、つぎつぎとどこまでも自他祝福の表現方法を授かることでありましょう。それは血湧き肉躍るおもしろくたのしい境地です。”
 

(4)礼儀作法とみだしなみ
 二代教祖は、自他祝福するための心掛けとして礼儀作法とみだしなみの大切さを説いています。
 礼儀作法は、社会生活の秩序や円滑な人間関係を保つために守るべき行動規範と物事を行う時の慣例となっている方法のことです(明鏡国語辞典)。
 みだしなみは、①人に不快な感じを与えないように、服装・容姿・言動などを整えること、またその心掛け②身につけておきたい教養や技芸のことです(明鏡国語辞典)。
   “民主主義だといって礼儀作法を無視するような風潮がありますが、礼儀作法は無視されれば無視されるほどそれだけ社会からうるおいがなくなり、微妙なる人間と人間との交流の味が減殺されるのです。
   礼儀作法とかみだしなみというようなものは社会人としての当然の教養であり、自他祝福のための大切な心掛けでなければならないのです。他から見ても感じよく、自分も気分がよいような言動やみだしなみでありたいものであります。”
 50年以上前に、すでに二代教祖は社会からうるおいがなくなること、私たち人間関係の微妙な味わいが失われることを危惧しています。グローバル化の反動で格差が拡大し、内戦や難民問題など人々の間の連帯感が失われつつあるいま現在の世界の状況の中では、自他を祝福することの重要さはますます大きくなっているのです。