「自己は神の表現である」(PL処世訓第3条) | 御木白日のブログ

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学習院大学 仏文科卒業。大正大学大学院文学博士課程修了。
詩人活動をとおして世界の平和に貢献。

1.「神(大元霊)」

(1)PL処世訓の神
    
     PL処世訓21ヶ条で、神についてはこの第3条「自己は神の表現である」と第11条「一切を神に依れ」です。

     初代教祖は「神は一体である 万神なきことを知れ」と悟られました。

(2)PL遂断詞の神(「大元霊」)

   PL遂断詞では、神について次のように説かれています。
      ①“貴光遍照(たかひかります)大元霊(みおやおおかみ)は、現世(うつしよ)の万象(あらゆるもの)を創造(うま)せ給(たま)い芸術(つく)り給(たま)い、天地(あめつち)陰陽(かげひ)の約束(きめごと)により、日(ひ)に日(ひ)に育(そだ)て太(ふと)らせ給(たま)う、・・・”
      ・“大元霊(おおやおおかみ)”は神です。
      ・“遍照(ます)”は幽祖が唯一人の師匠とされた弘法大師(空海)の真言密教上の名前(金剛名)の「遍照金剛(へんじようこんごう)」に由来しています。「ダイヤモンドのように光輝き、あまねく世界を照らす」という意味です。
      ②“人(ひと)は神(かみ)の表現(あらわれ)にして万物(よろずのもの)の長(おさ)にしあれば、人(ひと)より尊(とおと)きものは無(な)く、・・・”
       PL処世訓第3条は「“自己”は神の表現である」ですが、PL遂断詞では「“人(ひと)”は神の表現にして・・・  」となっています。その理由については、後で述べることにします。

2.「神」についての表現

(1)「神とは何でしょうか?」
    
     「私は神がどういうものなのか、よくわからないのです。神とは何でしょうか?」という質問をPL処世訓の勉強会で受けたことがありました。
     むづかしい質問です。「神は理解するというよりも、信ずるものだと思います。」、「初代教祖は“神は一体である 万神なきことを知れ”と悟られました。」というようなお話をさせていただきました。
     神は目に見えませんし、あまりに偉大で人間にとって本来理解を超えた存在です。ズバリ、言葉で表現したり説明することのできないのが神です。
     それでも人間は自分の存在の根源である神をなんとか言葉で表現し、理解したいと思わざるを得ません。「人生は芸術である。楽しかるべきである」の真理を自分のものとするために、そうしないではいられないのです。

(2)神についての解説
    
     「神は全体であって、万象の根源である。すなわち世は神業の実現である」がPLの教えの神観として分かりやすいものです。「世は神業の実現である」とは人間も含めたすべてのもの、森羅万象は「神の現われである」、「世は神の表現である」ということです。
     すこし詳しくなりますと次のように解説されます。
     ①神は「絶対一」、すべてを包含する「一」である
      ②神は「全体」であり、「すべて」(「一切」)である
      ③神は「無性格」であると同時に「あらゆる性格」を持っている

(3)光の三原色
    
     神が「一」である、「全体」である、「無性格」である、とは結局同じことを別の言い方で表現していることになるのです。
     そのことを「光」をたとえにしますと、次のようになります。
      ①日光、つまり太陽の光は「白色」というか「無色」です。しかし、プリズムを当てるといろいろな色に分かれてきます。
      ②「光の三原色」である赤、青、緑の三色を混ぜ合わせると「白色」になります。つまり、「白色」は「無色」ですが同時に「すべての色」を持ってもいるのです。
      ③日光そのものは「一」であり、「全体」で、「無性格」ですが、プリズムによっていろいろな色として現れるという言い方ができるわけです。

(4)神のほかには何も存在しない
    
     神が「一」である、「全体」である、「無性格」であるとは、神のほかには何も存在しないということです。私たち人間を含むこの世に現われた形あるすべての個々の物、森羅万象すべては一定の仕方で表現された「神」の「現われ」であったのです。
     「自己」は全体である神の局所的な一表現なのです。
     『善の研究』で有名な哲学者西田幾多郎(1870~1945)は「多が全体的一の部分であると共に、その一々が全体的一を具する」、「特殊は一般に包まれつつ、その一般を包む」といっています。「多」、「特殊」を「自己」、「全体的一」、「一般」を「神」と置き換えますと、「自己」が「神」の一部分であることは、同時に「自己」が「神」を持っていることでもあると読み替えることが可能です。17世紀のドイツの哲学者ライプニッツ(1646~1716)もモナド(単子)論で個々の個物である「モナド」(あなたも一つのモナドです)は鏡のように全宇宙を写す存在であるといっています。全体である「神」と個々の個物である「自己」との関係を考えるうえでとても参考になります。

3.「たとえ」、「たとえ話」による「神」についての表現
    
     神そのものは人間にとって理解を超えた不可知なものです。そうであってもどうしても神を言葉で表現したい、説明したいとなると「たとえ」や「たとえ話」によるほかありません。
     
(1)「光」としての神
    
     闇をあまねく照らす「光」に神をたとえるのはもっとも分かりやすいものといえます。無知蒙昧の闇の中にいる私たちを理性の光によって光明へと導いてくれる神というイメージにつながっています。ちなみに18世紀のヨーロッパは「理性の時代」、「啓(けい)蒙(もう)主義の時代」といわれますが、「啓蒙」は「Enlightenment」、つまり「明るく輝らすこと」という英語の翻訳語です。また、「啓蒙」という語は『易経』の「山(さん)水(すい)蒙(もう)」という「卦(け)」(「当たるも八卦、当たらぬも八卦」の卦です)にある「童蒙(どうもう)は啓(ひら)く」から来ています。「蒙(もう)」は「暗(くら)い」で、「童蒙(どうもう)は啓(ひら)く」は子供が無知な闇の状態から知恵にあふれた光の中にみちびかれるというイメージです。

(2)「大海の水を神、その一滴が人」のたとえ
    
     「かりに大海の水を神とし、その水を一滴取り出してこれを人と考える」というたとえがPL用語辞典(164頁)に出てきます。
     「海と一滴の水とは量や形においては非常な差があるが、質においては同じ水である。これと同じように神(全体なるもの)と人(一部なるもの)とは、量や形に差はあれ質においては同質である」から「一滴の水の本質がいかなるものであるかがわかれば、大海の水はいかなるものであるかがわかるように、自分というものがいかなるものか、人間とはいかなるものかが悟れれば、神が悟れるのである。神が悟れたら神と交流(ありかようこと)ができるのである。神と交流できれば、神業の種々相が感じられる。『みおしえ』というものはかかる境地において授かることができるのである」、「この境地を客観の境地、自我なき境地、天人合一、神人合一、神に依る境地、主客一致の境地、絶対無責任の境地等という」と解説されているのです。
     前に記しました西田幾多郎とライプニッツの考えからしますと、このたとえはとても適格でわかりやすいものです。

(3)神業
    
     「神には働きがある。すなわち自然現象、人為的現象(人間の思考・観念の変化を含む)がそれである。これをPLでは神業と言う」(PL用語辞典163頁)。
     「神は全体であって、万象の根源である。すなわち世は神業の実現である」のです。
     そして、神業の解説として、PL用語辞典は次のように続けます。「神意、神慮、神の音楽、神のタイミング、神のペース、お恵み、神のそろばん、神のお言葉、神のしらべ、神の怒り、神の微笑、みしらせ、など神業から受ける感じをわかりやすい言葉で表現する場合がしばしばある。」
     人は神に由来する思考力を尽して、いろいろな言葉の意味を極めることにより神業がどういうものか、ひいては神がどういうものなのかの理解に限りなく近づこうとするのです。
    
(4)「神の働き」
    
     「神の働き」が神業です。
    ①「神の働き」を中世のキリスト教では「神の力(デユナミス)」の「働き(エネルゲイア)」ととらえました。「デュナミス」と「エネルゲイア」という古代ギリシャの哲学者アリストテレス由来の用語を使っているのです。「デュナミス」と「エネルゲイア」については第1条「人生は芸術である」のところでふれましたのでご参照ください。
       宇宙にあまねく偏在している「神の力(デユナミス)」の「働き(エネルゲイア)」である神業によって人間は神を感得できることになるのです。
    ②神業は人間が五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)でとらえることができる形をもって現われますが、五感だけでなく、第六感に依らざるを得ない場合もあります。第六感は生得的(生まれつき)だけでなく、修練することによって身につけることができます。
       人は五感を尽し、さらに「直観と感情」を研ぎすまして、神業を凝視することによって、神そのものに限りなく近づきたいと念願するのです。

4.「神の表現である」とは?

   だれかになにかをプレゼントしたときに、「それは私の感謝の気持ちの表現でした」と日記に書いたとします。この場合、「感謝の気持ち」が本体でプレゼントはその気持ちが表現されたものです。「感謝の気持ち」が姿を変えたもの、変化したものがプレゼントです。「神」が姿を変えたもの、変化したものが「自己」であり「人」です。
  
(1)PL遂断詞の矛盾した表現?
    
     PL遂断詞は神と人間との関係についていろいろな表現方法をとっています。
      ①“貴光(たかひかり)遍照(ます)大元霊(みおやおおかみ)は、現世(うつしよ)の万象(あらゆるもの)を創造(うま)せ給(たま)い芸術(つく)り給(たま)い”、
      ②“此(こ)の真理(ことわり)により成(な)り生(あ)れし世界全人類(あらゆるひと)は、”
      ③“人(ひと)は神(かみ)の表現(あらわれ)にして、”
     人は神の表現であるのに(③)、①では神が生んだもの、神が作ったもの、②では自然に成り出たもの、になっています。
     一見すると矛盾した表現ととられかねません。しかし、矛盾ではないのです。
     なお、PL遂断詞では「自己」ではなく「人は」になっているのですが、これについては別に述べることにします。

(2)自己は「神の表現である」と感得する

     「表現である」はかしこまったどちらかというと抽象的な言葉です。どういう意味なのかイメージしにくいものでしょう。
     そこで、「うむ」、「つくる」、「なる」という日常使われる、なじみ深い言葉によって、なんとか「表現である」の意味を感得してもらおうとしているのです。
     「うむ」、「つくる」、「なる」という言葉の意味はそれぞれ多義的で(一つの言葉の意味が一つだけではなく、一つの言葉が多くの意味をもっていること)、相互に連関して、つまり三つの言葉があまり厳密に区別されることなく使われています。
     私たちが日常目にしているものは、①机やテレビのように誰かが「つくって」そこに在るもの、②イヌやネコのペットなどの動物のように親が「うんで」そこに在るもの、③「柿の実がなる」、ウジが「わく」とか、カビが「はえる」、コケが「むす」など、自(おの)ずから「なって」そこに在るものの三つに分けて考えることができます。植物は実が「なる」、カビが「はえる」、コケが「むす」とか、芽が「ふく」、芽が「でる」など自動詞と結びついています。古代の日本人は植物を何ものかが「うむ」よりは「なる」ものとイメージしていたのだと思います。ちなみに、「つくる」は「“机を”つくる」、「うむ」は「“子を”うむ」と目的語をともなう他動詞です。
     「表現である」ことの意味に限りなく近づこうとするには、「つくる」、「うむ」、「なる」という言葉の意味、ニュアンスをも含めたものとして、「表現である」という言葉の意味を大きくとらえ直すことが必要なのです。
     分析哲学の哲学者ウィトゲンシュタイン(1889~1951)は「語り得ぬことについては沈黙しなければならない」といいましたが、宗教では神と「自己」との関係、神と「人」との関係について沈黙するわけにはいきません。どうしても語らざるを得ないのです。

5.「自己は」と「人は」

  “人(ひと)は神(かみ)の表現(あらわれ)にして万物(よろずのもの)の長(おさ)にしあれば、人(ひと)より尊(とうと)きものは無(な)く、”
  
  とPL遂断詞にあります。
  「自己は」ではなく、「人は」になっているのです。

(1)「感覚的に受けとれ!」
    
     PL処世訓第3条「自己は神の表現である」とPL遂断詞「人は神の表現である」との関係について、二代教祖は次のように説いています。

  “「人は・・・」ではなく、わざわざ「自己は・・・」と書いてあります。ふかい味わいのあるところであります。”
  
  “意味は同じですから、「人は・・・」でもよいはずでありますが、あえて「自己は・・・」と教えていただいているということは、この個条をもっと感覚的にうけとれという意味があるのです。”
  
  “第1条「人生は芸術である」、第2条「人の一生は自己表現である」とあって、第3条に「自己は神の表現である」となっており、うまく調子がとれているのであります。第1条、第2条につづいて、さらに「自己は神の表現である」とふかく自覚させるために、「自己は・・・」となっているのであります。”
  
     「感覚的にうけとれ」とは、頭で論理的に考えたり、理屈をこねるだけでなく、感覚的な力、情緒的な力をも加えてこの第3条を受け止めなさいということです。理屈や論理を無視せよとか、軽視せよというのではありません。まず理屈や論理を極めたうえで、さらに感覚的な力、情緒的な力をも活かさなければ、この第3条が「人は・・・」ではなく「自己は・・・」となっていることを感得できないのです。
     宗教では理屈や理論だけでは十分とはいえません。19世紀初めのプロテスタントの神学者シェライエルマッハー(1768~1834)は「宗教の本質は直観と感情である」と言っています。

(2)神に依る「心身の合一」
    
     人間が持っている感覚的な力の元は「神の力」にほかなりません。頭で論理的に考える力「知性」も、もちろん「神の力」に由来するものです。これらは人間の「心(精神)」に宿っている力です。
    神は「心(精神)」だけでなく「身体(物)」をも持った人間と現われています。身体によって発揮できる「人間の力」もまた「神の力」にその大もとがあります。
    「知性」を働かし、「身体」を正しく働かして、感情豊かに日常生活を生きるにはどうしたらよいかをPLの教えは明かにしています。
    そのためには、「一切を神に依れ」(PL処世訓第11条)となるのです。
     神に祈り、神に依ることによって、あなたははじめて心身の合一を感得でき、「人生は芸術である。楽しかるべきである」を現実化できるのです。 
     二代教祖は、“わしを拝んでも何にもならんよ。神を拝みなさい”とよく言われました。

(3)感性を磨く
    
     この第3条が「人は・・・」ではなく、「自己は・・・」となっているところに、「何か」を感じとれるように「心」、「感性」を磨くように努めること、修練することが大切なのです。
      そのためには日常生活において美しいものを見る(大自然や芸術作品に触れる)、素晴しいものに感動できるように自らを鍛える、それによって感受性を豊かにするように努めることが必要です。素晴しいものに感動できることは、素晴しいものがわかるということであり、「知る」ことなのです。それは、生得的(生まれつき)というより学んで身に付くものです。

(4)夏目漱石の広告文
    
     夏目漱石は自作の小説『こころ』が刊行されたとき、自から次のような広告文を書いたそうです。「自己の心を捕えんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を奨む」と。「自己の心」と「人間の心」を対比させています。「自己は・・・」と「人は・・・」との関係について考えるのに参考になりそうです。
      
6.「いま」、「ここ」に生きている自己のかけがえの無さ
  
   PL遂断詞が「自己」でなく人間一般が「万物(よろずのもの)の長(おさ)」であり、
  「人より尊きものは無く」という真理を説いているのに対して、PL処世訓第3条は、ほかの誰でもない、いま、ここに現実に存在し、生活しているあなた自身、「現実存在している、“実存”しているあなた」こそが「神の表現」であり、芸術する主体なのですよ、と教えてくださるのです。そのために「人は・・・」ではなく「自己は・・・」となっています。
   人間一般として、各個人はそれぞれ芸術の主体ですが、「実存する芸術の主体であるあなた」にとっては、あなた以外の人間は芸術の素材にすぎないという強烈なメッセージでもある「自己は・・・」なのです。
   近代までの西洋の哲学では、「人間とは何か?」が問題とされてきました。しかし、自分にとってほんとうに大切なのは“人間一般が何であるか?”という普遍的、抽象的なことよりも、“いま、ここに現実に存在している具体的なこの自分がいったい何ものであって、何をなすべきなのか?”です。このような問題意識は「実存主義」といわれます。
   「自己は神の表現である」の教えは、この実存主義をその視野に収めています。普遍としての「人」と個物(個人)である「自己」の両方を視野に収めているのです。
   もっとも、あなた以外の人も「自己は神の表現である」の「自己」であり、あなたと神を共感しているといえるのです。ですから、その人々があなたの芸術の素材だとしても、人間以外の素材に対する心づかい、配慮よりもはるかにグレードの高い心づかい、配慮をしなければなりません。
   「自他を祝福せよ」(PL処世訓第10条)でなければなりませんし、「世界平和の為の一切である」(PL処世訓第14条)でなければならないのです。
   
7.自己と自我

(1)自我とは?

   PL処世訓第6条「自我無きところに汝がある」の「自我」とこの第3条の「自己」ではどこがどのように違うのでしょうか。具体的に言いますと、「自己は神の表現である」ではなく「自我は神の表現である」ではいけないのか、「自我無きところに汝がある」ではなく「自己無きところに汝がある」ではいけないのかという問題です。
   結論を申すならば、「いけない」のです。
   なぜならば、PLの教えでいう「自我」は自分(「自己」)が神の現われであり、神と切り離すことのできない存在であるのに、そのことを忘れて、神と離れて、独立して存在しうると錯覚しているあり方のことだからです。「自我」は「われのためのわれ」、「神に依っていないわれ」という本来あってはならないあり方に陥っている「我(が)」なのです。

(2)「我(が)は癖(くせ)である」
    
     「我(が)は癖(くせ)」であると初代教祖は教えられました。「我(が)」は「さながらにある自分」にコブのようにはりついているものです。「我(が)」やその現われである「癖(くせ)」は本来あるべき私たちの自由な芸術の妨げになりかねません。
  
    “誠なる心を誠にせぬものは己(おの)が癖ある我(が)とぞこそ知れ”
  
     初代教祖のお歌です。
     教師錬成の時の二代教祖の次のようなお話があります。
    
    “自己の本体は神と人との在(あ)り通(か)いの中にあり、自己の中にはない。”
    
     そのようなあり方を感得し肉体化するための方法(修行)として錬成があり、献身(みささげ)があるのです。
  
8.神の分霊(わけみたま)

  あなたは神の分霊(わけみたま)をいただいています。だからと言って、あなたが即ち神ということでないことは言うまでもありません。
  あなたは生れた瞬間に神から分霊(わけみたま)を頂き、自己表現するべく独特の持ち味である個性を授かっています。「オギャー!」というあなたの産(うぶ)声(ごえ)は「分霊(わけみたま)をいただきました」というしるしでもあったのです。神がそのように現われているのです。あなたが自分自身の大もとである神と常に心通(かよ)わせて暮らすことがいかに大切かおわかりいただけると思います。

(1)「生かされ生きている」
    
     あなたは神の分霊(わけみたま)をいただき、個性を持ち、森羅万象、すべての神業を素材として個性豊かな芸術をする自由な主体です。そのように神が現われているのです。本能によって規定されている動物に自由はありませんし、芸術することもありません。
     神の分霊(わけみたま)としてのあなたは両親から産まれ、神によって「生かされて」いるのです。そして、同時に自由に芸術する主体として自から「生きて」もいるのです。「生かされて生きている」というあなたの姿に神が現われているのです。

(2)神とあり通(か)よう境地
    
     あなたもあらゆる「もの」も「こと」も一切はことごとく「全体である神」、「一である神」の現われであることに気付くならば、万物(よろずのもの)、万象(あらゆるもの)はあなたにとってよそよそしいものではなく、親しくあり通(か)ようことのできるものとなり、あなたはそれを素材として自由に楽しく芸術することができるのです。
     初代教祖は「世の中に現われたる一切のものは、皆ひとを生かす為にうまれたるものと知れ」と悟られました。
     二代教祖は、「人生は芸術である」との悟りから、
    
    “「人を生かす為」とは、人をして芸術せしめるという意味であり、同時に人が表現する動物であることを意味するものであります。”
    
    と捉え直されるのです。
     「世の中に現われたる一切のもの」は「芸術の素材」であったのです。
     芸術となる生活をするうえで大切なことは、自己の大もとである神に常に心通(かよ)わせながら、謙虚に祈り心を持って物事をさせて頂くことです。それが神から分霊(わけみたま)を頂いている自己の表現を限りなく発展させていくことになるのです。