「人生は芸術である」(PL処世訓第1条) | 御木白日のブログ

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学習院大学 仏文科卒業。大正大学大学院文学博士課程修了。
詩人活動をとおして世界の平和に貢献。

1.「“人生”は“芸術”である」の悟り

   「人生」ということばも「芸術」ということばも、私たちにはなじみ深いことばです。その「人生」と「芸術」という二つのことばを結びつけて「人生は芸術である」と表現されたところに二代教祖の悟りがあります。
  
  “「人生は芸術である」の「人生」とは、人間の生まれてから死ぬまでというよりも、人間の生きている一瞬一瞬ということであります。”(二代教祖)
  
   「芸術」は目には見えない自分の個性(まこと)を見える形に表現することです。
   その人の個性(まこと)が「いま、ここ」で、その都度、その都度のイメージとして心の中で具体化され、その心の中のイメージがその人によって目に見える形に表現されるのです。それが芸術です。
  
  (1)芸術作品が芸術であるという常識
  
   芸術というとき、私たちが思いうかべるのは、    ゴッホがひまわりの絵を描く、紫式部が源氏物語を物語る、西行が和歌を、芭蕉が俳句を詠む、ホメーロスが、ランボーが詩を歌い上げる、モーツァルトがオペラや交響曲を作曲する、運慶が金剛力士像(仁王像)を彫り上げる、    等々、いわゆる芸術作品だろうと思います。
     特別な才能をもつ芸術家が制作した特別に秀れた芸術作品、それが私たちの芸術についての一般的なイメージではないでしょうか。
    
  (2)人生のプロセスが芸術です
    
   ところが、特別に秀れた才能をもっているわけでもなく、世の人を驚かせる特別な業績を残したわけでもない、ごく普通の人々の日常生活そのもの、人生のプロセスそのものが芸術なのだというのが二代教祖の悟りです。世の人々はおどろき、感動したのです。
     それが「人生は芸術である」の“教え”です。
     特別の才能をもった芸術家による文学、音楽、絵画、彫刻、建築などこれまで常識的に「芸術」といわれてきたものを「専門芸術」と呼びましょう。そして、ごく普通の人々の日々の生活そのものを「芸術生活(人生芸術)」と呼ぶことになりました。
     「専門芸術」は「芸術生活(人生芸術)」の一部だと二代教祖は「芸術」を大きく、大きく捉え直したのです。
   それでは、すばらしい「芸術生活(人生芸術)」を自分のものにするには、具体的にどのような心がけが必要でしょうか? なにか特別な修行が必要なのでしょうか?
     その必要はないのです。日々の生活そのものが芸術であることにまず気付くことが大切です。そして、よき芸術になるように工夫して毎日をくらすように心掛けるのです。そのための努力をおしまないのです。特別の修業ではなく、それぞれの人が自分の仕事に、日常生活に誠をこめ、努力することによって、その人はよき芸術を実践しているのです。
     生活がそのまま芸術であるとは、生活がそのまま修業の場であるということです。そのことに気付くことがとても大切なのです。
     江戸時代の禅僧の鈴木正三(しようさん)は「農業則仏行なり」といいました。お百姓さんが毎日、毎日、農業に精を出すことがそのまま仏教の修行なのだといったのです。農業にかぎらずどのような仕事であっても、日常の仕事そのものが信仰を深める「場」です。そのことに気付けば、「人生は芸術である」の教えがぐっと身近かなものになります。
    
  (3)専門芸術の大切さ
    
     「専門芸術」に親しみ、身につけ、その技量をグレードアップさせる「コツ」をつかむことが「芸術生活(人生芸術)」をグレードアップさせるのにもとても役に立ちます。「専門芸術」はその意味で「芸術生活(人生芸術)」にとって大切です。私たちになじみ深い“お茶”や“お花”は「芸術生活(人生芸術)」の中に入りますが、「専門芸術」ともいえるかもしれません。ですから、「芸術生活」を豊かにするためにも“お茶”や“お花”は大切です。“お茶”や“お花”がかつて「花嫁修業」といわれたのにもそれなりの理由があったのです。

  (4)神に依る芸術

     “芸術は人間が制作するのであって、神がするのではありません。だが人間は、神に依らずしては、真の芸術をものすることはできない。”
    
     “神に依らないでは本当の芸術はできない、PLの教えは、神に依る自己表現の道を明確にお説きしているのであります。PLの信仰によって、あなたの人生をかぎりなく発展せしめ、あなた独特のすばらしい芸術表現を展開していただきたいと思います。”
    
     “「人生は芸術である」とは、神業の中に必死になって飛び込んでいき、真向一途に信仰し、ひたすら神に依りつつ自己表現する、芸術をするという力強いあなたの人生でなければならないということなのです。”
    
     二代教祖は神に依る芸術の大切さを説いています。
     人は神により生かされ、同時に、芸術すべく自から生きてもいるのです。
     人生が、人の生活が、そのまま芸術であるには、宗教的信仰が伴なわなければなりません。「人生は芸術である」とはたんなる日常の言葉ではなく、「祈りの言葉」であり、信仰の神髄なのです。
     二代教祖と親交があり、PLの教えに深い関心と理解をもっておられた仁戸田六三郎先生(哲学者、早稲田大学教授)は、「生活がそのまま芸術であるには、宗教的信仰がなければならない」といっておられました。

2.PL宣言からPL処世訓へ
  
  二代教祖は、「みおしえ」によってPL処世訓を授かったときのことを次のように語っています。

  “PL処世訓は本教の「憲法」ともいうべきものであります。
   この処世訓が神授かったのは、PL教団開教1年目の昭和22年9月29日の早暁のことでありました。その時はちょうど広島支部に滞在しておりました。”
  
  “その夜、一時間半ばかりの間に全21ヶ条が授かったのであります。雨がどしゃぶりに降っておる夜のことでありました。”
  
   PL処世訓は「真理の言葉」であり、神律であって、人律ではありません。
   法律とか規則とか風習のような人間が作った人律に反しますと刑罰を受けたり、仲間はずれにされるとか、いろいろ社会的な制裁を受けることになります。
   神の教えである神律であるPL処世訓について、二代教祖は次のように言っておられます。
  
   “これを守れば、そこに幸福な人生が展開されるのであり、守らなければ、幸福にはならないのであります。”
  
   PL処世訓21ヶ条を守らないからといって、処罰されたり処分を受けたりすることはありません。しかし、心安らかな楽しい、幸福な人生を送ることができなくなるのです。
  
   昭和20年8月15日の終戦の日、二代教祖は不敬罪で有罪という不当な判決(ひとのみち教団事件)で入獄していましたが、同年10月9日に大赦によって出獄しました。
   そして、同年11月3日にPL宣言を世に明かにしました。
   このPL宣言で、二代教祖は「人生は芸術なり」と説かれたのです。
  
  “人生は芸術なり。人は芸術生活をなすとき始(はじ)めて人生の意義と妙味とを識(し)り得べし。芸術生活とは何ぞや。各人がその個性を各自の職域において自由に表現することなり。人の個性は私利私欲に捉(とらわ)れず自我を離れ客観の境地に住し、人類福祉の為の上に立たざれば高度に表現する事を得ず。吾人は茲(ここ)に自我を離れ極(きわ)めて自然に極めて自由に自己の個性を表現し、併(あわ)せてこの思想を人々に知らしめ植えつけ共々(ともども)に世界文化に貢献せんとす。これをPL運動と謂(い)う。”
  
   このPL宣言が、昭和21年9月29日の「PL教団の立教」を経て、昭和22年9月29日のPL処世訓21ヶ条に結実しました。
  
(1)二代教祖の悟り

    “「人生は芸術である」ということは私の悟りであります”
    
   PL処世訓21ヶ条の中でも、この第1条「人生は芸術である」こそが二代教祖の悟りの根本であり、PLの教えの中心です。

     “処世訓の第1条には「人生は芸術である」とありますが、この第1条があって、あとの20ヶ条もあるわけであります。あとの20ヶ条も全部この第1条に包含されるのであり、1ヶ条1ヶ条が、「人生は芸術である」につながっているのであります。同時に1ヶ条1ヶ条がたがいに関連しあっているのであります。”
    
     二代教祖の悟りは人間の在り方についての真理の総体をPL処世訓21ヶ条として捉えるものです。その中心であり、要(かなめ)が、第1条「人生は芸術である」です。
     二代教祖が昭和35年(1960年)にはじめて広く世に問うた本の題名が『人生は芸術である』でした。『人生は芸術である』はこの年の大ベストセラーになり、一つの社会現象にまでなりました。
     俗な言い方をしますと、「御木徳近」といえば「人生は芸術である」、「人生は芸術である」といえば「御木徳近」なのです。
    
(2)「人生は芸術である、楽かるべきである」

    “「人生は芸術である」ということは自己を表現せよということです。
    「人生が芸術」であるとは、真実の自己を表現するということです。真実の自己は物事に対して一生懸命努力するところにのみ現われるのであり、人は自己の真実を現わすことのできる場合が、一番たのしく幸福なのです。日常生活の一つ一つに自己の息吹をかけ誠をこめてこそ、意義があるのであり、幸福感もまたそこに無限に伴なうのです。”
    
    “君は何か?と問われたら僕は「芸術するんだ」と答える。究極するところ、「芸術する」ということが「人である」ということなのだ。一切の論議はそこから生まれるのでなければならない。人生は芸術である、楽しかるべきである。楽しくないというのは、どこかが間違っているのである。
     こんなに合理的に微妙につくられている人間の世界が   神業の世界が   幸福でないはずがない。どう考えてみても人生は楽しかるべきである。そこに思い至って、「人生は芸術である」   人が神業を   神の芸術を   更に芸術するために、宇宙はつくられているのである   という、この真理が理解できたときに、はじめて人生は幸福そのものとなるのである。”
    
     この世の中に現われたあらゆるもの、それらすべてを神業として肯定して受入れる、そして、それを素材として創意工夫をこらし誠をこめて芸術するのが人間です。「この神業はいやだ!」と否定してはいけませんし、神業を受入れるだけの消極的な在り方でもいけません。いやだと思う神業でも、逃げることなく、その神業を素材として「芸術するんだ!」という積極的な在り方が大切です。「そんなことはわかっている!」だけではダメで、それが実践されなくては楽しくなく幸福にもなれません。PLの教えは実践の教えです。とにかく「芸術する」ことが大切です。
     「誠をこめる」とは、芸術の素材であるすべての神業の持ち味を十分に引出し、調和させながら芸術すべく「努力」することです。
    
(3)「芸術する」のは人間だけです
    
     この世の中で人間のみが芸術することができるのです。
     神は直接「芸術する」のではなく、人間が神に依り芸術することを通して芸術しておられるのです。また、神が人間として現われていること、宇宙の森羅万象として現われていることを、比喩的に「神の芸術」ということがあるのです。
     動物は芸術することができません。動物は本能に支配されていて本能から自由ではないからです。人間は本能に支配されるばかりではなく、自由である側面も持っているからこそ芸術することができるのです。神は芸術させるために人間に自由を与えてくださったのです。
     人間は自由であるからこそ、「悪」に走ることにもなります。本能に支配されて自由のない動物には「善」も「悪」もありません。
     ですから、人間には「悪の芸術」も可能で、そこに喜びを感ずることもあり得るわけです。「末梢神経の快楽」といわれるものです。しかし、それは究極のところで「楽かるべき」ものとはなり得ないのです。幸福になることもありません。そこには必ず「くったく」が伴ってしまうからです。
     「善の芸術」こそ神が示しておられる方向性です。そのことに気付かなければなりません。
     人生は「苦」であり、そこからの「解脱」を説く仏教の教えから出発された二代教祖の信仰の到達点がこの「人生は芸術である、楽かるべきである」の悟りなのです。
     この世の人生を否定的に捉える仏教に対して、人生を肯定的に捉える二代教祖は教えの基本であるPL処世訓21ヶ条を「あの世」ではなく「この世」のものであることをはっきり示すために「神訓」でも「人訓」でもなく、「教訓」でもなく、あえて「処世訓」と名付けられたのです。「名に因って道がある」(PL処世訓第12条)です。
     PLの教えでは「あの世」はどうなるのか?それについて二代教祖は「人生は芸術である」の教えが見事に貫かれた独特の「霊魂不滅論」を説いています。二代教祖の霊魂不滅論については別に紹介することに致します。
    
(4)「努力する」は「芸術する」こと

   二代教祖は“真実の自己は物事に対して一生懸命努力するところにのみ現われる”と説いていますが、「努力する」の意味は日常生活で使われるときの意味とちょっと違っています。目には見えない「真実の自己」(個性)を目に見える形に表現するには、ある種の「力(デユナミス)」の「働き(エネルゲイア)」が必要です。そのとき働く「力」のことを二代教祖は「努力」と表現しました。それは「努(つと)める力」とでもいうべき「力」のことです。「デュナミス」、「エネルゲイア」は古代ギリシャの哲学者アリストテレスの言葉で、ふつうは「可能態」、「現実態」と訳されています。目に見えない本質が「デュナミス」、それが目に見える形になったのが「エネルゲイア」というように使われます。
     「誠をこめる」というのもほぼ同じ意味です。ですから、二代教祖が「努力せよ」、「誠をこめよ」と言うときは「芸術せよ」とほぼ同じ意味です。
    
     “私は長年教えを説いてきました経験上、結論としていえることは「人生は努力である」ということです。努力ないところに喜びも無ければ、物事の成功も絶対あり得ないのです。商売が都合よくいかないとか、技術が向上しないとか、勉強の能率が上がらないとか、家庭が円満でないとか、人事がうまくいかぬとか、人とうまく仲良くできぬとか、家計が苦しいとか等々・・・すべて努力が足りないからです”
    
     “「自分は駄目だ」というような卑下や悲観するようなことほど、つまらないことはありません”
    
     自分を卑下したり悲観する前にまず「努力する」、「芸術する」のです。

(5)「人生は芸術である」と「人生は芸術であるべきである」の違い

    “天地の間に厳然として「人生は芸術である」という自己に立っていなくてはならない。「人生は芸術である」と端的に直接的に、そのものズバリ言い現わしたものです。「人生は芸術であるべきである」では、そういう考え方をしなさい、そこを目指していきなさい、ということで「真理を表わす言葉」になりません。”
    
     二代教祖は「人生は芸術である」であって、けっして「人生は芸術であるべきである」でないことを強調しています。
     「人生は芸術であるべきである」では、人生とはそうあるべきだと考える「考え方の一つ」にすぎないものになってしまいます。「人生は芸術である」は「考え方の一つ」ではなく、「気付き」であり、「悟り」なのです。
     ところで、「人生は芸術である」のに、「人生は“楽し”」ではなく「人生は“楽かるべきである”」になっています。なぜでしょうか。
     人生が楽しいか、楽しくないかは断言できませんが、「人生は楽しかるべきである」とするならば、どのような人生であればそのようになるかといえば、「人生は芸術である」の人生こそがそれにあたるというのが二代教祖の教えです。「人生は芸術である」の教えは「人生は楽かるべきである」と過不足なく一致しているのです。
    
(6)ひとのみちの教えからPLの教えへ

     初代教祖は「世の中に現われたる一切のものは、皆人を生かすために生まれたるものと知れ」と悟られました。この世の中のあらゆるもの、森羅万象は人が毎日を生きていくために神が現わし現われているものであるという真理に気付きなさいという教えです。
     二代教祖の悟りは初代教祖が現わしたこの真理を大きく「人生は芸術である」と捉え直すものです。「世の中に現われたる一切のもの」を「芸術の素材」と捉えたのです。
     「芸術する」とはものごとに「誠をこめる」、「努力する」ことです。
     人が自然界にあるもの(自然物)、そして人が作り出したもの(人工物)のすべてを素材として、その持ち味を生かし、毎日、毎日を自己表現してくらすならば、そのくらし自体がすばらしい芸術であり、楽しく充実したくらしとなるのです。

3.芸術は「イメージの造型」です

   “芸術とはイメージの造型であります。イメージとはその人その人の心の調べであります。その人の生命の躍動であり、リズムであり、ハーモニーであります。イメージはその人独自のものであり、無限に流転・進展・展開・発展するものであり、このイメージの造型にこそ人間としての生きる喜びがあるのであります。”
  
   目には見えないその人独特の個性、モチーフによって目や耳などの感覚器官から取り入れた対象を素材に心の中につくりあげたイメージを目に見える形に表現するのが芸術です。心の中に具体的なイメージをつくるにあたっても、そのイメージを目に見える形に表現するにあたっても、その人の身の廻りのあらゆる「もの、こと」が素材として使われます。
   人はあらゆる森羅万象、神業を素材として芸術するのです。
   心の中のイメージを目に見えるように造型するのが芸術です。
   芸術は「イメージの造型」なのです。

(1)「目に見えないもの」と「目に見えるもの」

  ①相転移
     芸術は「イメージの造型」です。目に見えない自分の心の中のイメージを目に見えるように造型するところに芸術があります。
     その人の個性(まこと)はその人の本質であり、目には見えないものです。目には見えない本質を目に見えるものに「相転移」させるのが芸術です。芸術することによって目に見えないその人の本質、個性が他の人にも自分にも目に見えるものとして現われるのです。
     「相転移」とは「相が変わる」ことです。
     水は、常温では液体ですが、0℃以下になると固体の氷になり、100℃以上になると気体の水蒸気になります。
     同じ水(H2O)でも固体の「相」(あわられたすがた)になったり、液体の「相」になったり、気体の「相」になったりします。温度や圧力を変化させたとき、ある点(臨界点)まで来たとき一挙にそれまでと「相が変わる」ことを相転移というのです。
     感情やクセであっても一定の範囲内に収まっていて、度を過すことがなければ、「みしらせ」にはなりません。でも、度を過すと相転移を起こして「みしらせ」となるのです。
  ②古代ギリシャの哲学者で万学の祖といわれるアリストテレス(紀元前384~322)は、目に見えない本質をデュナミス(可能態)、目に見える現象をエネルゲイア(現実態)と捉え、世界の在り方をデュナミスがエネルゲイアに変化するプロセスと捉えました。
     芸術とは人が自分のデュナミスをエネルゲイアにすることです。デュナミスはダイナミック、エネルゲイアはエネルギーのそれぞれ元の言葉ですが、現在ではその意味はかなり違ってきています。
     「力」をデュナミスといい、その「働き」をエネルゲイアという使い方があることは前に記しました。
    
  (2)実行律(「芸術する間のしらべ」)
  
     自分のイメージを表現するのに絵具を用いれば絵画となり、言葉ならば文学、メロディー、リズムならば音楽となります。ダンスやバレエの場合には、身体そのものを用いることになります。
     自分の心の中のイメージ、思いを表現する絵画や彫刻、建築、文学、音楽などの専門芸術は結果として後世に残るすぐれた芸術作品を生み出すことにもなります。
     近代ヨーロッパの芸術論、美学では、「芸術とは何か?」が論じられました。芸術はある特別な分野、領域のことだと考えられていたのです。たとえば、「料理は芸術か?」いろいろと論じられました。ドイツの有名な哲学者カント(1724~1804)は「料理は芸術にあらず」と考えていたそうです。
     結果としてすぐれた(芸術)作品が生まれることが芸術にとって必要なことだとされていたのです。
     しかし、結果としてすぐれた(芸術)作品が生まれるかどうか、その作品が後世に残るか否かにかかわりなく、人間の行為そのもの、「人生のプロセスそのもの」が芸術だと二代教祖の悟りは芸術を大きく捉え直したのです。
     そうしますと、お茶(茶道)もお花(華道)、お料理も芸術ですし、家事でもビジネス、対人関係、社会との関係等々…、人間の生活ことごとくが自己を表現する場であり、芸術ならざるものはないのです。
     人生、人間の日常生活がそのまま芸術であるとすると、そこには当然時間性、プロセスが加わってきます。
     二代教祖はそれを芸術における実行律と捉えました。実行律は「芸術する間のしらべ」で、芸術における形式(律)、内容(律)よりも大切にしなければならないと二代教祖は説きました。
    
4.「しらべ高き芸術」=よき芸術

(1)芸術にはグレード、段階、優劣があります
    
     同じ芸術であっても、それがしらべ高き芸術であるか否か、よき芸術であるか否かが大切な問題です。
     「音楽は文学よりも優れている」とか、逆に「文学は音楽よりも優れている」ということではありません。まして、仕事や職業そのものに貴賎があるということではありません。どんな仕事、どんな職業であっても、そこには優れた芸術も劣った芸術もあるのです。
     よき芸術には美があります。調和とバランスがあります。品位があります。そして創意工夫があるのです。
    
(2)「芸術は美しくあってはならない」

     岡本太郎さんは「芸術は美しくあってはならない」と言いましたが、それはマンネリ化した、陳腐で固定観念となってしまっている「美」にとらわれてはならない、そんなものは“美”ではないと言いたかったのだと思います。「美」と「醜」を二分法(「デイコトミー」AであればBでない、BであればAでないという区分、考え方)的に単純に決めつけてしまうのでは、そのものの本質に迫ることはできないと岡本太郎さんは言いたかったのだと思うのです。美の中にも醜があり、醜の中にも美がある、“創意工夫された生命力にあふれたもの”、それこそが美しいのだという岡本太郎さんの強烈な主張であり、パラドックスなのです。“美”そのものを否定しているのではなく、「美とは何か?」、「何を美というか?」の問題です。

(3)「芸術になっている」と「芸術になっていない」

     「芸術になっている」とか、「芸術になっていない」ということがありますが、それは「よき芸術になっている」、「よき芸術になっていない」というべきところを省略しているのです。
     私たちは常により「しらべ高き芸術」、より「よい」、より「優れた」芸術(=人生)を実現しようと意欲し、実践するように神から生かされ、同時に自から生きているのです。
     「世界平和の為の一切である」(PL処世訓第14条)、「一切は進歩発展する」(PL処世訓第16条)と信念し実践する、芸術することが自分自身をグレードアップさせることであり、そこに楽しい人生が実現するのです。
   「芸術にはきらめきがなければならない。芸術は明快でなければならない。芸術には誠意がなければならない」のです。
  
5.「世界平和の為の一切である」の芸術

   この地球上には70億人もの人々がいるそうですが、それぞれの人が独特の他に変えがたい個性を持っています。そのように神が現われているのです。それぞれの人がその個性を自由に発揮しながら、全体として調和とバランスのとれた一大ハーモニーとなるところに、人間と世界の究極の在り方としての「世界平和」が実現します。私たち一人一人が「世界平和」に参加しているのです。それによって「世界平和」が実現するのです。
   世界から戦争がなくなることは「世界平和」にとって大切なことですが、人間の環境や生態系も含めて世界が全体として「調和とバランス」のとれた状態が「世界平和」です。
   「世界平和」こそが神の方向性です。
   「世界平和の為の一切である」(PL処世訓第14条)という神の方向性にかなった自他祝福の楽しい芸術生活をおくる人々でこの世を充満させようと二代教祖は「人生は芸術である」の教えを世界に布教されたのです。
   
6.「人生は芸術である」の教えと「みしらせ、みおしえ」の教え

   二代教祖が悟った「人生は芸術である」の教えがPLの教えの基本中の基本です。
   では、「人生は芸術である」の“PLの教え”と幽祖(ゆうそ、かくりおや)、初代教祖以来の“この教え”の背骨ともいうべき「みしらせ、みおしえ」の教えとの関係について考えてみましょう。
  
(1)「みおしえを守る」ことは「芸術する」こと

     「みおしえを守る」ことを二代教祖は「芸術する」と積極的、肯定的に捉え直し、幽祖、初代教祖から引継がれた「みしらせ、みおしえ」の教えをさらに進歩発展させたのです(「一切は進歩発展する」PL処世訓第16条)。
     「みしらせ」は災難、病気、けがなど私たちが苦痛を感じる、いわば消極的、否定的なもの、マイナスのもので、「みおしえを守る」ことによってみしらせ以前の元の状態に戻す、ゼロに戻すというイメージがあったと思います。
     二代教祖は、「みしらせ」をバネとして「みおしえを守る」=「芸術する」ことによって自分自身を変えて行く、グレードアップさせる、進歩発展させていくのだと「みしらせ」を肯定的、積極的に捉え直したのです。「みしらせ」はピンチではなく、自分自身を変え、進歩発展させて行くチャンスとなったのです。
     それが、「人生は芸術である、楽かるべきである」の教えです。
     自己が出会うことになる「もの(物)」、「こと(事)」、つまり神業を否定してしまったら、あなたの人生の流れはそこで停滞し、よどんでしまいます。悶々と悩み苦しむことになってしまいます。
     どのような神業でもこれをいったん肯定する、そして、すべての神業を素材としてよき芸術をしようと意欲し実践するのです。
    
(2)「yes,but…」(そのとおりです、しかし…)。

     どんな神業(この世に現われ、起きるすべてのもの、こと)でもいやがることなく無意見、無条件に受け入れ、肯定する(yes)、しかし(but…)、そのままそれに流されてしまうのではなく、反転、向きを変えて、すべての神業を素材として「芸術する」のです。それによって自分を変え、向上させ、楽しい人生を自分のものとするのです。すべてについて肯定的、積極的な方向、方法を示してくれる教え、それがPLの教えです。
     PLの教えは徹底的に実践の教えです。それは肉体の実践であり、精神の実践です。
     古代ギリシャの哲学では「ペリアゴーゲー」(向きを変える)、それまでの人生の方向を変える、生き方を変えることの重要さが強調されていました。これまでのあなたの人生の向きを変え、「楽しい人生」へと舵(かじ)を取る正しい方法、生き方を教えてくれるのがPLの教えです。
    
7.PLの教えの歴史と伝統

(1)幽祖の教え

     幽祖(徳光教の教祖)は初代教祖(ひとのみち教団の教祖)の師匠で、弘法大師を唯一の師匠とし、犬鳴山や高野山の深山で修業した行者、霊能者で神秘的な霊力の持ち主でした。
     幽祖は「人の病気や災いは不自然な心によっておこる」と悟得され、人の病気や災い(みしらせ)の原因を直観し、それを正す心得(みおしえ)をその人に授ける特別の能力を持っていました。
     幽祖はそのような特別の能力、「みおしえ能力」は自分だけのもので、「自分が亡くなったあと、一万年経ってもみおしえのできる者は現われないだろう」と言っていたそうです。
     ところが、幽祖はまもなく自分の寿命の尽きることを覚(さと)ったときに、初代教祖に「みおしえ能力」が途絶えることはないと教えられたのです。幽祖は初代教祖に「ただ今の18ヶ条の徳光教の教訓が21ヶ条にならねば真の道を説くことはできぬ。あと、3ヶ条残っている。その3ヶ条が啓示(明らかにされること)されれば、この教えは完成する。あなたは私の死んだあとの土地に榊(さかき)を植えて“ひもろぎ”として一心に守っていなさい、そうしたら、残り3ヶ条を現わす偉大な人が現われる」と遺言されたのです。幽祖は、自分が亡くなった後に、残りの3ヶ条を「みおしえ」によって現わす人が現われること、「みおしえ能力」をもつ後継者が現われることを初代教祖に開示されたのです。
    
(2)初代教祖の教え
 
     大正8年(1919年)1月4日に亡くなった幽祖から託された遺言どおり、初代教祖は幽祖が亡くなられたあとの土地に榊を植え、“ひもろぎ”として守ったのです。
     そして、4年有半、大正12年(1923年)9月16日、初代教祖は「かみは一体である 万神なきことを知れ」を、大正13年(1924年)2月9日に「世の中に生きるものの元は皆みず(水)である その元はひ(日)である」を、同年10月26日には「世の中に現われたる一切のものは皆ひとを生かす為に生まれたるものと知れ」と、残り3ヶ条すべてをみおしえによって授かったのです。
     初代教祖が幽祖の「みしらせ、みおしえ」の教えの正統な継承者として現われたのです。
     このようにして、「一万年経っても現われない」とされていた「みおしえ能力」が幽祖の遺言を通して初代教祖によみがえる神業が起きたのです。三島由紀夫の遺作となった「豊饒の海」四部作の輪廻転生する主人公のように幽祖が初代教祖としてよみがえったと捉えることもできます。
     ひとのみち教団の初期、初代教祖は自分以外だれもみおしえのできる人のいない時に「みおしえのできる人間を201人つくるのが理想である」と、ずっと念願していました。
     そして、二代教祖がみおしえができる心境になったと初代教祖が直観されたとき、「これで201人できたも同じだ」と喜んだそうです。
    
(3)二代教祖の教え

  ①二代教祖は「人は本来、だれでもみおしえのできる能力を潜在的(可能的=デュナミス)にもっている」と「みおしえ能力」をより普遍的なものと捉え直しました。
     二代教祖のこの捉え直しによって、みおしえをすることが「芸術する」ことの最高段階であり、だれでもがそこに到着できる可能性(デュナミス)が開かれたのです。
     私が二代教祖からおききしたのは「わしが示す正しい方向で修行をし、わしがこれならよしと認めた境地に達した者に対し、わしが背中をちょっと押すだけで、みおしえが出来るようになる」ということです。
     人は「みおしえ能力」を持った師匠の下で師匠が示す正しい方法で修業することによってその潜在的(可能的、デュナミス)な「みおしえ能力」を現実化(エネルゲイア)することができるのです。
     仏教の開祖のおシャカさま(ブッダ)は「苦に満ちた世界」の連続である輪廻転生から「解脱」する、「悟る」ためには、ただがむしゃらに難行苦行してもだめで、正しい修行方法のあることを悟りました。そして、自からその正しい修行方法を実践して「解脱」しました。そして、弟子たちにその正しい修行方法を指導したのです。
     宗教的に高い境地に至るには、正しい方法を知らなければならず、そのためには正しい方法を会得している師匠の下で正しい修行をする必要があるとおシャカさまは説かれたのです。
  ②二代教祖は宗教を「精神造型」、「宗教芸術」と捉え、「芸術」の意味をさらに大きく捉え直しました。そして、PLの教え以外の別の宗教を信仰している人でも、PLの教えを実践することによって、その別の宗教の信仰をさらに深めることができると説いたのです。おどろくべき教えです。「超宗教」、あるいは「脱宗教」という方向性を示されたのです。「超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念塔」(大平和塔)はその方向性の象徴といえるでしょう。
  ③マインドフルネス
     最近、アメリカやヨーロッパではブッダの説いた初期の仏教が「マインドフルネス」(mindfulness)として甦えり、精神鍛錬の技術、テクニックとして人気をあつめているそうです。
     ベトナム戦争当時、南ヴェトナム政府に抗議の焼身自殺をする僧侶の映像が世界に衝撃を与えましたが、その僧侶の弟子で、アメリカに亡命したティク・ナット・ハン師が有名です。ティク・ナット・ハン師は来日したときに、NHK教育テレビの宗教番組「こころの時代」(毎日曜日の午前5時より6時まで放映)に数回にわたって出演していました。
     人は心に煩悩のある状態、つまり「迷い」の状態にあるために毎日の生活が苦しいものになるが、それは自分が知らないうちに「悪い癖」とでもいうべき習慣的で盲目的な行為にからめ取られているからだ、その「悪い癖」、盲目的で習慣的となっている行為が永久に出ないようにするために「マインドフルネス」の実践が必要なのだと説かれているのです。
     「マインドフルネス」は「気づき」と日本語に訳されていますが、無意識についつい習慣的に出てしまう「悪い癖」を止めるために、「今、ここ」で自分が行っている一つ一つの行為(たとえば「呼吸」とか)に意識を集中することによっていつもの「悪い癖」が出るのを止めることができる、それが「マインドフルネス」の実践であり、「悟り」に至る実践となるというのです。
     「きのう、会社の上司におこられてしまった。今日もまたおこられるのではないか」とくよくよしてしまう、「あしたもまたおこられるのではないか」と先のことを思い悩む。このように「過去」や「未来」にとらわれるのではなく、「今、ここ」、「現在」に意識を集中することを習慣づけることによって自分自身を変えて行こう、変えることができるというのが「マインドフルネス」、「気づき」です。
     「人生は芸術である」の教えは「マインドフルネス」と親和性があり、それを先取りしているものです。
  ④『今を生きる』
     二代教祖には『今を生きる』の著書がありますが(昭和53年・1978年にサンケイ出版、現在の扶桑社より刊行)、この本の中で二代教祖はいろいろな実例を挙げながら「今、ここ」に生きることの大切さを説いています。
     アメリカのある医学者は、「仏教の瞑想方法である禅から一切の宗教色を取り除いた」瞑想方法を「マインドフルネス」と科学的なものとして定義し、精神療法に著しい効果があると言っています。また、スポーツ選手、アスリートのためのメンタルトレーニングでも効果を上げているそうです。
     「マインドフルネス」はこのように宗教的領域だけでなく科学的領域にも及ぶもので、「宗教と科学は一致する」とのPLの教えはその意味でも「マインドフルネス」を先取りしているのです。
    
(4)「みしらせ、みおしえ」の教えから「人生は芸術である」の教えへ

      初代教祖から幽祖にまでさかのぼる「みしらせ、みおしえ」の教えをだれにでも理解でき、実践できる普遍的な教えに進化させ発展させたのが二代教祖です。それが「人生は芸術である」の教えです。

     “「神様を信じなさい、救われます」というようなことを、いくらいってみたところで、ただそれだけでは    体験することも実証することもできないのですから    どうにもなりません。
     自分は不幸にならないのであると信じていくことです。そういう信念のもとにひたすら神に依りつつ自己表現をしていくところに、快適な能率的な生き方ができます。しかも「人生は芸術である」と認識して、この境地を深く究めていこうというのが我々の信仰なのであります。”
      
     “人生は芸術である。芸術は自己表現である。自己は他にたぐいなき独特の自己である。独特の自己   個性は終生限りなく燃え続けるほのおである。燃ゆる自己のほのおを造型するのが芸術である。”
  
   二代教祖はその境地を短歌に託しています。
    
     “この燃ゆる 焔絶えなむ 時知らに 己が一生(ひとよ)は 夢とすぎてむ”
    
     人間とは何であるか?
     「人間は芸術する動物である!」
     「自己が手がけるそのことごとく、芸術ならざるものなし!」と神に祈り、芸術に邁進(まいしん)し、楽しい人生を謳歌したいものです。